第三幕:01



 それから何日が過ぎただろうか。
 ……一週間ぐらい?
「真澄さん」
 机上に広げたやたらと分厚い書物を黙読していた彼は、私が名前を呼ぶと緩慢に顔を上げて「はい」と答えた。場所は夕凪苑に設けられた東屋の中でも特に立ち入り禁止区域にごくごく卑近な位置に存在している一つだ。何故こんな辺鄙な場所で休憩をとっているのかというと、実はちょっとした魂胆があったりする。前にも話した通り朝凪苑は守護軍の領地であり、軍に籍を置く者以外の立ち入りは原則禁止されている。但しだ。朝凪苑と夕凪苑の境界には深い堀が張り巡らされている……というわけでもなく、ただ樹木と樹木の間に縄が張ってあるだけで、夕凪苑側から朝凪苑内部を覗き見(というと聞こえが悪いが)、もとい見学をすることは可能なのである。で、最近気付いてしまった。この東屋からだとよく見えるのだ、守護軍の宿舎やら鍛錬場やら食堂やら何やらに至るまで、諸々が。軍人さん達の気合いの入った、時には泣きそうな声もよく聴こえる。それで、つい最近――五日ほど前だろうか? その中に瑠璃さんの姿を発見してしまった。私が見つけた時は丁度剣稽古の最中で、もう、凄かった。振り回していたのは刃の付いていない稽古用の剣だったけれど、瑠璃さんの対戦の時だけ剣と剣がぶつかる音が明らかに違うのだ。なんというか、鋭い感じ。んでもって音がよく響く。効果音にすると「カァン!」みたいな。しっかりと狙い通りに当たっているからではないか、と私は勝手に推測している。他の、明らかに新人っぽい尻込みした様子の人の剣は「ごっ」と鈍く短い音しか鳴らない。なるほど、斬るというよりこの人は叩いてしまっているんだな……なんて、実はこの言葉はその新人さんへ向けた瑠璃さんのアドバイスだったりするんだけれど。おー、瑠璃さん、〈淡紅桜花ノ郷〉の人だけどここでもすっかり馴染んで上手くやっているんだ、と感心して呑気に眺めていたら、次の瞬間瑠璃さんの視線はこちらへ飛び。「ひいっ」と咄嗟に真澄さんの背中に隠れるも、あっという間に瑠璃さんが飛んで来て、その時はきつく叱られた。
『光! 何故お前がここにいる、真澄、貴様はこいつの護衛ではなかったのか、自ら主人を危険に晒す馬鹿がどこにいるのだ!』
 真澄さんは背中の私をちらりと首で振り返ってから、肩を竦めた。
『瑠璃、私はしがない〈薬師〉ですよ。光様付きの』
『……あぁ!? 同じことだろう! 禁域に足を踏み入れればそれ相応の罪に――』
『入っていませんが』
『…………』
 瑠璃さんがぱたりと押し黙ったので、私は真澄さんの背中からひょこっと顔だけ出してみた。すると、そこには細い縄で杜撰に作られた境界を挟んだ向こう側で、呆然とそれを見つめる瑠璃さんが。
『瑠璃さん』
 こそっと呼びかけると、射殺すような目で睨まれた。その目を久しぶりに怖いとは思ったけれど、「怖い」は相手に対する最大限の拒絶でもあるので、私は平気な振りをして瑠璃さんのどぎつい眼差しを真正面から受け止めた。真澄さんは、何故かくすくすと笑っている。
『光、よく聞け』
『はい』
『お前は〈魔羅〉が怖いだろう?』
『はあ。まあ……』
『怖いだろう?』
 何故二回訊くのだ。
『お前、〈南鐐ノ森〉での一件を忘れてはいまいか? あの時お前は泣いていただろう、それほど怖かったのではないのか?』
『いや、あれは〈魔羅〉が怖くて泣いたんじゃ……、〈白狼〉が可哀想で……』
『何だと?』
『……何でもありません』
 そうだった、〈白狼〉の死を嘆くのは私を守ってくれた瑠璃さんの行動を間接的に責めることに繋がるんだった。駄目だなぁ、何と言ったら上手く伝えられるのだろう。あの時の彼の行為を否定しない形で、尚且つ私の本心を。
 瑠璃さんが呆れたような目で私を見下ろしつつ、剣の背で自分の肩をごつごつと叩いた。……痛くないのか?
『良いか、光。お前は馬鹿ではないな?』
『えー……と、それはどうでしょう……』
 頭を掻きながら軽い調子で言うと、瑠璃さんにまたもぎろりと睨まれたので、思わずびしっと「気をつけ」の体勢になってしまう。私のことより自分はサボっていて良いのか?
 その時瑠璃さんが落とした深い溜め息に、さすがの私も嫌な予感がしてきた。
『ここでどんな訓練を行っているのか想像してみろ。剣稽古はあくまでも基礎の基礎だ、最も重要となるのは――』
『瑠璃』
 そこで何故か真澄さんが割り込んだ。私を庇うように前に出ると、瑠璃さんと対峙する。
『光様をあまり怯えさせないよう』
 その言葉ではたと気付いた。そういえば、真澄さんには――まだ彼のことを梧桐さんと呼んでいたごく初期の頃の話だ――〈魔羅〉が怖いと、はっきり言ってしまった覚えがある。あの時はまだ〈御殿〉に来たばかりで、精神的にも相当不安定だったし……まあでも、〈魔羅〉についてはまた別かな。別格に怖い、という意味で。
 瑠璃さんは不服そうに口をへの字にしてしばらく真澄さんを睨みつけていたけれど、不意に衣を翻して鍛錬場に戻って行った。久しぶりに見る黒い長衣姿。その背中を見た瞬間、あれっと思った。何か丸っこい花のような模様がその黒衣の背に描かれていたのだ。以前、〈御殿〉に送り届けてくれるまでに着用していたものとは微妙に違った。なんだろう。赤い、蓮の花?
 そういえばあの時羽織っていたものは〈白狼〉との戦いの中でぼろぼろになってしまったし、新調したのかもしれない。
 私は隣の真澄さんを見上げた。
『瑠璃さん相当怒ってましたね。やっぱり朝凪苑には近付かない方が良いのでしょうか?』
『いいえ、光様』
 真澄さんは不敵に笑う。
『あれは照れているだけです』
『……は、はあ』
 果たしてそうなのだろうか、と疑問に思いつつ、集団の中に合流して行った瑠璃さんを目で追ってみた。激しく剣を打ち合っている。というか、次々に伸しては新たな相手とやり合っている。まさに鬼の形相、そこに容赦や慈悲や血や涙は皆無だった。ほらなんだかよく見ると剣だけじゃなく足も肘も出しているしってあれ反則じゃないの? 真澄さんはあれを照れ隠しだというのか。……いやいや、まさか。
 私には八つ当たりにしか見えなかった。
 ……話を元に戻して、現在。
 くだんの東屋にいるわけだが。
 魂胆の一つは上記の通り、瑠璃さんの姿を見るため。それからあともう一つある。ここには私以外の人間、つまり貴族の人が滅多に訪れない。多分こんなところに東屋があるってこと自体あまり知られてはいないんじゃないだろうか。やっぱり「立ち入り禁止区域」に指定されているだけあってそうそう近付く人はいないらしい。一歩でも踏み込めば(そしてそのことが明るみに出れば)罪に問われるしね。……つまり私は変人の部類に入るのだろう、この場合。まあいいのだ。ここが一番落ち着く、私にとっては謂わば穴場というヤツなのだから。
「……あ、ごめんなさい。邪魔して」
 顔を上げて私を見た真澄さんに、ふと読書の阻害をしてしまったと気づいて謝ると、「とんでもない」と素早く返された。
「私こそ怠慢ではないですか?」
「え、何故に」
「貴方をお護りしなければならない身ですのに、このような余所事を」
 まもる? と一瞬目が点になったが、そういえばこの人は身体能力が抜群に優れた〈影〉の一員なのだったと思い出す。〈薬師〉の方が副業なんだっけ。瑠璃さんは〈影〉の彼を知らないようだけれど。
「そんな、読書くらい別に……、それに私の呼びかけにすぐに顔を上げてくれたじゃないですか」
「それは――」
 真澄さんは何故か口籠り、目を伏せて幾度か瞬いた。
「それは?」
「いえ……」
 変な真澄さん。
「ところで私は真澄さんが何の本を読んでいたのかが気になるんですけど、お聞きしてもよろしいでしょうか」
 そうそう、私が真澄さんに声をかけた目的はそこにある。最近は〈影〉のお仕事が無いのか、ほぼ毎日真澄さんが私の護衛をしてくれているんだけれど、私と二人っきりという状況に慣れてきたのか、今日のように本を持参して付いて回ったり、白紙の霊符と筆硯紙墨を用意して内職に勤しんだりと、随分のびのびと過ごしていらっしゃる。四六時中監視するがごとくにじーっと見守られても大いに困るので、真澄さんのこの変化は個人的に大歓迎だ(黒梅に言わせると職務怠慢らしいけれど)。私もそんな、好奇心のままにどこへでも突っ込んで行くような少しでも目を離すと危ない年齢でもな……、いや、前に一度瑠璃さんを放置して一人でふらふらしたことがあったが……、そんなのはうん、遠い過去のことだし、私あの時の私とは違うし! と胸中でこっそりと寒い言い訳をしてみた。ともかくだ。私は私で瑠璃さんの姿を探しつつ、守護軍の訓練を見学するのが不謹慎だけれど興味深かったりして、毎日飽きもせずここを訪れている。要するに日課というやつだ。まだ五日しか続いていないが……。
 今までも真澄さんが読んでいる書物に興味が湧いていないわけではなかったけれど、なんとなく気が引けていた。だって、ね。私自身は基本、本屋でカバーを付けてもらう派だし。それは表紙を汚したくないというのも勿論あるけれど、大方通学の電車内で人目を気にせず堂々と読めるからなんていう理由に寄っている。なので、実はちょっとこの質問には勇気が要った。
「これですか?」
 真澄さんが少し驚いたように聞き返す。嫌なら答えてくれなくても良いんですからね、と心の中で付け加えておいた。心の中でだ。
「はい、それです」
「これは……」
 真澄さんが机上の開かれた頁に目を落として、指先でそっとなぞった。随分古い書物だ。黄ばんでいるし、所々虫食いの跡があるようだし、布で出来た表紙だってぼろっとしている。……それにしても巻物ではないんだな。文字も当然のごとく日本語とは違うし……、いや、蚯蚓が這った跡のように見えるという特徴は、昔の万葉仮名に共通するものがあるけれど。いずれにしろ私には読めなかった。口語では何の問題もなく通じるのになあ。
「まあ、お伽噺のようなものを集めた書、とでも思って下さればよろしいのではないでしょうか」
「お伽噺……の、ようなもの?」
 微妙なニュアンスだ。
「ええ。神話や伝説なども収録されているのです。これが中々入り乱れておりまして、区別を付けるのに骨が折れますよ。子ども向けのお伽噺だと思って読み進んでみれば中身は古い伝承だったりね」
「へえ、面白そう……」
「左様ですか?」
「はい」
「では、何か一つ紹介致します」
「ほんとですか」
 と、暫くはわくわくしながら待っていたが、ぱらぱらと頁を捲っては止まり、また捲っては止まりを繰り返す真澄さんは中々顔を上げようとしない。もしかして子ども向けのお伽噺を探しているんじゃ……と危惧した私は、途中で、その怖いくらい真剣な横顔に「あの……」と呼びかけた。
「さっき真澄さんが読んでいたものが良いんですけど……」
 彼が頁を捲る手を止めて、ぱっと顔を上げる。なんだか少しうろたえているようにも見える。
「あまり興味深い内容のものではないと思うのですが」
「それを決めるのは私じゃないですか?」
「……それもそうですね」
 そう言ったときの彼は、なんだか納得というよりは意表を突かれたような顔をしていた。やはり私は「馬鹿」で「お子様」という認識をされているのだろうか……。
 真澄さんが栞の挟んである頁を開く。
「今私が読んでいたものは、旧き神の予言が延々と羅列されたものでして」
「ほう」
「何らの規則も順序もなくただ倩倩と書かれているだけなので、あまり頭に入ってこなかったのですが……」
「なるほど」
 真澄さんがぱらりぱらりと何頁か捲った。
「……そうですね。中でも一つ、印象に残ったものがございます。遠い未来に人が鉄の塊に乗り狼よりも早く地を駆ける、といった内容なのですが」
「…………」
 あれ、ごめん。今なんか一瞬寒気が走ってしまった、真澄さんとの何気ない日常の一コマであるはずなのに。
「何かに乗るにしても何故人よりも重い鉄なのか、その辺りが興味深いと思いまして。不可思議な発想ではないですか?」
「そ、そうですね、中々……」
 〈紅蓮〉の旧き神様とやら、侮れないな。その予言、当たってるよ――私の世界でなら、だけれど。
 いや、神様は異世界共通なのかな? よくわからない。
 一つ、欠伸を噛み殺した。今日は瑠璃さんを見かけないなぁ。ずっと探しているのに。
 ……まあ、向こうに見つかれば即叱られる運命なんだけれど。
「光様。この頃お眠りに就くのが遅いと伺っております」
 真澄さんの唐突な言葉に私はぎくりと肩を揺らす。どこ情報なのだそれは。くそう、さすが〈影〉。スパイ集団なだけはある。
「何かご不安なことでも?」
「え……いえ、違います」
 真澄さんってなんだか……そう、第一印象からしてそうだったけれど、根が優しいんだよね。そんな遅くまで起きて一体何をしているのかって普通は訊くものなんじゃないかな?
「夜更かしはお身体に障りますよ」
「うーん……」
「少しぐらいなら構いませんが、程々になさって下さいね」
「はい……」
 私はその時たぶん、奇妙なものを見る目で真澄さんのことを見つめていたんだと思う。見つめられた当人は私の顔を見て、きょとんとした後、おかしそうに笑っていたから。
 本当のことを言うと、最近は毎晩日記をつけていて眠るのが遅くなっている。紙漉きの技術が進んでいるとはいえ、それに文字を記す物自体は筆しかないので、その扱いに慣れていない私は毎夜四苦八苦しているのだ。こんな時のために書道を習っておくのだったと今更後悔しても時既に遅しというやつで。墨を磨るのも慣れていないし、散々だ。……散々な目に遭っているという意味の散々ではない。私の技術が散々なのだ。我ながら酷過ぎて目も当てられないぞ。
 でも、やれることはやっておこうと思った。自分が考えをまとめるのが苦手だということはよくわかっているので、少しでも何かの指標になればと、メモのような形で書き始めたのが最初だ。今は、ひとまずその日一日の中で気になったことを冒頭に箇条書きして、その後自分なりの考えを文章で書く、というような形式でつけている。というわけで日記と呼べるような大層なものでもないが、これをすると頭の中が意外な程すっきりして、容易に眠りに就くことができる。日記は今や私の安眠法の一つでもあったりして、一度始めたらやめられなくなってしまった。そこで、それまではいつも不安だったんだなぁという事実にも思い当たったわけだけれど……、まあ、それはそれだ。気付いただけまだましで、気付けないまま過ごしていたらきっといつの日か限界がきて駄目になってしまっていたことだろう。
 少し周辺を歩き回って再び元の東屋に戻ると、そろそろ夕刻に入ろうかという時間帯になった。守護軍の人達は朝と夕の二回に渡って外での稽古を行う。他の時間は建物の中で何か別の訓練をしているらしい。……霊術の練習とかだろうか? 先日の瑠璃さんの言葉でつい嫌な憶測をしてしまう。具体的にはどうなのか、あまり知りたくない。
「今日は遅いですねぇ」
 頬杖をつきながら呟くと、真澄さんも建物の方に目を遣った。
「そうですね」
 そろそろ十ノ刻に入ろうかという頃だ。十八時ぐらい、つまり午後六時。普段ならこの十ノ刻に至るまでのおよそ二時間に及ぶ訓練をするべく、九ノ刻(午後四時)になれば建物の外、鍛錬場にぞろぞろと守護軍の人達が出てくるはずなのに。余談だが守護軍の宿舎のごく近くには巨大な塔があり、一ノ刻から十ノ刻までは定時に鐘が鳴らされる。この場所に来てはじめてその音を聴いたので、私はそれまで〈御殿〉の人達が何を基準に時間を把握して動いているのか不思議だった。〈御殿〉には時間を知らせる係(というか、それが仕事)の人がいて、定時になって鐘が鳴ると主殿の回廊を駆け回り、住民たちに時間を知らせて回るのだ。そういう存在がいることはかなり前の時点で黒梅に教わって知っていたが、立ち入り禁止区域の中に定時を知らせる鐘があるとは思いも寄らなかった。自動ドアはあるのに、こういうところは原始的なんだよね。〈紅蓮〉ってやっぱり不思議な世界だ。
「今日は夕方の稽古はお休みなんでしょうか?」
「さあ、どうなのでしょう……」
 真澄さんは守護軍に入れなかった人なので、私と同様にその事情をよく知らないらしい。二人一緒に首を傾げた。
「最近瑠璃さんとお話できてないからなあ」
「私、見て参りましょうか?」
 真澄さんが唐突に、妙な提案をした。
「……え?」
 見てくるって何を、と私が疑問に思ったその時、真澄さんが立ち上がって東屋から出ると、縄の仕切りへと近付いた。見るって、え、待って待ってまさか。
 私は慌ててその後を追った。
「真澄さん待って! そんな、わざわざ罪を犯すほどのことでもないです、変なこと言ってすみませんでした!」
 走りにくい沓ながらなんとか全力を出し、彼の袖を掴んだ。危ない、私の下らない心配のために真澄さんに罪を犯させるところだった。
 真澄さんは私を見下ろすと、さらりと言う。
「露見しなければ問題はございません」
「ええっ! いやいやそんなことはない……」
 それって要は、「バレなきゃ何してもいいんだよひーひっひっひ」ってことでしょ。駄目だよ真澄さん、綺麗な顔して何て下劣なことを言うのだ!
「い、良いから、とりあえず戻りましょうっ」
 ぐいぐいっと袖を引っ張ると、真澄さんは何が問題なのかわからないといった様子で首を傾げた。いかん、その顔は解ってないな。私が教えて差し上げなければ。
「良いですか真澄さん、この縄にはれ……お姫様の特異な霊力が流れているんです。触れなくとも、近付いた時点でばれますから」
 これはそう、不本意だが〈恭爺〉さんに教わったことだ。もしかしたらこの距離でもすでに危ないかもしれない。ということで、私は未だに納得していない真澄さんをずるずると無理矢理引っ張って行った。火事場の馬鹿力とはこういう時のために存在するのだな。
 許可を頂いて以来、〈恭爺〉さんの元にはほぼ日参している。その際以前の二の舞にならないよう十分に距離をとって警戒しているのはここだけの話だ。少しでも近付いたらすぐに戸に手をかけられる位置にいる。出入り口付近の、冷たい床の上に。……お茶とお茶菓子は受け取るけれどね。
「危なかった……」
 東屋の手前までなんとか辿り着き、私は真澄さんの袖を離した。冷や汗を拭っていると、真澄さんが「光様は物知りですね」と笑った。何を呑気なことを言っているのだ……いやはや全く、この頃の彼は本当に春うららというか何というか、能天気で困る。前に述べた通り私が近くにいても自分の趣味や内職に走ったりするし……。そりゃ、がちがちに緊張されるよりはマシなのかもしれないけれど。
 不意に時の流れを感じて、私は一人遠い故郷を思った。〈恭爺〉さんから麗燈さんの「しばらく霊力の受け渡しはしない」という理不尽な言伝を聞かされてから一週間、そして〈紅蓮〉に来てから三週間余りが経過している。ここまで来ると焦りを通り越して、何が何でも麗燈さんの陰謀を探ってやると躍起になってしまう。当初は出来るだけ早く帰りたいと願っていたが、今は「無事に帰れたら何でもいいや」といった投げやりな心境だ。今向こうはどうなっているんだろう。ここに来る前は夏だった気がする。夏休みに、入ったのかな。私がいなくても勝手に時間は流れて行く。遠い。あの日の日常が遠い。私にとっての今の日常は、こうして真澄さんと庭園を散策したり、守護軍の稽古を見学したり、瑠璃さんに見つかって怒られたり、〈恭爺〉さんと話し合ったり、女官の皆と家事をしたりすることで。おかしいな。こんな非日常が日常に変貌する日が来るなんて、日本で暮らしていた時の私は夢にも思っていなかった。
「光様?」
 真澄さんに顔を覗き込まれる。
「何かお気に障ることでも……」
「とんでもない」
 私は真澄さんの口調を真似て言ってみた。「とんでもない」って、真澄さんは結構使う。真澄さんは自分の物真似をされたなんてことには気づかず、安心したように微笑んだ。
 もうそろそろ日も沈むことだし、今日は守護軍の夕方の稽古の見学、もとい瑠璃さん探しは諦めて帰ろうか、と真澄さんと話し合っていた時のことだった。
 守護軍の建物から人が出てきた。一人だけ。
「……瑠璃さん?」
 突進するような勢いで此方に向かって駆けてくるあの姿は他でもなく、彼だ。真澄さんも私の言葉に反応してそちらに目を向けた。
 でも、あれ。他に人は出てきていない。
 なんだか様子がおかしい。
「離れろ」
 瑠璃さんが私の首ぐらいの高さはあろうかという縄を軽く飛び越えて、こちら側――夕凪苑の敷地内に着地すると、素早くこちらに駆け寄ってきて低い声で命じた。
 訳が解らなかったが、ただならぬその雰囲気に私も真澄さんも顔色を変える。
「ここから離れろ。出来る限り遠くへ、早急に」
 瑠璃さんが私達の背中を押して歩かせながら言う。離れるって、主殿の自室へ向かえば良いのだろうか?
「そうだ。真澄、お前は光を送り届けたら怪我人の看病に当たれ」
「怪我人?」
 思わず瑠璃さんの顔を振り返ると、眉根を寄せている彼と一瞬だけ目が合った。大きな手にわしっと頭を掴まれ、無理矢理前を向かされてしまう。怪我人って、一体何が起こっているんだ。
「瑠璃さん」
「訓練用の〈魔羅〉が逃げ出したのだ、まだおそらく近くにいる」
「……えええっ!」
 訓練用ってなに、あの守護軍の建物で〈魔羅〉を飼ってるっていうのか!?
 私が信じられない思いで訊くと、瑠璃さんは肯定した。あの建物は魔牢(まろう)と言って、中には〈穢れ姫〉が直々に張った結界がある。そこに〈魔羅〉を閉じ込めているらしい。それもあまり強すぎる相手だと訓練にならないので、比較的無抵抗の〈魔羅〉のみを定期的に選んではその中に放り込むのだとか! 信じられない話だ。
「我らの霊術は実物を相手にしなければ発動できぬ」
「でもっ」
 なんだかそれって、その、甚振ってるみたいなんですけど。
 瑠璃さんが鼻で笑った。
「馬鹿なことを。天敵に情けをかけてどうする、油断をすればこちらが喰われるというのに」
 ――あ。
 随分、久しぶりに見る。瑠璃さんの嘲笑。ぞっと寒気が走るような、あの歪んだ笑顔だ。
 こんな時に気付いてしまった。天敵。そうじゃないか、瑠璃さんにとって〈魔羅〉はただの敵ではない、おそらくただ仕事だからという理由のみで斃すのではない――お養父さんの仇として。憎しみを込めて。
 憎悪だったんだ、瑠璃さんのこの表情の正体は。
 でも。
 でも、瑠璃さん、その顔だけは本当に怖い……。
「瑠璃、後ろ」
 それまで黙っていた真澄さんが急に口を開いた。後ろなんて、真澄さん本人は振り返ってもいないのに。
 瑠璃さんが私と真澄さんの背に手を置いたまま、言われた通り振り返る。私も気になって思わず振り返ると、黒い長衣を羽織った人物がこちらに走り寄ってきていた。明るい茶髪の、快濶そうな青年だ。
「にいさん、大変です!」
 その青年……いや少年だろうか? は大声でそう叫んだ。にいさん? とは一体誰のことなんだ。
「何があった」
 瑠璃さんが簡潔に答えた。にいさんって呼ばれてるのかこの人……。
「奴、主殿に逃げ込んだらしいです」
「なんだと」
「まだ大した被害は出ていないそうですが、副隊長が住民の方々に避難を呼び掛けているって」
 主殿……、ってえええ、じゃあ私達どこに逃げればいいの。私が余程不安げに見えたのか、真澄さんが励ますようにきゅっと手を握ってくれた。真澄さんは〈魔羅〉が怖くないのだろうか。守護軍から落とされた人間は、霊術の類が扱えないと聞く。つまり真澄さんも私と同じく〈魔羅〉に対抗するには霊符を使うしか道がないのだ。なのに。
「避難? どこへ行けと?」
「ええと……どこだったかなぁ……」
 茶髪の少年はちょっと抜けたところがあるのか、肝心な部分で言葉を詰まらせるとぽりぽり頭を掻き始めた。私の不安は益々募る。
「早く言え」
「ちょっと待って下さいよ」
 瑠璃さんが焦れたように少年の胸ぐらを掴んで揺すぶった。乱暴な。しかし、少年は少年であまり瑠璃さんを恐れていない様子だ。不思議な二人だな。
「あ! 思い出した。確か地下牢に避難しろって副隊長が」
 何だって、地下牢? 傍らで二人の会話を聞いていた私と真澄さんは思わず顔を見合わせた。
「お前……、記憶違いはないだろうな」
「えーと、多分」
 多分って。
 少年の曖昧な返答に瑠璃さんが舌打ちする。わあ、柄悪い。
「主殿に向かったのは間違いないのだな?」
「はい」
 瑠璃さんと一瞬だけ目が合ったけれど、彼の視線はすぐに真澄さんの方へと逸れた。
「話は通じたな」
「ええ」
「行き方はわかるか」
「問題ありません」
 私はちらっと真澄さんの横顔を見上げた。普通の〈薬師〉は地下牢の場所なんて知らないような気がするけれど……。
「光様、急ぎましょう」
「はい。……あの、瑠璃さんは」
 瑠璃さんはもうこちらを見なかった。その代わりにと言ってはなんだが、茶髪の少年が私をじっと見た。
「わああ、あの子! かわいい! にいさんの知り合いですよね、今度紹介して下さい!」
 かわいいって、あの子って、真澄さんのことではないよねいや何故そんな話になるんだ。
 瑠璃さんは少年の頭をげんこつで殴ると、建物……魔牢の方へと駆けて行った。主殿とどこかで繋がっているのかな。そうだ、主殿には強大な霊力を持った麗燈さんがいる。〈魔羅〉を閉じ込めた建物が貴族の方々の居住区域である主殿に近いなんて、一見危険なようだけれど、実は理にかなっているのかもしれない。
 少年は瑠璃さんに殴られた頭を押さえつつも、何度かちらちらとこちらを振り返りつつ彼の後を追って行った。その際幾度か手を振られたが、無視した。なんという能天気な少年なのだ、私と同い年ぐらいか? ……あれで守護軍、第一師団所属? 世の中わからない。
「光様」
「はい。走りましょうか」
 真澄さんに急かされ、私も行くべき場所へと向けて駆け出した。


 と、張り切って出発したはいいが、五分も経つか経たないかのうちに私の体力は限界に達した。
「光様、あまり無理をなさらず」
「…………」
 ぜえぜえと肩で息をする私に対し、真澄さんは息一つ乱れていない。さすが〈影〉所属。
 情けないがそれから先は真澄さんに負ぶってもらい、避難場所へと急いだ。
 ……誰かに負ぶってもらうのなんて、幼稚園以来な気がする。


 私を背負った状態であるにも拘らず、真澄さんはすいすいと地を滑るように進んで行った。速い、速い、速い。凄い。尊敬だ。因みにこういった場面においてありがちな「私、重くないですか?」という質問をぶつけてみたところ、「瑠璃二人でも大丈夫です」などというぶっ飛んだ答えが返ってきた。もう、凄いの一言に尽きる。真澄さん凄い。霊力が無くたってこれだけ身体能力が優れていれば充分戦力になると思うんだけれどな。因みに真澄さん持参の分厚い古書は、現在彼の懐の中に収納されている。多分紐か何かで身体に縛り付けてあるんじゃないかな。そのあまりの早業に私の目は追いつかず、どうやって仕舞ったのかはよくわからなかった。
 逃げ出した〈魔羅〉は主殿に潜んでいるとの情報を頼りに、真澄さんは出来るだけ主殿と距離を置きつつ庭園内部を駆けていた。これが昼間であれば散策中の貴人に出くわす機会もあるんだけれど、辺りが薄闇に包まれた今ではそんな事態にはなりようがなく。静かだ。ここは、静まり返っている。
「真澄さん」
 走っている人の背中にくっついているというのにあまり振動がなくて、私は普段通りに喋ることができた。真澄さん、もしかして何か特殊な走り方を体得しているのだろうか? 足音もあまり聴こえないし。
「地下牢、というのは?」
「〈御殿〉の地下牢には重罪人が収容されています」
 重罪人。それって窃盗とか器物破損とか詐欺なんていうレベルじゃなく、その、……殺人を犯した人とか、を指しているんだよね。
「中央の〈蓮花〉で罪を犯した者たちが大半ですが、僻地の律では裁けないような罪人もここへ移送されるのです。……そうだ、あの楼閣が見えますか?」
 真澄さんが一瞬顔を向けた方角(左に主殿、私たちから見ると右斜め前にあたる位置)には、天高く聳え立つ長細い建物があった。ここからは大分距離があるんじゃないだろうか。あの建物、背が高いから、初めてここを訪れた日にも視界には入っていた。どんな機関であるのかまでは知るよしもなかったけれど。
「罪人はあの楼閣で裁かれるのです。律院(りついん)といって、〈恭爺〉様や姫からは半ば独立して存在する特殊な機関です。裁きが開始するのが常に四ノ刻であることから、四ノ塔(しのとう)と呼ぶ者もいます」
 「死の塔」とかけてあるのだろうか。怖いな……。辺りが暗くなってきた所為もあって、月明かりで浮かび上がる細長い律院がやたらと不気味に映った。
 ……というかさ。
「私もいつか、あそこで裁かれるんでしょうか」
 ごく小さな声で真澄さんの項の辺りに零すと、返事はなかった。
「記憶が戻ったら」
「いいえ」
 今度は強い声が返ってきて驚く。真澄さんがどんな表情をしているのかが気になった。
「でも」
「いいえ。逃れる方法はございます」
「……そうなんですか?」
 実際には「設定」であって、私は〈恭爺〉さんに歯向かった一族の末裔などではなく、異世界から召還された異邦人だ。通常、誰かが謀反を起こした場合、その者が所属する一族の連帯責任となり実際には謀反に関わっていない者も例外なく裁かれると聞いている。この縛りがあるからこそ、謀反を企てる者は躊躇する。一族全員が一致団結して闘いに挑んだ例の方が圧倒的に少なく、一族の中でも特に考えなしの馬鹿が起こす身勝手な行動によって他の者が巻き添えを食らう、という場合が殆どだそうだ。私もそのタイプの一族に所属している、という設定である。
「籍を外せば良いのです」
「え?」
 それは、ええと。
「記憶が戻る前に婚姻を結び、どこか別の一族の一員となれば罪には問われません」
「はあ……」
 結婚か……、私一応十五歳なんだけど、〈紅蓮〉では関係ないからなぁ。信じられない話だが、私付きの女官である篠……桃色おかっぱ頭のあの子は、既に結婚相手が決まっていて、あと二年もすれば正式に婚姻を結ぶと聞いている。相手の男性の顔は知らないと言っていた。身分が高い人間は自分自身で結婚相手を決めることも多いらしいけれど、篠や浅葱、黒梅…………いや、黒梅はちょっと除外させてもらおう。篠や浅葱のように誰かに仕える身である者の婚姻は、殆どの場合早いうちに親が決めてしまうのが通例だそうだ。なんだかなぁ。私からすると顔も知らない相手と、なんて有り得ない話なんだけれど、篠本人は当然のこととして受け入れているので、とりあえず私は篠の旦那様になる人が良い人であることを祈るばかりだ。
 で、何の話だったっけ。そうだ、私が婚姻? それは……無いな。私は貴人でもなければ〈紅蓮〉の人間でもないわけだし。
 真澄さんの真剣な提案に何と言葉を返そうか迷っているうちに、目的地に到着したようだった。
 真澄さんに降ろしてもらった私は、一瞬その場でふらついた。真澄さんの方を見ると息一つ乱れていなくて、改めて尊敬する。筋力だけじゃなくて体力もあるんだ、凄いな。真澄さんの背中の硬さにかなりびびったことは内緒にしておこう。
 私が地面に足を付けてからふらついたのは、その地面に凹凸があったためだ。偶々私が足を下ろしたところだけがそうだったのではなくて、この辺り一帯はあまり整備されていないようだった。小石がたくさん転がっているのが見える。ふと空を見上げると、東から皓皓と輝く月が顔を出したところだった。――私は何故か月が出ていると、視力が良くなる……。
「ここって……」
 私は辺りを見回した。朧げながら見覚えのある光景が、向こうに。〈礼門〉。ここに辿り着くまではずっと左側に主殿が見えていたから、ぐるりと主殿に沿う形でここまで回って来たということだ。つまり、ここは主殿を挟んで凪苑の反対側にあたる場所。
「こんな所に地下牢が?」
 言いながら振り返って、はっとする。あれ、あそこに見えるのって魔牢じゃないか? 主殿の横、斜め後ろにあるあの建物が魔牢だったんだ。ここへ来た日に見かけている。……待てよこれって、遠回りさせられたんじゃ。朝凪苑を突っ切ればすぐに辿り着いたはずだよね? ……立ち入り禁止だから仕方ないのかな。でも納得できない。緊急事態なのに。
「光様、お足もとに気を付けて」
「はい」
 真澄さんに呼ばれて、私は呑気に辺りを見渡している場合ではなかったと思い出す。視界は悪くなかったけれど、見えていたってこける時はこけるものだ。たとえば歩き慣れていない河原の岩場なんかを進んでいる時には、はっきりと見えていたってよろけたりする。ということで、私は真澄さんが差し出してくれた手をありがたく掴んだ。
 それにしても「地下」牢ってことは地下にあるんだよね。建物らしきものは主殿と魔牢の他に見当たらないけれど、入り口はどこにあるのだろうか。
「こちらです」
「ん……?」
 真澄さんが指し示した場所には一本の巨木があった。その、裏に回ると。
「えええ……まさかここが入り口?」
 その巨木の太い幹には大きな洞があった。大人二人ぐらいなら並んで入れそうなくらいの。
 恐る恐る中を覗き込むと、梯子がかかっていて、下まで続いていた。底はそんなに深くないようだけれど……。
「私が先に降りますね」
「ええっ」
「貴方が万が一落ちた場合に受け止められるように、ですよ。ご不満ですか」
「いいえ……」
 それよりもさ。
 今更ながら私はあの茶髪の少年の言葉が疑わしく思えてきた。だって、避難を呼び掛けているはずなのに他に誰もいないし……、大体、逃げるにしても地下牢ってどうなんだ。入り口だってこの一つしか無いの? あ、いや。この一つさえ死守すれば良いってことで、安全……なのかな。
 戸惑いつつも、既に真澄さんが地下に降りた後だったので、私も慌ててついて行った。心配したように梯子の途中で落ちたりはしなかった。
 着地すると、いきなり目の前に石でできた頑丈そうな両開きの扉があった。真澄さんは迷うことなく扉を押して開けると、私を中に入れて、自分も中に入った。
「あ……」
 扉の向こうは普通の建物の廊下だった。石造りの。……いつか牢屋にぶち込まれた時のことを思い出してしまうな。
「あの、入り口はここしか無いんですか?」
 訊きながら振り返ると、真澄さんが何やらごそごそと作業をしていた。ちらっと横から覗き込むと、霊符……ええと、守護符? かな。それを扉に張り付けているところだった。
「もう一つ、主殿の地下に繋がっている出入り口がございます。おそらく他の貴族の方々はそちらから避難されたかと」
 なるほど。というか、主殿にも地下があったのか。
「急ぎましょう、光様。〈魔羅〉は夜の闇に溶けるそうですから」
 溶けるって表現はどうなんだ……とは思ったが、思い返してみると〈魔羅〉は黒くて半透明だった。確かに闇に紛れ込むのはお手の物だろう。
 真澄さんから離れないように廊下を進んだ。壁には灯りが点っていたので、ぼうっとした明るさがあった。
 角を一つ曲がったところで広い空間に出た。地下なんだけれど、門のような造りがあって、両脇には門番が立っている。服装は〈御殿〉に務める人達のそれと同様だった。門の奥には中央に走る通路を挟んでずらりと牢屋が並んでいる。鉄格子で囲まれたそれは、中が丸見えだった。罪人にはプライバシーの権利も何も無いんだって見せつけるみたいに。
 門番の人達が私達に気付いて同時に顔を向けてきた。私はつい真澄さんの背中に隠れたけれど、彼は私を置いてさっと門番の元へ駆けていってしまう。しばらく何か小声で話をしていた。
「光様」
 話はついたのだろうか? 私も門番さんの元へと移動した。
「やはり主殿に居た方々はもう片方の出入り口からこちらに避難しているそうです。私達もそこへ合流しましょう」
 ……貴族の人達の中に入るのはちょっと嫌だけど、〈魔羅〉に襲われるよりはましか。
 真澄さんに連れられて通路を進んで行く。門番の二人が真澄さんにやたらと頭を下げていたのが少し気がかりだった。余談だが、両脇の牢屋はどれも空っぽだ。ここは使われていないのかな。罪人が少ないのは良いことだよね、うん。
 両脇の牢屋が途切れたところで、少し開けた空間に出る。けれど貴人らしき姿は無く、左右と正面の通路の手前に看守っぽい人物が立っているだけだった。牢屋は幾つかの広間に分かれているらしい。罪状による区分だろうか?
「光様」
「はい」
「ご気分が優れなければすぐにおっしゃって下さい」
「……大丈夫ですよ」
 そうか。真澄さんが懸念するのもわかる。普通はこんな薄暗い地下牢なんかに罪人でもないのに入らなければならなくなったら、もっと不満を抱くものだろう。私は異様なほど落ち着いていたけれどさ。……まあ、二回目ですし。
 真澄さんは慣れた様子で正面の通路を選び、奥へと進んで行った。絶対一度や二度でなく入ったことがあると見える。
 次の広間に連なった牢屋には罪人が収容されていた。そのさらに奥の広間に結構広いスペースがあるみたいで、貴族の人達はそこに避難しているようだった。話声が聴こえてくる。
 先程と同じように通路を歩いた。今度は囚人さん(いや、さん付けするのもなんだな……)がいるので、なんとなく気まずい気持ちで進む。出来るだけ真澄さんの背中にくっついて、両脇を見ないようにして通り過ぎた。
 ――あれ?
 今。
 牢が途切れたところで、私は立ち止まって振り返った。
「光様? どうかなさいましたか」
 刹那、真澄さんの声は私の耳に届かなくなる。端から二番目の牢屋の中を凝視した。
 他の罪人も着用している赤茶けた色の貫頭衣を纏っている。別に何も、おかしなところはない――。
 でも、何かが引っかかった。
 牢屋には灯りが無いので、よく見えない。
 それでも、私はその人から目が離せなかった。



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