第三幕:04



 〈魔羅〉逃亡事件の翌日。
 瞼の上に朝陽を感じて目を覚ました。どうやら寝過ごしてはいないらしい。
 昨夜の巨人さんの妙な術によって引き起こされた頭痛はすっかり治っていた。
 ……そうだ、巨人さん。
 昨日の妙な術で見当がついた。私をこちらの世界に飛ばしたのはおそらく麗燈さんではなく、彼の方だということに。
 昨夜はせっかくの対面にも関わらず大した話もできず……そればかりが心残りだ。でもなんだか急いでいるようだったし、〈魔羅〉を倒して回っているようにも見えた。協力してくれていたのだろうか。手を出さない約束だが、なんて言いつつ。「あの子」とは多分麗燈さんのことだろう。巨躯を持つ彼からすると人間は皆子どもに見えるのかもしれない。
 しかし、何故〈魔羅〉は彼のことを「主」だなんて呼んだのだろう。当の本人は即座に否定していたし、確かに彼が携えていた巨大な剣には〈魔羅〉を倒すことのできる青い炎が宿っていた。そもそも私の目の前に現れたのは〈魔羅〉から私を助けてくれようとして、だと思うし。
 後は何て言っていたっけ。あの時は随分動揺していたから、巨人さんの言葉の意味を全て理解することは出来なかった。というか、その殆どが理解出来なかった。
『あの子も今は他事に気をとられていることだし――』
 ……他事?
 何のことだろう。麗燈さんの他事って。
 魔牢から〈魔羅〉が逃げ出して主殿では大騒動になっていたのにも関わらず、彼はその間、他事に気をとられていた。〈紅蓮〉の最高権力者である癖に。
 そういえば私もしばらくは会わないと言われている。それも何か関係しているのだろうか?
 寝起き早々に頭を悩ませて唸っていると、女官部屋から黒梅が入ってきた。
「ま、光お嬢様。お疲れでしょうに、お早いこと」
 驚いたように目を見開いて、黒梅が寝台の脇に歩み寄ってきた。
「黒梅」
 私は寝台の縁に移動し、床に足を付けて彼女を見上げた。自然と笑顔が広がるのがわかった。
「黒梅、無事だったんだね」
「光お嬢様こそ。私心配で心配で……」
 黒梅がうるうるっと目元を潤ませながら言うので、私はいつかのことを思い出した。私が三日も寝込んだ時、黒梅は私のために泣いてくれたのだ。
「私、黒梅には心配かけてばかりだね」
「そんなことはございませんわ」
「篠と浅葱は? 二人とも無事?」
「それが……」
 黒梅が顔を曇らせる。動悸がした。
「それが? 何かあったの?」
「普段あまり走り回るような機会がなかったからでしょうか、二人とも避難する途中で足を挫いたらしく……」
「大丈夫なの?」
「光お嬢様ったら、ただの捻挫でしてよ。大事をとって二人とも親元で休養しておりますけれど、嫁入り前の身とはいえ少々大袈裟が過ぎますわ」
「そっか……」
 そこで私は問題の人物について尋ねてみることにした。
「ええと……それで、瑞枝は?」
 訊いた途端、黒梅が口元に手を当て、困り切った表情になる。なんだ?
「あの人は……。光お嬢様、落ち着いて聴いて下さいませ。瑞枝は行方知れずになりました」
「えっ」
 それって、……まさか。
「〈魔羅〉による被害を受けたとしても、肉体は残ります」
「んん? ということは……」
「どさくさに紛れて〈御殿〉から逃げたのでしょう」
 なんということだ。私は頭を抱えた。
「一人きりで? そんなの危険じゃない」
「いいえ、それがどうも一人ではないようで。昨夜のうちにもう一人、文官の男が行方知れずになっているそうですわ。噂によると二人は恋人だったとか」
「なんと……」
 瑞枝……やるじゃないか! なんて一人、心の中でガッツポーズする。なんだか勇気が湧いてきた。
「光お嬢様、どうかお気に病まず」
 黒梅、勘違いしないで欲しいのだ。
「ううん、黒梅。私は瑞枝を応援するよ」
「まあ」
「道中〈魔羅〉に気をつけて、新たな土地で第二の人生を幸せに生きて欲しいな。旦那さんと一緒に」
 笑ってそう言うと、黒梅も釣られたように小さく笑みを零した。
 きっと大丈夫、瑞枝なら。だって強い人だもの。
「そうだ、真澄さんは無事?」
「ああ、あの方は少し……」
「なに?」
「体調が優れないそうで、医務室で休んでいらっしゃいます」
「そう」
 真澄さんについては大いに責任を感じている。罪悪感も。
「お見舞いって出来るかな?」
「勿論、あの方は光お嬢様の従者ですから。拒むことはできないでしょう」
 うーん、そういう問題なのかな……。というか拒まれたらショックだ。
「うん、とりあえず今日の予定はそれで」
 皆の無事が確認できて安心した私は、うーんと伸びをした。その間に黒梅が着替えを取りに行ってくれる。篠も浅葱も瑞枝もいない……、ってことは、しばらくは黒梅が身の回りの世話をしてくれるのだろうか? 一人きりで。ちょっと気が楽で嬉しいかもしれない。昨夜は大変だったけれど……。
 そうだ、最終的に被害はどれくらい出たのだろう。〈恭爺〉さんに訊いたら教えてくれるかな?
「あら?」
 衣類の仕舞ってある抽斗を覗き込んだ黒梅が不意にそんな声を上げた。
「どうしたの?」
「こんなところに書簡が」
「え? ……誰宛の?」
「それが、表にも裏にも何も書かれておりませんの」
「見せて」
 私は寝台から降りてぱたぱたと黒梅の元まで急いだ。確かに彼女の手に握られている真っ白な封書には何も書かれてはいなかった。誰かの悪戯だろうか? この部屋に入る人と言えば篠に浅葱に黒梅に瑞枝に真澄さん、瑠璃さん、それから――〈魔羅〉が憑依した青年、牡丹だ。
「開けてみましょうか?」
「うん、開けてみて」
 封書の中には三つ折りの紙切れが一枚だけ入っていた。その紙を丁寧に開いた黒梅が首を傾げる。
「『お嬢様へ』……と書かれております」
「おじょうさまって、私宛?」
 黒梅の腕に掴まって紙を覗き込んでみたは良いが、残念ながら私にはこの国の文字は読めないのだった。
「黒梅、読んで」
 私がせがむと、黒梅は静かに書簡を読み上げ始める。
「『お嬢様へ。私は近々ここを出ようと考えております。今までお世話になりました。餞別にと言ってはなんですが、私が女官になる前まで気に入って着ていたお着物をお嬢様に差し上げたいと思います。ご心配なさらずとも、寸法は私が手直し致しましたのでご安心ください。一番上の抽斗に入れておきます。それではお嬢様、末永くお元気で。瑞枝』」
 聞くうちに私は目を丸くし、最後の一節で仰天の声を上げた。
「瑞枝からなの!?」
「そのようです」
 黒梅も私と顔を見合わせて、同じく驚いている。
「なんてらしくない……じゃない、瑞枝って結構義理がたいところがあるんだね」
「黙って出て行ったわけではなかったのですね。光お嬢様に忍びなかったのでしょうか?」
 あの瑞枝が私宛に置き手紙を残していくなんて。それも人目に付かない抽斗の中に。……恥ずかしかったのかな? 今まで散々存在を無視されてきた感が否めなかっただけに、これは素直に嬉しい出来事だった。瑞枝、幸せになってね、と心の中でひっそり祈る。願い事は口に出したら叶わないのだと誰かが言っていた。
「そうだ、餞別って言った?」
 ふと思い出して黒梅に確認する。
「ええ」
「今見ても良いかな。良いよね?」
 黒梅はせき込む私を見てふふっと笑って頷いた。
 ええと、一番上の抽斗だよね。って私の身長ぐらい高さがあるじゃないか。瑞枝、もしかして最後の嫌がらせ……っていうか寧ろこれが餞別なんじゃ、と思わず疑ってしまう。
「ごめん黒梅、床に出してくれる?」
 結局黒梅に抽斗を引っ張り出してもらって、床に置いてから中を覗き込んだ。
 心配したような事態にはならなくて、そこにはちゃんと綺麗に畳まれた一着の着物が入っていた。
「あら可愛らしい」
 一緒に覗き込んだ黒梅がそんな感想を零した。一方、私はというと。
「どこかで見た気がする」
 白無垢の上衣に、緋色の袴。
 これって。
「……巫女さんじゃないか」
 遠い目をして呟くと、黒梅が「みこ様?」と首を捻った。……まあいいか。瑞枝も態とじゃないだろうし(多分)、ここには巫女さんなんて存在しないし、別に着たってその、コスプレにはならないはずだよね。ほら、微妙に服の構造も違うしさ。
 その後、今日早速着てみてはどうかと黒梅に提案され、私は一瞬言葉に詰まりつつも了承し、一先ず寝汗を流すために隣の浴室へ向かうことにした。
 抽斗を元に戻している黒梅を少し離れた場所から何気なく眺めていた時だ。
「――黒梅?」
 私は彼女が手を持ち上げた拍子に袖の中から覗いた包帯に気がついた。
 なんで? 怪我してる。
 私はすぐさま彼女の元に駆け寄り、その腕を取った。
「これ、どうしたの? 何があったの」
 すぐさま問い掛けると、黒梅が目を伏せた。僅かな変化だったけれど、彼女が動揺しているのがわかった。だって黒梅はいつも真っ直ぐに私の目を見て話すもの。
「これは……、私粗相をしてしまいまして、その時に……」
「嘘」
 常ならぬ低い声で素早くきり返すと、黒梅が視線を上げて私を見た。不安げな表情。罪悪の色が滲んだ瞳。
「私が知ってる黒梅は粗相なんてしない」
 事実だ。黒梅は何より自分に厳しい。今まで彼女の働きぶりを見てきたからわかるのだ、篠や浅葱たちを先導していたのも彼女で。粗相なんてするはずがないし、したとしたら私に黙ってはいないはずだ。黒梅は正直者だから。
 束の間視線が交差していたけれど、黒梅はやがて俯いてしまった。
「黒梅、どうして怪我をしたの?」
 黒梅はきゅっと唇を噛んだ。答えない。
「黒梅」
 様々な可能性が脳内を駆け廻る。最近は黒梅と会う機会が少なかった。ずっと前、初めて出会った日に彼女は「鍛えている」と言っていた。では、闘っていたのか? 誰かと。
「怪我――させられたの?」
 訊き方を変えた途端、黒梅がはっとしたように顔を上げ、慌てて首を横に振った。
「じゃあなんで……」
 私が声を荒げかけたその瞬間、勝手に部屋の戸が開かれて、中に人が飛び込んできた。
「……瑠璃さん?」
 それでその場に漂っていた不穏な空気が一気に吹き飛んだ。
 瑠璃さんは静かに、慎重に、しかし素早く戸を閉めると、その場に片膝をついて戸に耳を当てた。……何を、やっているのだろうか。
「まあ貴方! 無断で女人の部屋に入るなとあれほど――」
「騒ぐな」
 瑠璃さんがぎろりと横目で黒梅を睨みつける。人の部屋に不法侵入しておいて何なのだ。
 あ、というか瑠璃さん無事だったんだ。すっかり忘れていた。
「光、しばらく俺を匿え」
「えぇ?」
 訳がわからない。私も黒梅も承諾しないうちに彼はずかずかと奥に入って来て、寝台の向こう側にむりくり身を潜めた。因みに今日は黒衣の軍服ではなく、真澄さんとお揃いの作務衣を着ていた。
「あの、誰かに追われているんですの?」
 黒梅が困惑気味に尋ねると、「いいからお前たちは黙っていろ。誰が来ても絶対に居場所をばらすな」と何とも偉そうな返事が返ってきた。何様なのだ。
「まあ、私は別に構いませんけど……」
「恩に着る」
「もう勝手にして下さい。黒梅、あの人のことは放っておいて良いからね」
「はい」
「茶ぐらい出してもよかろう!」
「私はお風呂に行ってきます」
 瑠璃さん、誰かとかくれんぼでもしているのかな?


 さっぱりして髪を拭きながら部屋に戻ると、何故か中央に小卓が出ていて、さらには瑠璃さんが黒梅にお茶を注がせているところだった。一瞬、ここは瑠璃さんの部屋だったのか? と我が目を疑ってしまったが、いや。私にあてがわれた部屋だ、間違えてはいない。
「瑠璃さん、まだ居たんですか。というかその茶器、一応〈恭爺〉さんから私への贈り物なんですけど。しかも私まだ一度も使ってないんですけど」
 若干の不満を露わにしつつ歩み寄ると、小卓の傍に鎮座していた黒梅がううっと泣きながら私に駆け寄ってきた。
「黒梅も、この人のことは放っておいて良いって言ったのに。……どうしたの?」
「この方があんまり怖いものですから」
 その怯えきった声でかちんとした私は黒梅を背中に庇いつつ、呑気にお茶を啜り続けている瑠璃さんを睨みつけた。
「瑠璃さん、黒梅を苛めたんですか。私が居ないからって!」
「何の話だ。それよりも光、昨日のことで話がある。座れ」
「こんにゃろう……」
 そう言われては大人しく座るしかない。
「黒梅、こんなのと二人っきりにしてごめんね。襲われなかった?」
「お前、冗談でもそういう気色の悪いことを言うな」
「言葉の暴力には遭いましたけれど、私その程度でへこたれるほど弱くはありませんわ。光お嬢様、ご心配ありがとうございます」
「俺は何もしていない」
「黒梅、私も黒梅が淹れたお茶が飲みたいな」
「はい、只今」
「無視をするな」
 黒梅の淹れたお茶は世界一である。……ん? 瑠璃さん何か言った?
 お茶を飲みながら瑠璃さんの方を見ると、ぶすっとした不機嫌な表情で小卓に頬杖をついていた。とりあえずこの場は笑って誤魔化しておこう。
「瑠璃さん、話って何ですか?」
「…………」
「眉間の皺、なおらなくなっちゃいますよ」
 手を伸ばして瑠璃さんの眉間の皺を一生懸命に伸ばしていると、溜め息をつかれてしまった。もう、溜め息をつきたいのはこっちなのに。瑠璃さんってばすぐ怒るし、勝手に人の部屋に入ってきたかと思うと我が物顔で私付きの女官にお茶なんて注がせているし。まったく。
「真澄には会ったか」
「いいえ。私、さっき起きたばかりですよ。これから行くところです」
「そうか」
「?」
 瑠璃さんは片手で掴んだ空っぽの湯呑みの中をじーっと見つめている。考え事だろうか。
「お前、昨夜はよく頑張ったな」
 不意に瑠璃さんが視線を上げたかと思うとそんなことを真顔で言ってきたので、私は言葉を失う。……ちがう。頑張ったのは真澄さんや瑠璃さんの方だ。私は守られてばかりで。
「今回の事件の真相を探る上で、お前の情報が役に立ちそうなのだ。助かった」
「そんな、私は何も」
「この俺が褒めてやっているのだ、素直に喜べ」
 小さく笑った瑠璃さんに、わしゃわしゃと髪を掻き乱されてしまった。それで撫でたつもりなのか? 乱暴だぞ。
 私は照れて、ふと思い出したように肩にかけてあった布で髪を拭き始めた。
「もう、まさかそれだけを言うために来たわけじゃないんでしょう?」
「ああ、本題に入ると少し長くなる。お前は朝餉もまだなのだろう?」
「ええ、まあ……」
 普段通りの時間に起きたところだったんだけれど、なんだか瑠璃さんのその口ぶりだと私が寝坊したみたいに聴こえる。ちょっと落ち込んだ。
「だから、少し時間を改めてまた――」
 と、瑠璃さんが言いかけた時。
「瑠璃様ああああっ!」
「!?」
「ちっ」
 なんだか物凄い大声で叫びつつ部屋に入ってきた闖入者が一名。私と黒梅は驚きのあまり目を点にして固まった。瑠璃さんだけが舌打ちをして即座に立ち上がる。
 闖入者の正体は、十二、三歳の華奢な少女だった。私が今までに見た中で最も煌びやかな衣を身に纏っている。巨人さんのド派手な衣装と良い勝負……否、こちらの方が若干優勢か? 全身桃色で統一された衣には金糸や銀糸で余すところなく豪奢な花の縫いとりがなされている。細かに編み込まれた髪も瞳も蒲公英色で、間違いなくこの子は貴人なのだろうと見た目で判断した。
 というか、誰?
「うふふっ、瑠璃様、見つけましたわ」
 なんだ、瑠璃さんの知り合いか。ほっと胸を撫で下ろして当の瑠璃さんの方を見遣ると、まるで敵と対峙するかのような鬼気迫る顔をしていた。
「何故ここだとわかったのです」
 私はえっと耳を疑う。あの瑠璃さんが敬語を使っている!
 少女はにこにこと楽しげに笑いつつ、瑠璃さんとの距離を少しずつ詰めていく。
「勿論、その素敵なお声で」
「地獄耳か……っ」
「さあ瑠璃様、参りましょう。今度のことでお兄様も見直したと仰っておりましたの、もう私達の間に障害はございませんわ」
「左様ですかしかし私には本日の務めというものがございましてそう易々と持ち場を離れるわけにはいかないのですが」
 黒梅と顔を見合わせて揃って首を傾げる。何の話だ?
 少女の目がきらりと光った。猫のような顔立ちの子だ。さながら獲物を追いつめる虎のごとく、である。
 瑠璃さんはじりじりとガラス戸の方へ下がって行く。あれ? 助けた方が良いのかな。心なしか蒼褪めているし、冷や汗をかいているようだし。
「ねえ、瑠璃様」
「光」
 何の前触れもなく声をかけられた私は一瞬ぽかんとした。
「はい?」
「良いな、午後に迎えに来る」
「はあ……」
 瑠璃さんがそれだけ言い残し、ガラス戸を開けて外へと飛び出して行った。沓が無くて大丈夫なのかな。
「嫌ですわ瑠璃様っ、お待ちになって!」
 その後を追ってたたたっと駆け出した少女だったが、途中で足を止めてこちらを振り返った。
「そこの〈無色〉!」
「……何でしょう」
 瑠璃さんが敬語を使うような相手だったので無視するわけにもいかず、私は大人しく返事をした。もう、私は〈無色〉なんて名前じゃないよ。大体ここ、一応は私にあてがわれた部屋なんだぞ。
「貴方、瑠璃様の何ですの?」
「何って、瑠璃さんは私付きの護衛ですけど」
「そういうことを訊いているのではありません。とぼけないで!」
 えー、なんか怒られてるよ……。私は思わず助けを求めるように黒梅の方を見た。黒梅も困ったように眉根を寄せている。
 少女は元々吊り上がり気味の目をさらにぎろっと吊り上げた。本当、威嚇している猫みたいだ。
「何かお約束をしていたのではありません!? そういう、その、深い間柄ですの!?」
「えーと……お話をするだけの関係ですが」
「嘘をおっしゃい!」
「えぇ……」
 ありのままを答えたのに、そう言われてはなぁ……。
 ぽりぽりと頬を掻いて何と説明すれば解ってもらえるのか考えていると、少女が私をびしっと指差しながら突然叫んだ。
「よくお聞きなさい。瑠璃様はこの白百合のものでしてよ!」
 白百合?
「〈無色〉なんかに負けませんわ!」
 最後にそう捨て台詞を吐き、少女が外に飛び出して行った。
 と、同時に。
「白百合お嬢様、お待ちくださいまし!」
 どどどどどっと複数の従者らしき方々が例によって勝手に部屋に乗り込んできたかと思うと、あっという間にガラス戸から出て行った。
「な、なんだったの今のは……」
「白百合様……聞いたことがございます。おそらくは中流の方かと」
「へえ……っていうか私もどこかで聞いたことがあるような」
 あ、思い出した。〈恭爺〉さんのお部屋の掃除をしていた時に聞いたんだ。確か瑠璃さんが白百合お嬢様を誑かし……いや、先程の様子を見る限りでは白百合お嬢様の方が強引に迫っていたように見えた。ということはあの〈影〉に所属しているお兄さん、何か誤解しているんじゃ?
 瑠璃さん、ちょっと不憫。
「んー、それよりも……」
 私は荒らされた部屋の掃除に手早く取りかかっている黒梅をちらりと見た。
「お腹が空いたなぁ」
 黒梅の怪我のことはまだ気になっていたけれど、無理矢理に迫られて嫌がっている瑠璃さんの姿を見ていたら、本人が話してくれるまで待ってみようかな、なんて考えが芽生えたのだった。


 朝食の後、黒梅の案内で真澄さんのお見舞いへと向かった。
「黒梅……」
 医務室へと向かう回廊を黒梅の逞しい背中に隠れるようにして歩いていた私は、その背中におずおずと声をかけた。黒梅が振り返って、不思議そうに私の顔を見る。
「私、変じゃない?」
 この格好。見れば見るほど巫女さんなのだ。お風呂上がりに着たばかりの時は瑠璃さんと白百合お嬢様との一件でばたばたしていて気にする暇がなかったのだが、今になって恥ずかしくなってきた。瑞枝は本当にこれを気に入って着ていたのだろうか? 段々と怪しく思えてきてしまう。だって下は熟れた林檎のように真っ赤だし……、正直彼女の趣味ではないような気がする。可愛いといえば可愛いけど、派手といえば派手だし、特殊といえば特殊だし。特殊だと感じるのは日本の巫女さんのイメージが強いからで、ここの人たちからすればごく普通の衣装なのかもしれないけれど。
「いいえ、よくお似合いです。やはり光お嬢様は何を着てもお可愛らしい」
 黒梅は私の姿を良く見もせずに柔らかな笑みを向けてくる。なんというか黒梅、それは進学して初めて制服に腕を通す我が子を微笑ましげに見守る母親の目だぞ。
「それ、お世辞でしょ?」
 思わず突っ込んでしまった。
「まさか、本当のことですわ」
「えぇ……、ぶっちゃけどうなの、白と赤って。おめでたい感じ? それとも奇抜な感じ?」
「おめでたい?」
 黒梅が不思議そうに瞬く。
「紅白って言わない?」
「いいえ」
「そうなんだ」
 やっぱりここは日本じゃないんだなぁ、と再認識するのは、こういった何気ないやり取りの最中だ、いつも。
 黒梅は今日の午後からは所用で出かけるらしい。午後には瑠璃さんが迎えに来るそうだし、今日は珍しく予定が詰まっている。〈恭爺〉さんは昨夜の騒動の収拾に忙しいそうで、今日から最低でも三日は逢えないとのことだ。
 しかし、篠と浅葱はいつ頃仕事に復帰するのだろう。一口に捻挫といっても程度によって大分差があるのではないだろうか。黒梅の話を聞く限りでは大したことはなさそうだけれど、実家で療養する程なのだから、すぐには復帰できないんじゃないかな。そうすると、黒梅と瑠璃さんがいない間、私は一人……。真澄さんの具合もまだわからないし、ちょっと不安になってきた。でもだからといって皆に無理はさせられない。今まで散々、お世話になってきているんだから。
 たまには一人で静かに過ごすのも良いかもしれない。何より気が楽だしね。
「光お嬢様、あの角を曲がればすぐですわ」
「うん」
 黒梅の言葉に頷く。黒梅は薄暗い回廊の角を曲がった先に一番に目に付く横幅のある扉を開けた。ここは手動なようだ、良かった。
 部屋の中に入った途端、未だ嘗て嗅いだ事がないような壮絶な匂いに見舞われた。思わずうっと呻いて鼻を抓む。えぇ、何ここ。薬の匂い?
 涙目で辺りを見回すと、棚ばかりが目についた。というかこの部屋の面積の殆どを棚が占めている。薬棚と言うのだろうか? その棚の一列に指先を向けて何かの薬を探していた小柄な女性が私達に気づき、こちらにぱっと顔を向けた。
「まあ。どうかされまして?」
 女性は〈薬師〉の格好をしている。この服って男女共用なんだ……。
「お薬をご所望でしたら、まずは隣の医務室にて診察を受けて下さいまし」
 続けてそう言われ、私は反射的に隣の黒梅を見上げる。
「黒梅?」
「……申し訳ございません、部屋を間違えたようです」
 黒梅はなんだか一瞬呆然とした表情を浮かべた後、そう謝罪して部屋を出た。
 らしくない、黒梅が部屋を間違えるなんて。
「黒梅、大丈夫?」
 回廊に出てすぐ、私はそう声をかけた。
 部屋で黒梅の怪我を発見した時には全く違ったことを想像したけれど――そうじゃないのかもしれない。黒梅は疲れが溜まっていて、それで本当に本人が言う通り、粗相をしたのかも。今のを見て一瞬そんな考えが過ったけれど……、じゃあ、疲れるほど何の仕事をしているのだろう、彼女は。私と居ない時に。
「ええ、ご心配ありがとうございます」
 黒梅はいつも通り綺麗に微笑んでそう答えたけれど、ねえ、無理してない?
 これは……、もしかしなくても一大事なのではないか。
「黒梅、診察受ける?」
「えっ?」
「黒梅もついでに診て貰おうよ。私が真澄さんのお見舞いしてる間にでも」
「いえ、いいえ、私は何も問題ございません、健康そのものですから」
「うん、そうしよう」
「光お嬢様」
「失礼しまーす!」
 この調子だと是が非でも自らの主張を押し通しそうだったので、黒梅の手を掴んで〈薬師〉の女性に言われた通り隣の部屋の戸を開けた。いかん、つい職員室に入る時のノリになってしまった。
「おぉ、思ったより広い」
 ここは一応医務室、日本で言うところの診察室兼病室のような場所であることに思い至って、ごく小声でそう零した。衛生面を考えてのことなのか、床はよく磨かれた石で出来ていて、私の顔が映るくらいにぴかぴかしている。窓がたくさんあって風通しも良い。部屋の右側はカーテンのような布で仕切られていた。それから、分厚い書物の並ぶ本棚が幾つか点在している。何かの分類で分けられているのだろうか? 不自然な間隔を空けて疎らに存在するそれを一つ一つ眺めた後奥の方を見遣ると、大きな座卓の向こう側に鎮座している〈薬師〉の男性と目が合った。歳は……うーん、五十歳から六十歳といったところだろうか? 何を隠そう〈紅蓮〉の人は年を重ねても白髪にはならないので、年齢に関しては一見しただけでは判別がつきにくい。ただ、その〈薬師〉の男性は立派な髭を蓄えていらしたため、お年を召された方なのかなと推測したのだ。男性が使用している卓の上には本が山積みになっており、彼はその中の一つを開いて筆で何かを記している最中だった。勘だけど、患者さんのカルテじゃないかな。本棚に収納されている分厚い本も多分そう。よく見ると色分けされている。病状による分類だろうか?
 壮年の男性の傍らには同じく〈薬師〉らしき青年が立っていて、男性とほぼ同時にこちらに目を向けてきた。部屋の中には他にも本棚の手前に立って書物を熟読している〈薬師〉の人たちが数名いたけれど、余程集中しているのか、こちらに顔を向けることはなかった。今気付いたけれど、腰布の色がそれぞれに違う。それは本の表紙の色と一致しているようで、やはり分野で区別されているように見える。因みに青年の腰布は真っ白だった。
「どうされましたか」
 壮年の〈薬師〉さんではなく、傍らに控えていたその青年が尋ねながらこちらに歩み寄ってきた。黒梅が後ろに身を引いたようだったけれど、私が手首を握っていたためか踏ん張るだけに留まった。
「ええと……、昨夜の騒動で負傷した方の見舞いに参ったのですが」
 喋り方がいまいちよく解らない。いわゆる貴族の言葉遣いって単なる敬語とは違う気がするし。
「左様ですか。その方のお名前は?」
 一瞬昨夜のように〈無色〉だからと言って追い返されやしないかという不安が過ったが、青年は穏やかな口調でそう返してくれた。近くで見ると青年というよりは青年の域に差し掛かった少年といった風情である。ポニーテールがそう見せているのか?
「真澄という方です」
「しばしお待ちください」
 青年が駆け足で座卓の男性の元に向かったかと思うと、一言二言言葉を交わしてすぐにこちらに戻ってきた。
「私がご案内致します」
「ありがとうございます」
 と、喜ぶのはまだ早い。
「ほら、黒梅」
 ぐいぐいっと掴んだ腕を引っ張るが、黒梅は私の後ろから退こうとしない。往生際が悪いぞ。
「結構、いえ大いに結構ですわ」
「そんなこと言わずに。というか大いに結構って結局どっちなの」
「既に治療は済んでいましてよ」
「あー、やっぱり怪我してんじゃん!」
「う」
「だったら猶の事ちゃんと診て貰わなきゃ。ね?」
「わ、私のことなどどうでもよろしいのです!」
「そんなこと誰が決めたの?」
「お二方?」
 と、黒梅と不毛な押し問答をしていたところ、〈薬師〉の青年がにこやかに仲裁に入ってきた。
「医務室ではお静かに願います」
「ごめんなさい……」
「申し訳ございません」
 二人してしゅんと頭を下げる。こう、そう大して年も変わらない若者に冷静に窘められてはぐうの音も出ないというか、いやはや恥ずかしいというか。
「黒梅」
 頭を上げると同時にじろっと横目で黒梅を見る。
「光お嬢様、今日は真澄の見舞いに来たのでしょう」
「……あれ、呼び捨てなんだ?」
 私の指摘に、黒梅はびしりとその場で固まった。
 私はその期を逃さなかった。
「もう一つ、この人の診察もお願いします」
 黒梅がはっとした時にはもう遅い。私は〈薬師〉の青年に連れられて右側の幕の向こう側に歩き始めていたし、奥の座卓の向こうでは壮年の〈薬師〉さんが黒梅をじっと見つめつつちょいちょいと手招きしていた。
「光お嬢様っ」
 いかにも「卑怯者!」と言わんばかりの黒梅の男気に満ちた声が聴こえたような聴こえなかったような。


 幕の向こう側のスペースはさらに広く、寝台が二十、それぞれ壁際と窓際に沿って並べられていた。寝台と寝台の間と通路側には布で幕が引かれ、個室のように仕切られている。この中のどこかに真澄さんがいる、と。
「あの」
「はい」
 私は〈薬師〉の青年を呼び止めて小声で訊いてみた。
「昨夜の騒動による負傷者は……?」
「そうですね。少なくはありません」
 青年は少し考えるような顔をしてから簡潔に教えてくれた。余談だけれど、彼の髪は明るい橙色だ。
「……そうですか」
 さすがに死傷者の数までは訊く勇気が無くて、というより病室でする話ではないと思ったのでそこまでで私は口を噤んだ。
「こちらです」
「あ、はい」
 一番奥の窓際の寝台に案内された。〈薬師〉の青年はそこで「何かございましたらお呼びつけ下さいませ。それでは私はこれにて」と小さく会釈をし、元の幕の向こうの部屋へと去って行った。
 黒梅、大人しく診察受けてるかな。逃げ出したりしてないかな。
 そんな心配を頭の片隅でしながら幕の中へと向かって「真澄さん、光です。入っても良いですか?」と小さく声をかけた。
「どうぞ」
「失礼します」
 幕を引いて中に入った瞬間、私はほっと胸を撫で下ろした。寝台の縁に腰掛けている寝間着姿の真澄さんは顔色も良く、思ったより元気そうに見えたから。
「光様、態々このような場所までお越し頂き、誠に申し訳ございません」
「いえ、とんでもないです。……あ、お見舞いの品を忘れた」
「お見舞いの品?」
 何故思いつかなかったんだろう、そんな肝心なことを。何も持たずに顔だけ見に来るなんて大胆過ぎる。
「真澄さん、すみません……。何か無かったかな」
 庭園に出て何か花を(無断で)摘んでから出直そうかと考えたが、そのすぐ後でいかんそれは窃盗だ、と気付いて首を横に振った。庭園の物は国の物、国の物は〈穢れ姫〉の物。手を出したりすれば普通は極刑に処される。一瞬でもそんなことを考えた自分が恐ろしい。
 仕方なく私は望みもなく自分の身体を漁った。袂には何も入っていないし、懐にも何も……。
「ひ、ひ、光様」
 衣の襟元から躊躇なく片手を突っ込んだ時、真澄さんからそんな声が上がった。あ、今のはちょっとはしたなかったかな。でも中身は見えてないし。
「気にしないでください。……あ、なんかある」
「光様……」
 呆れを通り越した遠い目で真澄さんが私の名を呼んだ。私は気にせずがさごそと着物の内側にある小物入れを漁る。なんだろ、手の平サイズの紙の包みのようなものが……。
「んんん?」
 ようやく取り出すと、思った通りそれは小さな紙の包みだった。そう、丁度〈恭爺〉さんが睡眠薬を包んでいたものに酷似している。嫌なことを思い出してしまった。
 それにしてもこれは何だろうか。勿論私には身に覚えがない。
 では、この着物の前の所有者である瑞枝が?
 私は真澄さんに背を向けてから紙の包みをそっと開いた。
 感触でなんとなく中身の形は想像がついていたが……中にはころりとした一つの飴玉が入っていた。苺色の。
 そして、包み紙の内側には私に読める字で――つまり日本語で、以下のような内容が記されていた。
『光ちゃんへ。俺だよ、わかる? なんかさぁ、主がこないだの夜はゆっくり話す時間が無くて悪かったって謝ってたぜ。こないだの夜ってぇのは、例の光ちゃんと俺が出会った運命の日のことね。わかるよね? んで、これはそのお詫びの品なんだって。味は今流行りの“あせろら”味なんだってさ。んじゃあまたねーぼたんより』
 ええと、〈魔羅〉ってバイリンガルなのかな。なんて疑問はどうでもよろしくて、想像を絶する下手くそな字である! と私は衝撃を受けた。時間の「時」なんて「日」と「寺」の二文字にしか見えないし、「謝」という画数の多い字はやたらとでかくバランスが取れていないし、牡丹って自分の名前のくせに何故にひらがなで書いたのだ、さてはヤツめ牡丹という花を知らないな。あと今はアセロラ、そんなに流行ってないと思う。というか早い話が私はアセロラが嫌いだ。ちょっと林檎に似てない? 私、まず林檎が駄目なんだよね。
 じゃなくて、その前に。
 いつの間に忍び込ませたんだ牡丹め……〈魔羅〉だから何でも出来てしまうような気もするし、今後は戸締りに気をつけなければ。
 それから最後にもう一つ、重大な事実がある。
 巨人さん。
 お詫びの品に飴玉一個って――未だに私を幼児か何かだと勘違いしている!
「光様?」
 これだけは許せぬ……と込み上げる怒りにわなわなと身を震わせていたら、真澄さんが心配そうに声をかけてきた。
「真澄さん」
 私はそんな彼をにっこりと笑顔で振り返った。
「甘い物はお好きですか?」
「ええ……? まあ、嫌いではありませんが」
「じゃあこれ、粗品ですがどうぞ」
 そう言って真澄さんの手の平にぽとりと苺色(味はアセロラ)の飴玉を落とす。自分でも妙案だと思ったのだが――まさか私のこの行動があんな事態を引き起こす要因になろうとは、その時の私は想像もしていなかった。
 真澄さんはぱちぱちと瞬いて手の中の飴玉を見つめた後、私を見上げてくすぐったそうに微笑んだ。
「ありがとうございます」
「いえ、お礼を言われるほどの物でもないです」
 そもそも私が用意したものじゃないし。
「隣に座ってもいいですか?」
 私はきょろきょろと辺りを見回してから尋ねた。椅子らしきものが見当たらなかったのだ。
「どうぞ、お掛けになって下さい」
「失礼します」
 許可を頂いてちょこんと真澄さんの隣に腰掛ける。
 何だろう、真澄さん、最初に顔を見合わせた時から昨日のことを一切話していないけれど――。
「あのですね、真澄さん」
 私は微かに嫌な予感を覚えつつ呼びかけた。顔色は良い。それに、穏やかに微笑んでいる。……まるで昨夜の怒涛の一件など無かったかのように。
「何でしょう」
「えっと……、どこか悪いところはないですか?」
 真澄さんが柔らかく苦笑する。
「ご心配ありがとうございます」
 うーん。何と切り出そうか。
 ……あ、そうだ。
「真澄さん、今朝瑠璃さんには会いましたか?」
「ええ。朝一番に強引に乗り込んで来たかと思えば訳のわからないことを喚き立てておりましたよ」
 訳のわからないこと?
 眉根を寄せて不安を抱いた私とは対照的に、真澄さんはその時のことを思い出したのかくすくすと笑い始める。
「医務室ですのに。きっと寝惚けていたのでしょうね、支離滅裂な内容でしたから。かと思えば次の瞬間にはその声を聞きつけた白百合様がおいでになって、もう、一時はどうなることやらと」
 白百合お嬢様……じゃあ瑠璃さんは真澄さんに会ったその足でそのまま私の部屋に逃げ込んで来たんだ。
「真澄さん、その瑠璃さんが喚いていた内容ってどんなものだったんですか?」
「ええと……、そうですね、あまり覚えていませんが、光様をどう守ったのだ、とか、何故お前は無傷なんだ、とか」
「――真澄さん」
 私は瞬きを忘れて真澄さんの顔を見た。
「真澄さんこそ、さっきから何を言っているんですか? 笑い事じゃないでしょう、昨日の貴方はとても大変な目に……」
「光様」
 遮られて、私は益々目を見開く。
「いくらなんでも大袈裟です。ただ回廊を歩いている途中で倒れたというだけの話ですよ? 勿論倒れた時に多少の打撲は負いましたが、全ては私の自業自得。寝不足が原因で起こったことなのですから」
 その打撲って昨夜瑠璃さんが一端担ぎ上げた真澄さんを〈魔羅〉と対峙すべくぞんざいに床に下ろした時にできたものなんじゃ。
 ……じゃなくて、え? 回廊?
「真澄さん、昨日は――」
 そこで私は口を閉じた。
 覚えていない? 昨夜の一連の出来事を。
 私、真澄さんに会ったら絶対何故貴方はご無事なのですかって問い詰められると覚悟してここにやって来たのに。
 記憶障害?
 ……違う。
 多分、巨人さんの仕業だ。昨日真澄さんに触れていたもの……、真澄さんの、額に。多分あの時だ。
 それからもう少し情報を聞き出した。彼の中では自分は昨夜私を部屋に送り届けた後に回廊の途中で倒れ、医務室に運ばれたということになっているらしい。
 吃驚したけれど、これは返って好都合なんじゃないだろうか? 〈魔羅〉とのことを知られたくない私にとっては。
 だから。
「真澄さん、しばらく休暇を取ってはいかがですか? お疲れが溜まっているんですよ、きっと。疲労を残したままではお仕事の効率も上がりません。周りの人たちのためにも、数日で良いから休んでください」
 そんなふうに彼を気遣う振りをして、自分が背中に隠している真実に追い立てられるように、怯えるように――早々に医務室を後にしたのだった。


「光お嬢様」
 回廊で黒梅と合流した私は、はたと無表情になっている自分に気づいて、慌てて笑みを浮かべた。
「ちゃんと診察は受けたの?」
 からかうような調子で言いつつ黒梅の硬い上腕をつつくと、黒梅は「ええ、一応……」と微妙な返答を寄越してきた。
「えー? 一応?」
 歩き出しながらなおも私は食い下がった。気分を変えたかったのかもしれない。
「いえ、しっかりと診察は受けて参りましたわ」
「ほんと?」
「はい。ですけれど、これ以上は治療の施しようがないから帰りなさいと言われまして」
「何だって、それは大変だ!」
「はい?」
「黒梅、そんなに重症だったんだね。熟練の〈薬師〉も匙を投げ出したなんて! 可哀想に黒梅、私が死ぬまで傍にいるから気に病まないでね。ずっとずっと友達だよ」
「光お嬢様……、わたくし要は、あまりに軽傷で薬を出す必要もない、舐めときゃ治ると言われたんですのよ」
 黒梅ってば真面目さんだなぁ……。いや、私も少し前まではこんなふうに常に気を張っていたような気がする。
「はっはっは、冗談じゃないか」
「まあ、光お嬢様ったら」
「ねえ光お嬢様って言いにくくない? 光で良いよ」
「前にも申し上げました通り、これは譲れません」
「じゃあせめて光さんとか」
「いいえ、光お嬢様は光お嬢様です」
「あらつれないお返事ですこと」
「嫌ですわ光お嬢様。私、貴方様に忠誠を誓った身でしてよ」
「なんだか騎士様みたいだね。黒梅格好いい」
「ほほほ」
「…………」
「光お嬢様?」
 なんだか落ち込んできてしまった。昨日の自分の大胆な行動が今になって急に恥ずかしく思えてきたり、怖くなってきたり――。
 瑠璃さん、私と何を話すつもりなんだろう。
「黒梅……」
 私は情けない声を出して隣の黒梅を見上げた。
「この格好、やっぱり変じゃない?」
「もう、光お嬢様ったら――」
 黒梅の屈託のない笑顔に、私は少しだけ救われた。
 問題は目の前に山積みになっていたけれど。


 正午から一刻が過ぎた。良い天気だったので、私は途中から縁側に出て裸足の足をぶらつかせていた。抽斗から沓も引っ張り出して来て、ここからでもすぐに凪苑に向かえるよう準備は万端にしてある。
 が、肝心の瑠璃さんが来ない。
 黒梅も居ないし、今は私一人きり――かと思えばそうでもなく。
『光ちゃん、さっきから溜め息ばっかついてっけどさ、何か悩みでもあんの?』
 何故か私の隣には〈魔羅〉が取り憑いた死人、牡丹が。いや、牡丹という名の〈魔羅〉が取り憑いた名も知らぬ青年の……、これ以上考えるのは止そう。
 つい先刻凪苑の中からひょっこりと現れ、不気味なくらい眩しい笑顔を浮かべたかと思うと両手を上に挙げた状態でこちらに突進してきた。なんという恐ろしい動きをするのだ。人間に取り憑いたからには人間らしくしなさい、と会って早々に私は説教してしまった。ここで働くんだったらさらに人として清く正しく美しく。じゃなくて、とりあえずは礼儀正しく。宣言通り髪を短く切ったようで多少雰囲気は変わっているものの、中身がこれではただの人間の皮を被った野獣である。人に突然抱き着くわ大声を出すわで、先が思いやられる。と、何故か私は親のような心持で牡丹を見てしまうのだが、何故だ。責任感ゆえになのだろうか。
 因みに当然のことながら牡丹はまだ〈御殿〉で雇ってもらえていない。彼曰く、今は広い凪園内で大人しくひっそりと過ごしているそうだ。とはいえいつまでもそうしているわけにもいかないだろう。あんな事があった後で特に今は守護軍の人達も警戒しているだろうし……、もしかしたら警備が強化されていたりして。
 ああ、わかっている。〈魔羅〉に肩入れするのは良くない。恐ろしいことをしているという自覚はある。瑠璃さんにバレたら軽蔑の眼を向けられるだろうか、それとも牡丹ともども瞬殺されるのだろうか。
「そりゃあ色々ありますよ。お年頃ですから」
 私は自分の足元をぼうっと見つめながら先程の牡丹の質問に適当に答えた。
『へえー。人間にも発情期ってあんの?』
 真顔で何を言い出すのだ。仮にも牡丹のことで悩んでいるというのに。
「……そういう発言がいけないって言ってるの」
『え、どっち? あるの、無いの?』
「無いよ。……多分」
 なんでこんな馬鹿馬鹿しい質問に逐一答えてあげているんだ私は! 答えは簡単、「暇だから」である。
「ああもう最悪」
 頭を掻き乱したら、牡丹が何故かぎょっと身を引いて私を凝視した。
『何がそこまで光ちゃんを悩ませるの、誰の所為? そいつのことは俺が八つ裂きにしてやっから安心しな! んでもってついでに生き血を浴』
「牡丹の所為だよ」
 口が滑った、と一瞬後悔したけれど、牡丹はきょとんと見つめ返してきた。
『ぼたんって誰?』
「…………」
『……あ、俺かぁ!』
 〈魔羅〉ってもしかして人より知能が高いのかななんて疑いを持っていた私だけれど、その可能性はたった今消滅した。馬鹿だ。とりあえず、牡丹という〈魔羅〉は馬鹿だ。
「牡丹、あのね……」
『んー?』
 牡丹は表情や動作が一々大袈裟だ。私の方から話しかける度に限界まで目を見開いている。ちょっぴり怖い。
「真面目な話。ちゃんと聞いて」
『うんうん』
「顔は近付けなくて良いから……」
『だってさー、人間の耳って超悪ぃんだもん』
「は?」
『サーセン』
「……良い? あんまり目立つ行動を取っちゃ駄目だよ。ただでさえその頭、目立つんだから。それから特に注意して欲しいのは、その……、あんたが今入ってる人の知り合いとか、ご家族の方には絶対に会っちゃ駄目。家族は多分似たような容姿をしているだろうから会えばすぐにわかると思うけど、知り合いは牡丹にも私にもわからないんだからね。ヤバイと思ったらすぐに逃げる。それか、速やかに別の死体に取り憑く。……ええとね、例えばご家族にも知り合いにも先立たれた長寿のご老人の死体とか――」
『それは絶対ヤだぁ!』
 珍しく静かに話を聞いてくれていると思った次の瞬間にこれである。声が大きいぞ。
 大体。
「なんで? それが一番安全そうなのに」
『光ちゃんに好きになってもらえないじゃん!』
「……何言ってんの」
『なんで俺がこんな綺麗で若い男の死体を選んだのかわかってんの? わかってないよね光ちゃんさぁ。まったくもう! しっかりしてよね!』
 何故か今度は私が叱られている。謎の展開だ。
「牡丹、ちゃんと私の忠告を聞いて。危ないと思ったら逃げて」
『ヤだね!』
「ちょっと……」
『光ちゃんだってちゃんと俺の話聞けよ!』
 牡丹はぷんすかと怒りつつ、そのまま勢いよく立ち上がると庭園の中へと消えて行ってしまった。なんて聞き分けのない子! これは教育のし甲斐が……ってだからなんで私はヤツの保護者みたくなっているのだ、おかしいぞ。
 はあ、と溜め息をついて何気なく空を見上げた。日がもうあんなに高いところにある。瑠璃さん、遅いなあ。
 もしかしてまだ白百合お嬢様に追いかけられているのだろうか? あの吊り上がった目は、中々手強そうだったし。
 それにしても真澄さんは記憶の操作なんてされて平気なのかな。脳なんていう最も大切な部位をいじられて問題は無いのか。今後何か不調が生じたら次会った時には巨人さん、牡丹に八つ裂きにしてもらおうかな。……無理か。そんなことをすれば私は永遠に元の世界には帰れなくなる――。
 結局、自分が可愛いのか、私は。昨日は散々真澄さんに迷惑をかけて、我が儘をきいてもらって……、それで、今日会ってみて彼が昨日の一連の出来事を覚えていないことを知り、その方が都合が良いだなんて考えた。まずは真っ先に彼を心配するべきなのに。
 あれ、おかしいな。
 私、一人でいてもこんなふうに寂しく感じることってなかった。傍に誰もいないというだけで途端に落ち込み始めるなんてこと、今まではなかった。
 何があっても平気だった。辛くても人前では絶対に涙を見せなかったし、あからさまに表情を曇らせたり、取り乱したりもしなかった。
 ここに来るまでは。
 ……今までの私は、仮面を被っていた?
 一人でいると寂しくて、他人に甘えて我が儘を言って、辛いことがあると人前でもすぐに泣き出したり、些細なことで憤慨したりするのが、本当の私?
 よくわからないや。
 でも、ここに来てから少しずつ変わりつつあるような気がする。というより、自分は向こうの私とは別人であるような気がしている。もう一人の私。
 こんな考えは変かな。
 苦笑を零しつつ、充分過ぎるほどに日に当たりいい加減身体が火照っていたので、部屋に戻ることにした。



<<前項 | 紅蓮目次 | 次項>>


inserted by FC2 system