第三幕:03



 外に出ると、月明かりが眩しかった。……夜、電灯も存在しない屋外でこんなにも景色が鮮明に見渡せるのは、やはりおかしい。私はいつから「こう」なったのだろう。この世界に来てからはずっとこんな調子な気がする。それとも、元いた世界よりこの世界の月は明るいのだろうか?
「真澄さん」
 私は辺りの様子を慎重に窺っている彼の背中に話しかける。
「勝手を言ってごめんなさい」
「光様」
 真澄さんが遮るように言葉を重ねてきた。振り返らずに。
「地下牢にいた知り合いというのは、何者なのですか」
 抑揚のない声にどきりとする。なんとなくだけれど、そのことについては真澄さんは詮索してこないだろうと思っていた。
 何と答えよう。
「ここに来る以前に……、お世話になった人です。と言っても、三日程ですけど」
 少し考えたあと、簡潔にそう答えてみた。
「では、あの者は町民なのですか?」
「そうです。何故あんな場所にいたのかはわかりませんけど」
「…………」
 真澄さんはそれきり沈黙した。
 何故あんな場所にいたのか。そんなの犯罪者だからに決まっているじゃないか――そう言われずに済んで、良かったのか悪かったのか。ただ、胸の中にもやもやとした嫌な気持ちが残った。菩提さん。何かの間違い、だよね……。
 真澄さんは周囲の物音を聴いているのか、その場に留まったまま未だ微動だにしない。私はその後ろ姿を眺めながら、いざという時の対処法を考えた。地下牢を出るまでの間に、彼には瑠璃さんにどうしても知らせたいことがあるとだけ話した。まさか〈魔羅〉に逢う気でいるだなんて言えない。真澄さんは何枚か霊符を所持しているようだけれど、先程地下牢の入り口に何枚か使ってしまって、守護符の残りは少ない。いざとなったら真澄さんはきっと私に守護符を譲り渡すと思う。〈御殿〉に来る以前は私の体内の霊力がゼロだったために霊符の力を発動できなかったけれど、今なら多分使えるはずだ。とはいえ、麗燈さんから受け取った貴重な霊力を勝手に使ったらあとで怒られる可能性が……いや、いざとなったら仕方が無い、それも覚悟しよう。それより問題は真澄さんだ。彼は身に宿す霊力の量が平均より少ないという。そんな彼が呪縛符や退魔符だけで闘えるだろうか? 多分無理だ。いざとなったら。いざとなったら、私が彼の前に出よう。
 私がそんなことを考えているとは露知らず、真澄さんはすんと鼻を鳴らして、手で鼻と口元を覆った。横顔だったけれど、怪訝な表情をしているのがわかった。
「光様、一旦戻りましょう」
 真澄さんが振り返りながら不意にそう言う。どうして。
「争いの気配がします」
「気配……?」
「と言いますか、何かが焦げたような匂いがすぐ付近から漂ってくるのです。おそらく第一師団が〈魔羅〉に当てた術の名残りなのでしょう」
 ああ、あの青い炎の。瑠璃さんの術を一度だけ見たことがある。それのことかな。ってことは何かが焦げた匂いっていうのは、〈魔羅〉が焦げた匂いで……。
「光様」
「はい、何ですか?」
 大人しく真澄さんの指示に従って地下牢に戻ろうと、私は既に彼に背を向けていた。
「音が――」
「音?」
 動きを止め、耳を澄ます。
 ずるり。
 聴こえた。何か、大きな重たいものを引きずるような、地面を擦る音が。
 ずるり、ずるり、ずるり。
 音は段々と大きく、そして明瞭になってくる。ずる、と擦る音の間隔も狭まってきた。近付いてきている。ずるりずるりずるりずるり。
 どくんと心臓が跳ねた時には遅かった。
「――真澄さん!」
 闇の中から突然何か巨大な塊が飛び出してきた。あれは、……大蛇の形を象った〈魔羅〉? そんな、この一帯には隠れられるような場所なんて無かったのに。〈魔羅〉は闇から溶け出すように忽然と現れるや否や、真っ直ぐに真澄さんへと向かって行った。
 真澄さんは抵抗する間もなく、とぷりと〈魔羅〉に飲み込まれる。その半透明な黒い体がぼこりと変形して真澄さんを包み込んだ。
「真澄さん、霊符を!」
 叫んだけれど、〈魔羅〉の中に閉じ込められた真澄さんは目を開けていなかった。意識を失っているのか、それとも。〈魔羅〉は真澄さんの中に入ろうとしているのか、次の瞬間その口をこじ開けた。ぞっとする。真澄さんが取り憑かれる。一度取り憑かれた者はもう元には戻れない。
「やめて!」
 夢中で駆け寄った。先程まで冷静に考えていた対処法は、何も役に立たなかった。でも、これだけはいえる。今私の足で助けを呼びに行っていたら手遅れになる。
 後先考えずに突っ込んで行くと、触れる直前で〈魔羅〉はさっと飛び退いた。ああ、全然それどころじゃないのに涙が出そう。その場に膝をつき、急いで真澄さんの上半身を膝の上に抱き起こす。震える手で口をこじ開けて中を確認した。〈魔羅〉の体の一部が残っていやしないかと思って。私が見た限りでは、それらしきものは見当たらなかった。
『なんだあ? 妙な嬢ちゃんだなぁ……』
 〈魔羅〉が何か喋っていたけれど、その時の私の耳には届いていなかった。真澄さんの胸に手のひらを当てる。心音が聴こえた。続いて口元に手を翳すと、息が吹きかかる感触が返ってきた。良かった、気を失っているだけだ……。目元に滲んでいた涙を乱暴に拭ってから、真澄さんの身体を揺さぶる。
「真澄さん、真澄さん」
『なあ嬢ちゃんよぉ……』
「目を開けて下さい」
『嬢ちゃんは人間じゃねえよなぁ? 匂いでわかるぜ。つうかさ……』
「真澄さん、ごめんなさい。私の所為だ……」
『俺の話、少しは聴いてくれねぇ?』
「うるさい!」
『ひぎっ』
 キッと〈魔羅〉を振り返りながら叱りつけると、〈魔羅〉が変な声を発した。元の通り蛇型に戻っている〈魔羅〉を思い切り睨みつける。
「誰の所為で真澄さんがこんなことになってると思うの」
『え、あの』
「あんたの所為でしょうが!」
『はいそうですね! まっことその通りでございますですね!』
「だから黙ってて」
『見掛けによらずすげえ威厳だなぁ……。やっぱ主の娘さんなのかなぁ』
 真澄さんは何度呼びかけても身体を揺すっても目を開けない。心臓は動いてるし呼吸もある、だけど彼は覚醒しない。〈魔羅〉にやられたから? ……そういえば、守護軍の人は〈魔羅〉によって齎された穢れをその身から祓うため、定期的に〈穢れ姫〉に浄化をしてもらっている。もしかしてそれが必要なのか。真澄さんは守護軍の人ではないし、なんというか、〈魔羅〉に対する免疫がないのかも。
 ……ん?
「今何て……?」
 〈魔羅〉の意味深な言葉が後になって聴こえてきた私は、無意識にそう聞き返した。一定の距離を置いてじっとこちらの様子を窺っていた〈魔羅〉は、私の台詞にひょこっと首を傾げる。
『えー、何が?』
「…………」
 とぼけているのか本気で言っているのかわからなかった。だって顔が無いんだもの。〈魔羅〉の知能ってどのくらいなんだろう。人語を話すことが出来る〈魔羅〉は上級魔だって瑠璃さんが言っていた気がする。〈魔羅〉はその脅威の度合いによって大きく低級魔、中級魔、上級魔に分けられるらしい。魔牢に収容されている〈魔羅〉は当然、低級魔であるはずで。やはり普通に閉じ込められているだけでは逃げ出せないはずなのだ。でも、もしかしたら。
「貴方はどこから来たの?」
 返答次第で今回の騒動の真意が大きく変わる。私は慎重に、極力声を荒げないように静かにそう尋ねた。
『えー。なんで嬢ちゃんにそんなこと教えてやらなきゃなんないわけ?』
 このっ、口答えするんじゃない! とは思ったが、〈魔羅〉が言うことにも一理ある。人類の敵である〈魔羅〉と穏やかに会話を交わすなんて、無謀な挑戦だっただろうか。
 〈魔羅〉は少しだけこちらに近付いた。思わずびくっとして真澄さんを抱える腕に力を入れたが、襲いかかってくる様子はなかった。
『じゃあさじゃあさ、交換条件にしようぜ。嬢ちゃんも自分のこと教えてくれたら話してやるよぉ』
 ……何っ?
 まじまじと〈魔羅〉を見つめる。今度は本気? 私の返事を待っているのか、当の〈魔羅〉はゆらゆらと左右に首を揺らして黙っている。その姿を見る限りでは、それが生物の血を浴びて狂喜する存在だとはとても思えない。
 私は戸惑った。瑠璃さんの目の仇と呑気にお喋りなんて――しかし私に〈魔羅〉を押さえつけて一方的に詰問できるような力が無いのもまた事実。
「自分のこと……」
 口の中で小さく呟き、真澄さんを見下ろす。目を覚ます気配はない。
『あ、一応言っておくけど今近くには嬢ちゃんたち以外に人いないからな』
 迷っていると、〈魔羅〉がそんな情報を提供してくれた。しかしヤツの言うことを真に受けて良いものか。
 ええい、モノは試しだ!
「そう、わかった。話すから教えてくれる?」
『いいよ。でも嬢ちゃんが先ね』
 いきなり強引に順番を決められて不信感を募らせつつも、私は口を開いた。
「さっき……、貴方は私を人間じゃないって言っていたけど、そんなことない。私は普通の人間だよ」
『……それだけ?』
 ううむ。
「じゃあ訊くけど、貴方は他に私の何が知りたいの?」
『嬢ちゃんの名前ー』
「名前?」
 拍子抜けして、私は思わず目を丸くした。でも、名前って……、何か深い意味があったりはしないかな? 魂取られたりしない? 教えて大丈夫?
「……光。志岐光」
 言ってしまった。
『光ちゃんかぁ。なるほどー』
 馴れ馴れしいぞ、〈魔羅〉よ。
「貴方はどこから?」
『ん、俺? 俺はねー、よくわかんない』
「…………」
 怒るな、ここで怒っては駄目だ自分。冷静に。
『よくわかんないけど、閉じ込められてた』
 ――それは、魔牢のことだろうか?
「誰に?」
『〈シュゴグン〉に』
 魔牢のことで間違いなさそうだ。
「そっか……、捕まっちゃったんだね」
『うん、わざとね』
「え?」
 わざと?
『俺すげー弱くてさぁ。精々溝鼠に取り憑くのが関の山で、兎に噛みついてみたりもしたけどすぐ逃げられるしさぁ、あんま生き血浴びられてなかったんだよねぇ。そしたら耳より情報。近くを徘徊してる〈シュゴグン〉に大人しく捕まれば生き血を貰えるって! 俺もう死にそうだったからさ、必死に這って行ったわけよ、その〈シュゴグン〉の元までぇ。何だっけなぁ、ダイイチシダン? の幹部が直々にとか何とか。忘れた。それからは死なない程度に甚振られる日々だぜ、生き地獄っつうの? でもそれも今日でおしまい。俺はたっぷり猛獣たちの血を浴びて、この通り最強になっちゃったからね! えへへっ、どうどう? 凄くね?』
 私は少しの間ぽかんとした。〈魔羅〉ってその……すごくお喋りだな。うん。
「……あ、うん。凄いね。というか、中々大変な日々を過ごしてきたんだね」
 率直な感想を述べただけだったけれど、同情してもらえたと思ったのか、〈魔羅〉はその場でぐるぐると回って全身で喜びを表現した。
『嬢ちゃん話がわかるぅ! やっぱただの人間じゃないんだろ〜? だって主の匂いがするし』
 私は沈黙した。もう、何でもいいか。霊力の〈器〉になれるという点でいえば確かに普通の人間ではないし、〈恭爺〉さんなんて貴方は石(の霊符)と同じだとか言ってたし……。
 というか、〈魔羅〉を喜ばせてしまったがどうしよう。これで良かったのか?
 〈魔羅〉によって提供された情報を整理してみる。この〈魔羅〉ははじめは弱かった。そうして自らの意志で守護軍に捕まり、魔牢に収容された。この〈魔羅〉を捕獲した守護軍とは第一師団の幹部の人間であり、〈魔羅〉に血を浴びせたのもおそらく同一人物である。
 一体何のために?
『なぁ嬢ちゃん』
「……なに?」
『ごめんな』
「え」
『そいつのことぶっ殺そうとして。嬢ちゃんの大事な下僕なのにさぁ』
 私は真澄さんに視線を落とした後、〈魔羅〉をじっと見つめ返した。
「……大丈夫、この人は無事だから」
『怒ってねえの?』
「怒ってないよ」
 嘘、本当はかなりむかついてる――自分自身に。私の所為だ。私が悪いんだ。
『嬢ちゃんって寛大なんだな』
「そんなことない……」
 〈魔羅〉は機嫌良さそうに尻尾をぱたぱたさせた。……あれ? 私なんだか〈魔羅〉と普通に会話しちゃってるけど……。
『あ』
 〈魔羅〉がふと真上を向いた。
「え?」
 私もその方向を見た――何か大きな影が降って来る。
 どすん! と大きな音を立てて着地すると、砂埃が舞った。何? 何が起こって――。
『危ねえええ!』
 〈魔羅〉は踏み潰されずになんとか降ってきたものを避けたようだった。必死なその声が同情を誘ったが、それよりも。
 私は降ってきたものを呆然と見上げた。人というには巨大すぎるその正体は、いつだったか私を抱き上げて不可思議な言葉をもたらした巨人さんだった。夜目にもわかるド派手な衣装、赤く長い髪。間違いない。
 しかし、何故に空から降ってきたのだ。
 状況が飲み込めずに思考を停止させていると、巨人さんがゆらりと〈魔羅〉を振り返った。手には巨大な剣を握っている。ただの剣じゃない、青い炎を纏っていた。
 ――〈魔羅〉を仕留める気だ。
『あ、あ、ああ』
「待って!」
 〈魔羅〉が恐怖に怯えた声を漏らしたのと、私が制止をかけたのとはほぼ同時だった。巨人さんは降り上げた剣の軌道を咄嗟に横へと逸らす。巨大な剣は柔らかい餅に爪楊枝を刺すがごとく地面にぐさりと突き刺さった。
『おやおや……』
 巨人さんが地面に突き刺さった剣をそのままに、私を振り返る。
『情けをかけるのかね? これに』
「え……」
 情け? そんなつもりではなかった。でも、この〈魔羅〉には色々と情報を提供してもらったし、いきなりここで命を奪うのは……、可哀想?
『あ、あ、あああ主』
 〈魔羅〉が今にも泣きそうな声で巨人さんに向かってそう言った。あるじ?
 え?
「主って? 貴方が〈魔羅〉の頭なの!?」
『まさか』
 巨人さんはあっさりと否定して、肩を竦めた。そうか、たった今その〈魔羅〉を倒そうとしていたのは彼だった。
『さあ行け。光が情けをかけてくれると言ったんだ、見逃してやろうじゃあないか』
 巨人さんが剣を引き抜きながら言うと、〈魔羅〉は慌てた様子で夜の闇の中へと姿を消した。
 ……行っちゃった。
 心臓の音が速い。驚き故なのか、恐怖しているのか。
『やれやれ。随分と物好きな娘だったんだねえ、汝は。あれに情けをかけるとは』
 巨人さんが歩み寄って来て、私の目の前でしゃがみ込む。真澄さんのことをしばらく見つめたあとこちらに手を伸ばしてきた。
「なっ、何をする気ですか」
 思わず真澄さんを両手で隠すように抱き込むと、巨人さんは唇を緩やかに弧の形に変える。
『その者の穢れを祓ってやろうと思ったんだが』
「え……、できるんですか?」
 巨人さんは私の質問に答えることなく真澄さんの頭を手で覆った。しばらくそうしていると、真澄さんの蒼褪めていた顔が血色良くなった。本当に助けてくれているみたいだ。
 巨人さんは真澄さんから手を離すと、私のことをじっと見つめた。緑の瞳が相変わらず宝石のように美麗だった。
『ふむ、健康そうで何より。ここでの役目は順調に務めているかね?』
「……多分」
 急に思い出して頭が痛くなってくる。巨人さんは麗燈さんの知り合いなのだった。
『よしよし。汝は稚いから心配していたが、問題なさそうだねえ』
 いや、大有りなんですが。というか今「稚い」と言ったな。
「私は十五です!」
 つい向きになって叫ぶと、巨人さんが本気で驚いたように目を見開いた。
『おや、そうだったのかい。てっきり十にも満たないものと思っていたが』
「…………」
 どうしよう、怒りのあまり声が出ない。
 巨人さんが立ち上がり、腰に手を当てて私を見下ろした。
『さぁて。私が汝の元を訪れたのは他でもない。「計画」に支障をきたすような変事が起こったからさ。人間が起こす不祥事に関しては手を出さない約束だが、今回の場合は別さね。あの子も今は他事に気をとられていることだし、私がちょいと手を貸してやらないとねえ。光、わかったかい?』
 いや、わからない。激しくわからない。巨人さんの言葉に私は混乱するばかりだった。
 その時、腕の中で真澄さんが唸った。あ……、目を覚ましそうな予感。
『おっと、こうしちゃいられないね』
「え?」
『光、汝が行きたい場所まで飛ばしてやろう。目を閉じてその場所を心に思い描くがよい』
「ええっ」
 急になに!? と困惑するうちに巨人さんの指先がとんと私の額を押す。
「痛っ」
 軽い衝撃だったのにも関わらず、ぐぐっと奇妙な頭痛が額から頭部全体へと広がった。反射的に目を瞑る。
 ええと、行きたい場所だよね、行きたい場所……、そうだ瑠璃さん。瑠璃さんの元に行きたい。
『ようし、良い子だ。その調子その調子……』
 巨人さんの嗄れた声がどんどん遠ざかって――


 はっと目を開けた時には景色が変わっていた。
 ここは……主殿の中だ。どこだかわからないが、回廊の一角に飛んだようだった。
 視線の先に見慣れた背中が見える。
「……う」
 頭が。
 額を手のひらで押さえ込み、小さく唸ると、その声を拾ったらしき瑠璃さんが驚愕の表情を浮かべて駆け寄ってきた。
「光! 何故ここに――」
 叫びかけた瑠璃さんは私の膝に抱えられている真澄さんを見るや否や息を飲んだ。
「頭痛い……」
 私は思わずそう呻いた。効果音で表すと、がんがん、くらくらという具合だ。巨人さん、瑠璃さんの元に飛ばしてくれたことには感謝するけど、ちょっと乱暴過ぎる。何もお話できなかったし……。
「どうした、何があった」
 頭割れそう……だけど説明しなければ。
「真澄さんは無事です。気を失っているだけ」
 先程巨人さんといた時に呻いていたけれど、今は穏やかな顔で眠っているようだった。多分当分の間目は覚まさないと思う。勘だけれど。
「そうか」
 それを聴いて瑠璃さんもほっとしたようだった。そりゃ、誰だってこんな光景目の当たりにしたら吃驚するよね。
「お前、どこから来た? それも真澄を抱えて」
「真澄さんはたった今まで必死に闘っていたんです。それで、瑠璃さんの姿を見つけた途端に気が緩んだのか、突然倒れてしまって。多分体力の限界だったんだと思います」
「そうか。わかった」
「あの、瑠璃さんは?」
「ああ」
 瑠璃さんが頭の痛そうな顔をして、額に手を当てた。ごめん、多分私の方が頭痛いよ。身体的に。
「お前付きの女官どもが逃げ遅れていたぞ」
「えぇ! 本当ですか」
「ああ、今地下牢の入り口まで送り届けてきたところだ」
「それじゃあ篠たちは無事なんですね?」
「篠と、もう一人小娘はいたが……」
「え? 黒梅と、瑞枝は?」
「あの男は無事だが、瑞枝とやらはわからない。女官部屋にはいなかった」
「…………」
「案ずるな。あいつのことだ、真っ先に逃げたのだろう」
 そう、かな。そうだと良いけれど……。
「あの、瑠璃さん」
「何だ」
「真澄さんが重い……」
「下ろせばよかろう、その辺の床に」
「えええ、そんな扱いって!」
「阿呆娘」
 デコピンを食らう。やめて、今頭痛いのにとどめの一撃を刺す気なの。
「貸せ。俺が運んでやる」
「瑠璃さん」
「なんだ。ここにいても仕方が無かろう」
 瑠璃さんがひょいと真澄さんを肩に担いだ。ちょ、荷物じゃないんだから。運びやすさ優先ですか。貴方の友人じゃなかったんですか。……それより頭が痛い!
 いやいやいや、そうじゃなくて。本来の目的を忘れてはならない。たとえ今にも頭がかち割れそうだとしても。
「瑠璃さん、今回のこと、おかしいとは思いませんか」
「ああ、確かにおかしいな」
 瑠璃さんが歩きだしたので、私も頭痛に耐えながら歩き始めた。
「地下牢で気になることを耳にしました。伝達係の男の子から」
「何だ?」
「瑠璃さんに、地下牢に避難するよう副隊長が呼びかけているって、茶髪の男の子が言ってましたよね?」
「ああ」
「でも、その後再び地下牢に避難するよう命じたのは総隊長なんだそうです」
「…………」
 瑠璃さんは私の言葉を吟味しているのか、しばらく沈黙した。
「……他には?」
「瑠璃さんも気付いていると思いますけど、〈魔羅〉のことです。お姫様が作った結界を弱っているはずの〈魔羅〉が破るなんておかしいでしょう?」
「ああ」
「それだけじゃない。逃げ出した〈魔羅〉は複数いて、それぞれがばらばらに上手いこと逃げた……」
「――何?」
「地下牢に入り込んできた〈魔羅〉がいたんです」
「お前……」
「その時真澄さんに連れられて外に逃げました」
「そうだったのか」
 ごめんなさい、瑠璃さん。内心で謝罪する。私、今日だけでいくつもの嘘をついた。きっと地獄行きだな。嘘をついたら閻魔大王に舌を切られるって父が昔言っていた。
 それより頭がくらくらしてきた。足元が覚束ない。
 でもこれだけは伝えておかないと。
「瑠璃さん、それからもう一つ」
 瑠璃さんの淡紫の瞳が私を見据えた。
 と、回廊の角を曲がった瞬間。
「ち」
 瑠璃さんが舌打ちして真澄さんを床にどさりと落とし、剣を抜くと同時に飛び出してきた黒っぽいものを斬った。――〈魔羅〉だ。
『なにしやがるど畜生が!』
 真っ二つに斬られた〈魔羅〉が呪詛を吐きながらぶるぶると体を震わせる。変形、する気だ。
「畜生は貴様だ」
 瑠璃さんが間髪置かずに剣を振るう。何度斬っただろう。再生に時間がかかるほどのぶつ切り状態にした後、瑠璃さんが例の呪文のようなお経のような不思議な言葉を紡ぐ。
『あああっ畜生! 畜生!』
 ぼっと〈魔羅〉に青い炎が燈った。終わった……、やっぱり、瑠璃さんは強い。
『許さねえ、許さねえぞ!』
 私はいつの間にかその場に膝をついていた。平衡感覚が、なくて。
「――光?」
 〈魔羅〉の最期を見届けることなく、瑠璃さんが私の元に駆け寄ってきて、その場に膝をつくと身体を支えてくれた。
「瑠璃さん……」
 ばたばたと複数の足音が近付いてくる――。
「菩提さんが、地下牢に」
 瑠璃さんが私の言葉に目を見開いたその時、足音がすぐ近くで止んだ。
「ご苦労様でした、にいさん。そいつで最後です」
 ああ、終わったのか。本当に。
 気が抜けた瞬間、私はがくりと気を失った。


 夢とも現実ともつかぬ曖昧な世界を漂っていた。ただ、ここは安心できる。背中には柔らかい感触があって、自らが布団の中にいることをそのうちに自覚していった。ゆっくりと目を開けて、ゆっくりと瞬く。
 主殿の、私の部屋だ。帰って来たんだ、無事に。
 ……ああ、そうだ。〈魔羅〉、そいつで最後だって第一師団の人が言っていた。じゃあ、私が情けをかけたあの〈魔羅〉も?
 急に涙が出てきた。変に慣れ合うんじゃなかった……、こんなに後悔する羽目になるなんて。せっかく巨人さんにも見逃してもらったのに、始末されてしまった。可哀想。〈魔羅〉だけど、可哀想だ。それなりに苦労してこれまで生きてきたのに。
『光ちゃん?』
 不意に聴こえた声にぎょっとして涙が引っ込む。今の声ってまさか――。
 横を見ると、寝台の傍らに立っていたのは見知らぬ青年だった。〈御殿〉の一般的な制服を着ている。その青白い肌が月に照らされてぼうっと白く際立っていた。淡いような印象を与える大人しい顔立ちで、でも、柔らかい雰囲気にも思えて。唇が分厚い所為なのかな。反して髪色はショッキングピンクで、かなり派手だった。瞳は髪の色を濃く深くしたような色合いだ。地味なのか派手なのかよくわからない。
 ……え、ていうか誰?
 私は彼をまじまじと眺めたあとで、ようやく目を点にした。
『来ちゃった。へへ』
「…………」
『あ、わかる? 俺だよ俺俺』
「オレオレ詐欺か……」
『何言ってんのもー。〈魔羅〉の俺だってば』
「うん……、わかってる……」
 なんだか今度は笑えてきた。私、大丈夫だろうか。いや、これは苦笑だ。何も変なところなどない。
「無事だったんだね」
『なに、俺のこと心配してくれたの?』
「うん」
『嬉しい』
 〈魔羅〉に取り憑かれた青年は無邪気な笑顔を浮かべた。こうしていると普通の人間に見え……じゃなくてえええ!
「ちょっと、その身体は一体誰なの!?」
 私はがばっと起き上がった。〈魔羅〉はびくっと驚いて私を見つめ返す。
『ええっとぉ、それはぁ……』
「言え! 今すぐに言え!」
『光ちゃんやっぱ怖えよ。あのね、心配しなくてもこいつは死人だから』
 今度は私がびくっとする番だった。
「な、今なんて? 冗談きついなもう」
『本当なんだって、信じてよぉ。死体なのこいつ。死後半日ってとこ? 俺が入ってれば腐ったりしないから心配ご無用だぜ』
 そういう問題じゃない。
「頭痛い……」
『えー、大丈夫? 撫でてあげようか?』
「結構です」
 死体って。死体って……! 私はその時何と言えば良かったのだろうか。「そっか、死体なら別にいいや」? ……違う、何かが間違っている。
 とにかく。
「貴方、これからどうする気なの」
『ここで働く』
「はあっ!?」
『髪型変えて服装変えて、後は喋り方とか声の高さとか変えれば案外ばれないものだよ。多分』
「待って、なんでそんなことしようと思うの? 働くって、あんた〈魔羅〉でしょ! それにここには第一師団がいるんだよ。せっかく助かった命なんだから、もっと大事にしたらどうなの!」
『光ちゃん』
「逃げなさい、できるだけ遠くに。早く!」
 私は何を言っているんだろう。でも、もう手遅れだ。私はこの〈魔羅〉に情が湧いてしまったのだ。となれば逃がしてやる他ない。
 しかし私の思いとは裏腹に、〈魔羅〉はにこっと可愛らしく微笑んで。
『うん、やっぱ決めた。俺ここで働くことにする』
「何言ってんの。馬鹿じゃないの……」
『だって光ちゃんのこと気に入っちゃったし』
「嘘でしょ……」
 何故だ。何故こうなったのだ。
『恩もあるし。ね、傍に置いてよ』
 瑠璃さん、真澄さん、その他お世話になっている皆々様、申し訳ございません。
 私、〈魔羅〉に懐かれてしまいました……。
『――あ、そうだ』
 ガラス戸から出て行こうとしていた〈魔羅〉がふと思い出したように振り返った。
『名前つけてくれない?』
「うっせえ。自分で勝手に決めろ……」
 投げ遣りに言い放って寝返りを打ち、〈魔羅〉に背を向ける。ありえない。
『俺そういうのよくわからないんだよ。あんまり変な名前だと怪しまれるじゃん。どこ出身? とか訊かれたらどう答えたらいいわけ』
「自分で考えろ、自由に」
『光ちゃん冷たいぞ』
「ぐえっ」
 ぼすっと何かが、というか〈魔羅〉が上に圧し掛かってきた。死ぬ。殺される。窒息死する。
「うぐええ、わかった、わかったからどいて!」
『わーい』
 なんてヤツだ、やはり〈魔羅〉には血も涙もないのか。本格的に苦しかったぞ。
「名前……」
 上半身を起こし、顎に手を遣り考える。
『早くー。女官に見つかったら俺地下牢行きだぜ』
「急かすな」
『はい』
 そう簡単に思いつくわけがないじゃないか。私はまだ自分の子どもも居ないし、ペットだって金魚ぐらいしか飼ったことなくて名前つけたりしてなかったし。
 私は〈魔羅〉――が取り憑いた青年を横目で見た。ピンク。可愛い印象の青年。
「瞳の色……」
『んー、これ?』
「そう、それ。牡丹色って言うんだよね。牡丹でいい?」
 思い付きで言うと、〈魔羅〉が楽しげに首を揺らしてにこりと微笑んだ。
『いいね、気に入った。じゃあそれで行くわ。光ちゃん、まったねー』
 友人のごとく軽いノリでそう言い残し、今度こそヤツは出て行った。開けっ放しで。
 私は溜め息をついたあと、気だるい身体を動かしてガラス戸を閉めた。そうして疲労を訴える身体に誘われるがままに横になり、静かに目を閉じた。
 夢だったら良かったのに。



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