第三幕:02



 人違いだとか、他人の空似だとか。
 そういった可能性は私の頭の中から綺麗さっぱり完全に排除されていた。
「光様、無暗に近付かれない方が……」
 真澄さんの制止を振り切って、私は端から二番目の牢屋の前に立った。
 その場にしゃがみ込み、じっとその人物を見つめる。床に片膝を立てて座り込んでいる。視線は、よくわからない……、ただ、天井をぼうっと見上げていた。
 胸がざわざわとする。その原因が不安にあるのか焦燥にあるのか憤りにあるのかは、判別がつかない。
 なんで?
 なんで。
 だって、彼は。
「――菩提さん」
 震えた声しか出なかった。
「菩提さん、ですよね?」
 その人が緩慢にこちらを向いた。
 なんで?
 混乱し過ぎて、涙が出そう。
「光様」
「知り合いなんです」
「…………」
 真澄さんは黙ってその場から離れてくれた。
「どうして、こんな所にいるんですか」
 どうしてどうしてどうして……、彼が〈御殿〉に留まっているという話は、ずっと前に瑠璃さんから聞いていた。でも、こんな所にいるなんて想像もしていなかった。どうして。髪を留めていた紐は看守に取り上げられたのだろうか、ばらばらに髪を解いたその姿はまるで女性のようだった。細い。前に会った時よりも痩せたんじゃないのか。
「菩提さん」
「――ああ」
 しばらく無言でこちらを見つめていた彼は、不意に笑い混じりの声を発した。
「君か」
 どうやら忘れられたわけではないようだった。ひとまずそれだけは安心する。でも、足にはいかにも重そうな枷が付けられていて。なんで?
「菩提さん、どうしてここに?」
「君こそどうしたの? ここは君のような貴人が来る場所ではないと思うけれど」
「……、」
 急に、私は貴人なんかじゃない! と叫びたい衝動に駆られて、自分で驚いてしまった。きゅっと唇を噛んでその衝動に耐える。
「ねえ、元気そうだね。ここでの暮らしには慣れた?」
「…………」
 私は何と答えたら良いのかわからなかった。正直に言えば良いじゃないか、なんだかんだと元気にやっていますって。瑠璃さんの稽古を見学するのが日課で、毎日それなりに楽しいですって。何も生活に不自由はありませんって――。
 駄目だ。
 言えるわけがない、彼のこんな姿を前にして。
「何か、事情があるんですよね? ……菩提さんが罪を犯すわけが、」
「どうかな?」
「…………」
 泣きそうになっている私とはまるで正反対に、彼は笑っていた。おかしそうに、喉の奥でくつくつと。唇を歪めて。目を細めて。
 違う、話になっていないじゃないか、初めから。
 彼が真実を話してくれない。
「菩提さん、ねえ、どうして?」
 彼は答えずににっこりと綺麗に笑って首を傾げてみせた。ああ、わかった。私には何も教えてくれないんだ、絶対に。
 それだけのことなのに。
 私はその場に勢いよく立ち上がると、次の広間へと全力で走り去った。


 煌びやかな衣服を身に纏った人々が薄汚い地下の広間に溢れている。異様な光景だった。
 その空間の片隅で、私は小さく蹲っていた。顔が上げられない。麗燈さんに嘘を吐かれたと気付いた時にも、瑠璃さんに凄絶な瞳で睨まれた時にも、〈恭爺〉さんに意地悪された時にも、瑞枝に冷たくあしらわれた時にも、こんなふうに泣き出したりはしなかったのに。なのに今、どうしてか涙が止まらない。膝にぎゅっと瞼を押しつける。酷い顔をしていると思う。
 私のこの、黒髪に黒眼という容姿は〈紅蓮〉ではとても奇異なものなのだけれど、ここが薄暗い所為かそれほど注目されてはいないようだった。急に泣き出したことも、この異様な状況を嘆いていると解釈されたらしい。
 ああ、情けない。こんなことで。
 ……こんなこと、なのかな。
 彼に心を閉ざされた。何故だかわからない。
 駄目だ、これ以上感傷に浸っていたって状況は何も変わらない。一度落ちたら、抵抗しない限り重量に従って沈んで行くばかりだ。
 私は袂で乱暴に目元を拭い、顔を上げた。真澄さんの気遣わしげな視線を感じる。
「大丈夫ですか?」
「はい。すみません突然。ありがとうございます」
「いえ……、私は何も」
 黙って隣に居てくれただけで充分だ。これで慰められでもしたら余計に年甲斐もなく盛大に泣いてしまったことだろう。
 真澄さんが天井を見上げた。
「外の様子は全くわかりませんね」
「……そうですね」
 音が届かない、という意味だろう。
 私も天井を見つめた後、自分が入ってきた入り口の反対側にある入り口に視線を向けた。黒い長衣を纏った人物たちが五、六人、気難しげな表情を浮かべて立っている。守護軍の中でも精鋭揃いと噂の第一師団の人達だろう。たぶん何かあればあそこから連絡が来るんじゃないかな、と勝手に推測してみた。第一師団の人達は表情こそ曇っていたものの、真っ直ぐとその場に立って殆ど見動きをしない。堂々として見える。事実はどうなのだろうか、突然強いられたこの不測の事態に多少なりとも動揺や忿懣を抱いているだろうか。周囲の者に不安を与えないためにじっと耐えているのかも。だってそれが表情に出ているのだと思うし。
 まあ、彼らについての考察はさておき。
「これで全員ではないですよね?」
 周囲をぐるりと見回した後、真澄さんに確認をとってみる。
「ええ。ここ以外にも避難に使われている広間があるそうです」
「篠たちは避難できたのかな……」
 というか、どのみち地下牢が避難場所なんだな。……私、知らなかった。今日まで何も知らずに過ごしてた。
「そうですね。ご心配ですか?」
「友達なので」
「……友、ですか?」
「あ、いえ。何でもないです」
 あははと笑って誤魔化す。そうでもしないとまた涙が出そうだった。今日はもう、涙腺がどうかしている。
「――一体姫のご加護はどうなっている」
 不意に隣にいた壮年の男性が吐いた言葉を耳が拾った。姫の、ご加護? ……そうだ、〈御殿〉内部に〈魔羅〉が入り込むなんてことは本来有り得ない。〈御殿〉全体に〈穢れ姫〉の守護の術がかけられているからだ。この男性は、〈魔羅〉が魔牢から逃げ出したという事実を知らないのだろうか? それともそれ以前に魔牢という存在を知らない?
「……真澄さん、第一師団って強いんですよね」
「それはもう」
「じゃあ大丈夫ですよね……」
 魔牢に閉じ込めている訓練用の〈魔羅〉は初心者向けの雑魚だって瑠璃さんが言っていたもの。うん、だから大丈夫。今頃は既に退治し終えているぐらいだろう、きっと。
 でもなんだか違和感が否めない。そんな弱い〈魔羅〉がどうして逃げ出せたのかってことと、わざわざ〈御殿〉の住民全員に避難を呼びかけたってことと。前者についてはある程度弁明できる。その訓練を行っていた霊術師がよほどの新人で、霊術の扱いに慣れていなかった。尚且つ傍で監督するベテランの霊術師が余所見をしていた。そんなところだろう。
 後者については……、うーん。〈魔羅〉の「生物に取り憑く」という性質を考えれば、賢明な判断にも思えるけれど。でもそのために全員地下牢に避難! なんて。
 もう一度改めて周囲を見回すと、なんともいえない不穏な空気が漂っていることに気付いた。皆、不安がったり苛々したりしている。〈魔羅〉は人の穢れから生まれると聞く。穢れって何だろう。未だに良くわからないけれど、人の負の感情の中でも最悪のモノがそれなのかなって勝手に想像している。だから、こういう状況は良くない気がした。早く避難解除されないかな。ここは薄暗くて、じめっと湿っぽくて、心までその色に染まってしまいそう。
「瑠璃さんは無事かなぁ」
 不穏な空気に侵食されるのが嫌で、私はわざと明るいトーンの声を出した。真澄さんもそれに気付いたのか、小さく笑う。
「それは問題ないでしょう」
「でも万が一ってことも……」
「光様は瑠璃を殺したいんですか?」
「えええ! やだな、縁起でもない。私は本当に心から心配しているんです」
「左様ですか」
「左様ですよー」
 間延びした台詞を吐いた後、私は真顔になって声を潜めた。
「真澄さん」
「何ですか?」
「やっぱり、何かおかしくないですか?」
 真澄さんは一瞬、守護軍の人達の方へと視線を飛ばした。
「……私も妙だと思っています」
 やっぱり?
「何故逃げ出したんでしょうか、〈魔羅〉」
「それは……」
「近くにいた人の不注意が原因だと考えるのが妥当ですよね?」
「ええ、その通りです」
「でもだからって突然、全員まとめて避難せよ! なんて怪しくないですか?」
「私もそう思います」
 真澄さんがさらに声を小さくする。
「〈魔羅〉は生き血を浴びて成長するそうです」
 うむ。実におぞましい話だ。
「ですから……」
 あ、もしかして――訓練用の〈魔羅〉が生き血を浴びて凶暴化し、逃げ出した? ……いやしかし、何があったらそんなことになるんだ。生き血って。想像もしたくないぞ。
 それにしたってあのお姫様が作った結界から逃げ出すなんて。
 ……ん?
 ただの結界じゃ、ないんだよね。
 それってものすっごーく強い〈魔羅〉じゃないと、無理なんじゃ。
「……真澄さん、私なんだか寒気がしてきたんですけど」
「何か羽織る物を借りてきましょうか」
 いや、真澄さん。そこは真面目にボケなくていいのだ。
「先程から何をこそこそと話し合っている」
 ふと隣の、先程私が言葉を拾った壮年の男性がそんなことを言ってきた。どうやら私と真澄さんに向けて言ったらしい。怪しく見えたのかな? 何と説明しよう。
「ん? ……そなた、見かけない顔だな」
 男性が私に顔を近づけてきた。咄嗟に顔を真澄さんの背中に押し付ける。
「なんだ、礼儀のなっていない――」
「申し訳ございません。主人は少し、お気を患っておりますので」
 真澄さんが素早く言葉を挟んだ。が、それが逆効果だったのか、男性がずかずかと近付いてくる。どうしよう、怖い。一般の貴族の人とここまで接近したのは初めてだった。
「顔を見せよ。どこの家の者だ」
「お止め下さい」
 真澄さんの制止の言葉を無視して、男性が手を伸ばしてきた。私の頭に向かって――まさか、髪を掴む気?
 次の瞬間、ぱしんと軽い音が鳴り響いた。辺りが一瞬で静まり返る。
「貴方こそ無礼ではないですか。何かあれば処罰を受けるのは貴方の方ですよ」
 真澄さんが珍しく感情的な低い声で、早口にそう言った。男性を睨みつけながら。
 あ――どうしよう。私の所為だ。
「貴様……」
 男性は明らかに憤慨している様子だった。顔が赤く、目下の者である真澄さんに手を叩き落とされたという羞恥も入り乱れているようだった。
「貴様に〈魔羅〉が取り憑いているのではないか!」
 男性が急に叫んだ。……そんなわけないじゃないか、何を言ってるの、この人。〈魔羅〉に取り憑かれたりしないように、こうして態々地下牢なんかに避難してきたんじゃないか。皆、同じ状況であるはずなのに。
 その男性の声は大き過ぎた。その場に居合わせた貴族の人達の視線が一斉にこちらに集まる。
 ああ、なんてことを。
 皆、元々こんな狭くて暗い場所に閉じ込められて、普通の精神状態ではないのに。勿論、真澄さんのことを〈魔羅〉だなんて叫んだ、その男性自身もそうなのだろうけれど。
「――違います!」
 私は責任を感じ、思わず真澄さんの前に飛び出た。後ろで真澄さんが息を飲んだ気配を感じる。
「そんなわけないじゃないですか。何も証拠が無いのに、勝手なことを言わないでください。それを聞いた周りの方々だって不安になるでしょう!」
 私の言葉――特に最後の一節には、周りの人達も同意してくれたような気がする。でも、それは一瞬だけだった。
「お前、〈無色〉じゃないか!」
 鋭い声がした方を振り向く。叫んだのは、年若い少年だった。
 〈無色〉。
 ……ああ、そうだった。
 でも、だから何だと言うのか。
「なんでこんなところに居るんだよ!」
 は?
「出ていけ!」
「貴族ごっこがしたいのなら余所でやれ」
 なんで、なんでそんな話になるの。訳がわからない。目の前がちかちかする。あれ、私。なんでこんなところにいるんだろう? なんて馬鹿な疑問が浮かぶ。
「光様」
 真澄さんが私の視界を遮るように自分の方へと顔を向かせた。
「通りでみすぼらしい格好をしているわけだ」
 でも、姿は見えなくとも声は確実に耳に入ってくる。真澄さんの腕が護るように背中に回った。
「あら嫌だ。そんなふうに下賤の者と通じるから、しまいには色が抜けるのよ」
 今度は女の人の声で。何故か、そこで笑いが起こる。何がおかしいのだろう、全くわからない。……「下賤」? まさか、真澄さんのことを言ったのか。
 ふつりと怒りが湧いた。自分のことは何と言われても歯を食いしばれば耐えられるけれど――、
 その時だった。
「――うわああっ」
 男の人の悲鳴が上がった。声がした方を見ると、守護軍の人達が通路の奥に注目して、各々剣を取り出し、臨戦態勢をとっていた。
 そんな、〈魔羅〉が? こんなところにまで!
「!?」
 突然ぐいっと手を引かれてその場に立ち上がらされる。吃驚して振り返ると、私の腕を引いたのは真澄さんだとわかり、刹那胸を撫で下ろした。
「逃げましょう」
「え」
 腕を引っ張られ、半ば強引に走らされて、あっという間に次の広間へ。
 菩提さん。
 通り過ぎる時、やはり彼はぼうっと天井を見上げていた。


 機械的に身体を動かす。引っ張られているから、その方向に走っているというだけ。そこに私の意志はない。月明かりでぼんやりと明るく光って見える木の洞の入り口があって、そこに梯子が掛かっていた。「急いで」と性急に急かされ、縺れそうになる足を動かして梯子をのぼり切る。真澄さんは例の石の扉に行きと同じように守護符を張ってから素早く地上の私の元へとやって来た。その場に膝と両手をついたまま呆然としていたら、「光様、お早く。ここはもう危険です。第一師団の者が護っているとはいえ――」その後の言葉は意味を持って私の頭の中に入っては来なかった。なに? 混乱する。目の前が真っ白で景色は何も見えないし、音も聴こえない。
「光様!」
 真澄さんの厳しく叱責するような声で我に返った。目の前に彼の顔。肩を軽く揺さぶられた。
「私は瑠璃のように術を扱えません、いざという時貴方を護り切れるかどうかわかりません、ですから出来るだけ遠くへ逃れるより他に道はないのです。お早く!」
「真澄さん」
 こんな饒舌で感情的な真澄さんは初めて見る。それだけ危機的状況に陥っているのだという自覚が今更ながら湧いてきた。そうだ、ここは危ない。〈魔羅〉から逃げなければ。
 ……逃げる?
 不意に、ぐちゃぐちゃに掻き乱されていた頭の中がすっきりと一つの簡単な答えを導き出す。
 逃げていいのか。
 いや。
「真澄さん――」
 おそらく主殿に繋がる出入り口を使って避難した貴族の人達はこのもう一つの出入り口の存在を、場所を、知らないだろう。
 だから私が皆に教えに行かなきゃ。
 ……なんて使命感は私には毛頭無く、ただ。
「ごめんなさい」
「光様!」
 骨折覚悟で洞の中に飛び降りた。そうでもしなければ梯子を下りている途中で真澄さんに捕まると思ったから。
 人間やればできるもので、尻もちをついたり頭から落ちて頭蓋骨陥没なんて事態にはならず、無事両足で着地することができた。びりびりと足に振動が伝わる。痛みもあったけど、怯まずに着地と同時に全力で駆け出した。体力は絶望的にない私だけれど、その他の身体能力は人並だ。あくまで人並、なんだけれど。
 大丈夫、道順は鮮明に覚えてる。
「光様!?」
 走りながら床に転がっていた煉瓦の破片を拾い上げて後方に投げたら、真澄さんが驚愕の声を上げてその場に一瞬留まった。良かった、投げたものは難なく避けてくれたようだ。
 そのまま立ち止まっていてくれればいいのに、真澄さんの立ち直りは意外と早いもので、すぐに地面を蹴ってこちらに向かってきた。
「真澄さんは瑠璃さんを探してきて下さい!」
「なっ……」
 無茶苦茶なお願いをすると、真澄さんが叫び返してきた。
「何をおっしゃるかと思えば! 貴方を置いて行けるわけがないでしょう!」
 一つ目の広間を抜ける。真澄さんはどんどん距離を縮めてくる。
「私は大丈夫ですから!」
「どこがですか!」
 足も速いが切り返しも速いな。このままでは追いつかれる。
 十字路に差し掛かると、看守さん(っぽい人達)計四人が一体何事か!? という困惑した目を一斉に向けてきた。そうだ、ちょっと応援を要請しよう。
「助けて下さい、あの人を止めて!」
 皆さん、ぽかんとしていらっしゃる。
「お願いします! これはお上からの命令ですからね!」
 またもや出鱈目を言うと、「お上」という言葉に皆さんが顔を見合わせて反応した。よし、いけそうだ。
「光様! お待ちください!」
 四人の看守さんが壁となり、真澄さんを捕獲……いや足止めしてくださっているのを尻目に、私は真ん中の通路へと急いだ。真澄さん、ごめんね。
 しかし、それ以上先へ進むことは不可能だった。
 人が溢れ返っていたのだ。
 それも全員が全員、こちらへと向かってくる。
 通路は一本道で逃げ場所は無いし、戻れば真澄さんに連れ出されてしまうしで、私は身動きが取れなくなった。
 でも進まなきゃ――菩提さんに会いたい。
 〈魔羅〉はどうなったのだろう。
「邪魔だ、〈無色〉は消えろ!」
 言葉の暴力よりももみくちゃにされるのが辛かった。前に進めない、どころか押し流されている気がする。
「光様」
 と、不意に背後で聞き慣れた声がした。真澄さん? もう追いついたのか、ってそれどころじゃないっ。
 腕を振り回して暴れる私を真澄さんが取り押さえにかかった時だ。
「皆様、ご安心ください」
 奥の広間の方からそんな声が届いた。よく通る声だった所為か、混乱して必死に逃げようとしていた人々がぴたりと動きを止める。
「〈魔羅〉は我ら第一師団が討伐致しました」
 ――え?
 突如もたらされた平穏に、私はすぐには反応できなかった。
「光様、お怪我はございませんか」
「…………」
 混乱していた貴族の人々はその言葉で落ち着きを取り戻して、その後第一師団の指示により何事もなかったかのように主殿へ続く入り口へ向かって歩き出した。横を通り過ぎる際にさりげなく侮蔑の眼差しを寄越してくる人も何人かいたけれど、私にはそれを気にするだけの余裕がなかった。……え?
 終わった?
 〈魔羅〉、倒したって。
「光様」
 人が通路から消えたところで、私はふらふらと歩き出す。真澄さんはもう何も言わず、ただ私の後ろからついて来た。
 端から二番目の牢屋の前で、私はずるずるとしゃがみ込んだ。両手で鉄格子に掴まりながら。
「菩提さん」
 たった今気付いたような振りをして、彼はこちらに顔を向けた。
「光ったらまだいたの? なんだか騒がしいね」
「菩提さん……」
 言葉が出てこない。また拒絶されるのが怖かった。あの綺麗な笑顔で拒絶されるのが怖かった。
「菩提さん、私は」
「ん?」
「……会いたかったんです、貴方に」
「…………」
 ああ、言ってしまった。殆ど告白じゃないか、恥ずかしい。なんでこんなことをこんな時に言ったんだろう。自分で自分がわからない。自分で自分に驚いた。
 菩提さんはきょとんとしたあと、口元に手を当ててくすくすと笑った。
「嬉しいことを言ってくれるね」
「菩提さん」
「僕も会いたかったよ。――実の妹のように可愛い君に」
 牢屋の中央で片膝を抱えて座っていた彼が鉄格子間際まで近付いて来た。後ろで真澄さんがぎこちなく身じろぎした気配を感じる。
 鉄格子の間から白い手が伸ばされた。久しぶりに近くで見た彼は、なんというか、綺麗で。顔には汚れが付着していたし、服装も粗末なものだったのだけれど、以前より何故だか綺麗に見えた。……変だ。私の目はどうしてしまったのだろう。瞬きも忘れて見入る私の頭を、私の目をおかしくした張本人は慣れた様子で柔らかく撫でた。
 そうして束の間差し迫った現実を忘れていた。
「伝令役からの緊急連絡が入りました」
 広間の方から再び聴こえてきたよく通る声にはっとする。――緊急連絡?
「此度の騒動の元凶たる〈魔羅〉は複数潜伏している模様。住民の皆様は引き続き地下牢にて待機するようにとのことです」


 複数? ではその総数は。そんな話は聞いていない。どうなっているのだ、此処の警備は。そうだ、警備の者は何を。この事態の収拾責任は第一師団が。いつまでこのような場所にわたくしを。上で何が起こって。詳細を説明せよ。夜が明ける前には全ての始末が。
 第一師団の男性が連絡事項を朗とした声で伝え終わった途端、人々のそんな不満の声が次々と上がり、それと同時に男性の元へと人々の波がどっと押し寄せた。一人離れた場所にいた私は、しばらくその光景を遠巻きに眺めたあと、立ち上がる。
「光」
 菩提さんが無意識のように私の名前を呼ぶ。私は彼に微笑みかけた後、第一師団の男性の元へと向かった。
「光様」
 後ろから聴こえた声に一瞬振り返る。
「真澄さんはここにいて下さい。すぐに戻ります」
「……わかりました」
 渋々といった感じの返事を聞き届けたあと、私は人々の群れを掻き分けようとして――全く隙間が無いことに気がついた。どうしたものか。四つん這いになって足元から突破するというのもなんだかなぁ。特に男性相手では気が引ける。破廉恥な! と訴えられても弁解は不可能だ。
 ぶつからないように少しだけ後ろに下がり、人々の群れを前にして顎に手を遣りううむと唸った時だった。私の左方、団子と化している人々の間から一人の細身な少年がずるっと飛び出してきた。一瞬無理矢理に押し出されたのかと思ったが、どうやら自らの意志で這って出てきたらしい。私が躊躇していたことを堂々と……、思わず凝視してしまう。少年はその場に膝をついたまま、ふう、といった様子で額の汗を袖で拭った。汗は別にかいていないように見えるが……じゃなくてこの少年、真澄さんの作務衣っぽい格好に似た装いをしている。貴人ではないのだろうか?
 ……あ!
「君、君っ」
 私は彼を逃すまいとしてその目の前に膝をつくと、がしっと両肩を掴んだ。
「わわわっ、なんですか!?」
 少年がぎょっとして目を剥く。無理もない、私の容姿は奇怪だ。
「君が伝令役?」
「わーっ、大きい声で言わないで下さいよ! 責められるのが嫌で逃げてきたのにっ」
「あ、ごめん」
 咄嗟に謝罪したがどう考えても少年の声の方が大き……じゃない、そんなことはどうでもいい。
 私は彼を連れて先程の広間へと移動する。真澄さんが少し離れたところから無言でじーっと見つめていた。
「何なんですか、僕もう行きたいんですけど……」
 少年はそわそわと落ち着かない様子で辺りを見回す。
「さっきのは誰からの指令?」
「えっ? いや、僕は何も……」
 私の真剣な問いかけに、少年は曖昧な言葉を返す。何もって、引き続き地下牢にて待機せよって命令は少年が出したわけではないだろう。
 少年がさりげなく離れていくので、私はぱしっとその細い手首を掴んでつかまえた。そんなに怯えなくても取って食べたりしない。ただ訊きたいことがあるのだ。
「地下牢に避難しろって言い出したのは誰なのかを聞いてるの。わかるよね?」
「ああ、それなら総隊長が……、迅速にって」
 自分に出せる限りの優しい声音で尋ね直すと、少年は私から早く逃れたかったのか、あっさりと教えてくれた。
 掴んでいた手を離した途端、少年は木の洞の入り口の方へと脱兎のごとく走り去った。……随分と俊足だな。
「総隊長」
 口に出してみたが、誰だろう、わからない。会ったことのない人物だ。総隊長……ってことは、紅蓮守護軍の頂点に立つ人だよね。
 嫌な予感がする。先程からずっと。〈魔羅〉、それだけではない何か――人為的なものを感じる。悪意の籠った。
「光様」
 真澄さんが近寄って来て、遠慮がちに声をかけてきた。胸に渦巻く不安の処理に専念していた私は、束の間返事を忘れる。
「……あ、はい」
 顔を向けると、真澄さんは眉尻を下げた困り切った表情で私を見つめていた。
「先程から、一体いかがなさったというのですか。理由があるなら私にお教え下さい。そうでなければ、理由もなく貴方を危険に晒すわけにはいきません」
 そうだった。真澄さんの話を無視して先程まで危険だったこの場に戻って来たのは私の身勝手だ。
「無茶をしてすみませんでした」
「謝罪など求めておりません」
 ん? その言葉、どこかで聞いたと思えば以前黒梅にも言われたことがあるような気がする。私の謝りどころはいつも間違っているということか?
「光様、今度は行かせませんよ」
「う……、どこにも行くなんて言ってません」
「左様ですか。ではそちらの広間に戻りましょう」
 真澄さんに連れられて貴族の方々が避難している広間へと戻った。……とりあえずは菩提さんの無事が確認できて、良かったのかな。
 先刻のように赤裸様な差別を受けないよう、ごく隅っこの目立たない柱の影に身を潜めるようにして腰を落ち着けた。貴族の人達は一部、元通りに座って休養し始めたが、まだ大半は第一師団の男性に突っかかっていた。どうしてあんなにも執拗に責めるんだろう。不安だからなのかな。彼ら第一師団の人達のおかげで今こうして無事でいられるはずなのに。訳がわからないといえば私も同じで、何故突然〈魔羅〉が魔牢から逃げ出したのか、何故その〈魔羅〉にそんな力があったのかとか、少し前に真澄さんと確認した通り、右を見ても左を見ても疑問ばかりが転がっている。
 傍らの真澄さんが懐に抱え持っていた書物を取りだし、膝に広げて黙読し始めた。この人結構マイペースなんだよなあ……いや、私を怯えさせないようにわざと普段通りに振る舞っているという可能性もあるか。
 膝を抱え込む。目立たぬよう、出来るだけ小さくなる。
 いつまでここにいれば良いのかな。こんな切羽詰まった状況の時に主張するのもなんだけれど、ちょっとお腹がすいてきた気がする。夕飯がまだなのだ。
 〈魔羅〉。
 私は目を閉じて外界を遮断した。
 思い出すのは、忘れもしない〈南鐐ノ森〉で〈白狼〉の襲撃に遭った際の奇妙な出来事だ。〈魔羅〉に取り憑かれた〈白狼〉は気力だけで瑠璃さんに向かっていた。胸から大量の血を流しながら、ただ仲間を殺された恨みのみで動いていた。巨躯を持つ〈白狼〉は見ていて可哀想だったし、何より怖かった。けれど〈魔羅〉はどうだっただろうか。その卑劣な所業や不謹慎な言葉の数々、そして何より見た目の不気味さなんかに嫌悪感や恐怖を抱いたのは確かで、でも――あの時〈魔羅〉は私を襲う寸前で動きを止めた。
 ずっとそのことが気にかかっていた。あの時ヤツは、私に向けて何と言った?
『なんだ? あんたから主の匂いがするぞ』
 主の匂い。
『なんだよう全く、このお嬢さんとすげえ話がしたかったのに殺しやがってぇ!』
 そしてその後〈魔羅〉は、私に興味を持って話をしたがった。結果的に言えばその前に瑠璃さんが止めを刺してしまったわけだけれど……。
 ともかくも、あの時私だけが〈魔羅〉に襲われなかったのだ。
 ――そう、私は何故か〈魔羅〉に襲われなかった。
 どうしよう。
 確かめたいことがある。何故私は〈魔羅〉に襲われなかったのか、何故〈魔羅〉は私から「主」の匂いがするなどと言ったのか……、主ってことは、〈魔羅〉たちの親分みたいな存在だろうか? なんで私からその匂いがするの、おかしい。絶対におかしい。何より〈魔羅〉の親分の匂いがするなんて嫌だ。
 それに、総隊長って人のことが気になる。今回の件とどう関係があるのか、あるいは無いのか。瑠璃さんに会いたい。瑠璃さんなら知っているんじゃないか、なんといったって彼は守護軍に所属しているのだから。
 多分私は〈魔羅〉に襲われない。から、一人で外に出て行けば一番誰にも迷惑をかけずに済むと思う。
 顔を上げて真澄さんの横顔を盗み見た。彼はそんなこと許さないだろうし、真実を話せばまた話がややこしくなる。以前彼に、自分は〈魔羅〉がとても恐ろしいと零したことがある。その私が今度は〈魔羅〉達が徘徊する地上に一人きりで出て行きたいなどと言い出したら、彼は一体何事かと疑うだろう。せっかく最近打ち解けてきたのに、彼に猜疑の目を向けられたり、監視されるようになったりしたら辛い。ではどうするべきなのか。
「真澄さん……」
 彼が本から視線を上げて私を見る。
「ちょっと、何故か囚人になっている昔の知り合いの元に行ってきても良いですか」
「私もついて参ります」
「えーと……、真澄さんの視界に入っていれば良いですか? 少し離れていても」
「構いませんよ」
 本を閉じながら、真澄さんがどことなく寂しげに笑った。あ、仲間外れにされたと思ったのかな……、まあ事実そうなんだけれど。申し訳ない。
 私は菩提さんの元へと戻った。といっても鉄格子越しに。菩提さんは今度は膝を抱えて顔を伏せていた。
「菩提さん」
「……どうしたの?」
 菩提さんは顔を上げながらちょっと眠たそうな返事をした。
「あの、相談したいことがあって」
「僕に? ……僕でいいの?」
 菩提さんはちらっと真澄さんの方へと視線を飛ばす。真澄さんは隣の広間と此方の広間との丁度中間の地点にいた。壁に背を凭せ掛けて、腕組みをしてこちらを見ている。……真澄さん、耳が良さそうだな。
 ということで、私は極力声を潜めて菩提さんと会話を交わした。
「私、外に出たいんです。どうしても」
「今は〈魔羅〉が徘徊していて危険だと聞いたよ」
「そうなんです」
「……それでも、外に出たいの?」
「はい。それも一人きりで」
 菩提さんは私の突拍子もない話に幾度か瞬きを繰り返した後、にこりと綺麗な笑みを浮かべた。ああ、菩提さんの笑顔だ。
「何か考えがあるのかな?」
「はい。……でもきっと、あそこにいる真澄さんは許してくれません」
「彼は光の護衛さん?」
「はい。でも、彼がいると返って危険なんです」
「どうして?」
 私はほんの一瞬だけ躊躇した。
「実は私、〈魔羅〉に襲われない体質みたいなんです。菩提さんと瑠璃さんに護衛をしてもらっていた時に、〈白狼〉の襲撃に遭ったことがありましたよね」
「うん」
「〈魔羅〉が私に向かって突進してきたの、覚えてますか?」
「覚えているよ」
「あの時何故か私の目の前で〈魔羅〉は動きを止めたんです」
「それは……、君の投げつけた霊符の効果が表れなかったから、拍子抜けをして、とかではなく?」
「違うと思います」
 言っても良いだろうか。菩提さんには言いたい。言ってしまいたい。今は他に言う人がいない……。
「あの時……、菩提さんと瑠璃さんの耳には届いていなかったと思うんですけど、私、〈魔羅〉に『主の匂いがする』って言われたんです。私は何のことだかわかりませんでした。今もわかりません。だから、それを確かめたいんです。それに……」
 段々自信が無くなってきて、尻すぼみになる。そもそも菩提さんに相談したこと自体が見当違いなんじゃないか?
「瑠璃さんに知らせたいことがあるんです。内密に」
 そこまで言い切ると、私は俯いた。菩提さん、今は自分のことで精一杯なんじゃ……。だって、こんな状況で。私、どうかしてる。これは傍から見ればただの我が儘だ。
「ねえ、光」
 穏やかな声が降ってきて、私は顔を上げた。菩提さんは柔らかな笑みを湛えている。普通の囚人がこんな表情を浮かべることって、有り得るんだろうか。
「まずは彼に話してごらん」
「でも」
「行っておいで」
 やんわりと背を押され、私は腕組みをして壁に凭れかかっている真澄さんの元へと小走りに駆け寄った。
「あの、真澄さん」
「何でしょう」
「一人で外に出たいんですけど……」
「何ですって?」
「え、ええと、あの」
「いけません」
 ざっくりと即却下され、私はううっと怯む。しかしもう少し粘ってみることにした。
「ど、どうしても! どうしても今、外に出たいんです」
「ではその理由をお聞かせ願えますか」
「えっ、それは……」
 それは、言えないから困っているのだけれど。冷や汗が出てきた。
「それは……ちょっと忘れ物を取りに」
「ならば私が一人で行って参ります」
「えっ! いやいやいや、それは駄目です」
「何故?」
「だ、大事なものだから……」
「光様、嘘はいけません」
 ばれた。普通にばれた。そして無表情な真澄さん、怖いよ!
 私はぱたぱたと走って再び菩提さんの元に戻った。鉄格子に両手で掴まり、ずるずるとその場に腰をおろして項垂れる。
「ううっ、即却下されました」
「そう……」
 菩提さんはよしよし、と私の頭を撫でて慰めてから、思案顔になった。
「菩提さん?」
 不安になって呼びかけると、菩提さんがこちらを向き、ふわりと微笑む。
「大丈夫。僕がなんとかしてあげるからね」
「え……」
「とりあえずそこの人を呼んできてくれるかな?」
 といって菩提さんが顔を向けた方向には、真澄さん。うう、怖いよ。雰囲気が既に頑なになっているもの。
 言われた通り真澄さんを菩提さんの目の前まで引っ張って来ると、菩提さんは柔和な笑みを作った。対して、真澄さんは無表情である。だからそれ、怖いってば。
「ねえ、真澄さんとやら」
 菩提さん、一体何を言う気だ。
「貴方が光の従者だったなんて驚いたよ」
 私はひとり首を傾げる。あれ、菩提さんと真澄さんとは知り合い? そんなはずはないよね。
「毎日忙しそうだよね」
「……そんなことはない」
「そう? だって貴方――」
 菩提さんがそう言いかけた時、真澄さんが無言で鉄格子を蹴った。
「わっ」
 私はぎょっとして身を縮こまらせる。えええ、なに? 真澄さんご立腹? 瑠璃さんじゃあるまいに。というかこの調子じゃ私の無謀な行動に許可なんて一生下ろしてくれない気がする。
「黙れ」
「貴方って本当はすごく」
「黙れと言っている!」
 敬語じゃない真澄さん、初めて見た。というかすげえ怖い。友人である瑠璃さんに対しても敬語を使うくらいなのに、今日はどうしちゃったんだろう。囚人相手だから? 囚人。そうか、菩提さん今、囚人なんだった。
 と、私が半ば外に出ることを諦めたとき、真澄さんがその場にしゃがみ込み、何やら菩提さんと顔を寄せ合って極々小さな声で話し合いを始めた。何を話しているんだろう。結構近くにいるのに、聴き取れない。
 しばらくして真澄さんが立ち上がった。憮然とした表情で私を振り返る。
「光様」
「はい」
「良いでしょう。ただし私もついて参ります。それが条件です」
「……ええっ」
 あれほど頑なに却下していたのに、何故この数分で考えが変わったのか。まさか菩提さん、説得してくれたんだろうか? 一体どうやって。
 私が吃驚して目を丸くしていると。
「光、気をつけて行ってらっしゃい」
 なんて呑気な台詞を吐きつつ菩提さんが牢屋の中から手を振った。
「……はい、行ってきます」
 地下牢の囚人に向かって言うにはあまりに不釣り合いな台詞を吐き、私は真澄さんと共に再び地上へと向かう。
 一度だけ振り返った。
 菩提さん。
 ――また会えるよね?



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