「ことづて?」 思わず訊き返しながら私の脳裏に真っ先に浮かんだ疑問は、〈恭爺〉さんとお姫様がどうやってコンタクトを取ったのか、ということだった。〈恭爺〉さんは順調に回復に向かっているとはいえ、まだ病人だ。でも身分としては当然お姫様の方が高いわけで、やっぱり〈恭爺〉さんが呼び出されて、彼の元に参上したのだろうか? 病人なのに、と思考が一瞬仄暗くなったところで、そういえば彼らには幾らでも部下がいるのだったと思い出す。忘れかけていたが、私のように直談判しに来る方がよほど異例なのだ。使いを遣ったんだろう、きっと。 彼らの遣り取りに関する推察はさておき。 言伝の内容は一体何だろう? 〈恭爺〉さんがこほんと一つ咳払いをする。 「『当分の間受け渡しはしないから、僕から呼び出しがかかるまでは気楽に待っていてね。あ、勝手に逢いに来てはいけないよ。まあ無理だろうけれど』……だそうです」 おお、さすが親戚とだけあって似てる。 ……じゃない、〈恭爺〉さんの声真似に感心している場合ではない。 「はい?」 それは一体どういう風の吹きまわし、いや、何か不都合があったのだろうか。それとも単純に忙しいのか? というか「当分」って大雑把過ぎないか、結局いつまでなんだ。……麗燈さんめ。 「えーと……受け渡しというのは、例の私の役目のことですよね」 思い切り顔を顰めたい衝動に耐えつつ、私は極めて穏やかに、かつ冷静を心がけながら〈恭爺〉さんに尋ねた。 「ええ、そうです」 「あの、理由は伺ってます?」 「いいえ」 「えええ! ……そんなに忙しいのかなぁ……」 私の独り言を耳ざとく聴き取ったらしき〈恭爺〉さんが、心なしか不安げな瞳を向けてきた。 「光さん」 「はい」 「私も気になってはいるのです。姫様は殆ど拒絶されるような形で、今言った以上の内容は話して下さいませんでした。こんなことは初めてです。確かに私は既に計画から外されていますが……」 あれ、そういえばそうじゃん。じゃあなんで〈恭爺〉さんに私への言伝なんて頼んで――。 ……ん? 「あのぅ……〈恭爺〉さん」 私は刹那、寒気を覚えて身震いした。 「一昨日私が〈恭爺〉さんと会ったこと、お姫様はご存じなんですか」 〈恭爺〉さんは不思議そうに首を傾げた。いいよこんな場面で可愛さ爆発させなくてえええ。 「それは、私からは何もお伝えしておりませんが……」 おりませんが、何なのだ。……というか、え? 伝えていない!? 「なななっどういうことですか、ちょっと私混乱して、はは吐き気がっ」 取り乱す私に反して、〈恭爺〉さんは単純に不思議そうな顔で顎に手を遣っている。なに、なに、だからどういうことなのっ? 「現〈穢れ姫〉様は特別な方であると、前にお話ししましたね」 「それが?」 「それが関係しているのか、かつてのいかなる〈穢れ姫〉様も持ち得なかった特殊な力をお持ちなようでして」 特殊な力? ……霊力を受け渡すこと、以外での? 〈恭爺〉さんが身じろぎして、座り直す。それに釣られて私は若干前のめりな姿勢になった。 「光さんは霊符というものをご存知ですか」 「あ、はい。ここへ来る時に一度触れる機会がありました」 「そうですか。霊符にはごく微量の霊力が込められているのですが、実は世に出回っているそれには全て姫様の霊力が込められているのです」 「はあ……」 返事が微妙になってしまったのは、既に真澄さんから伺ったことのある話だったためだ。しかしそれにしても、霊符が今の話とどうリンクするのだろうか。 「ここだけの話ですが」 「え」 〈恭爺〉さんが声を潜めた。い、良いのかなそんな、〈恭爺〉さんが「ここだけの話」だなんて言うんだから相当だよね、聞いた代償に後で何か求められたらどうしようか。なんて頭の片隅で不安になりつつも、目の前で耳より情報をチラつかされて聞かないわけにはいかなかった。 「先代の御世まで、霊符に霊力を注ぎ込むのは霊具師の仕事と相場が決まっていました」 あれ? でも、霊力ってそう簡単には受け渡しというか、どこかに移し替えたり出来ないんじゃなかったっけ。私だって他の人にはそれが出来ないから、霊力を受け取れる稀有な存在としてここに召還されてしまったわけだし。 「えーと……、霊力って、物に移せるんですか?」 ちょっと混乱だ。真澄さんの話では、お姫様の特殊な霊力には他の者の霊力を引き寄せる力があるから、霊符にどうしても必要なものだって。それで、お姫様の霊力を霊符の元に二十四時間いつでもどこでも一定量だけ召還し得るのが、〈呪言〉という特殊な言葉で書かれた文字だって。なにか私のこの解釈が間違っている? 〈恭爺〉さんが首を横に振った。 「いいえ、移せませんよ。勿論人にも。貴方はよっぽど特殊なんです」 そんな、人を変人か何かのように言わないで欲しい。私だって好きでこんな奇怪な体質に生まれたんじゃないぞ。少し前まで自覚無かったし。 「じゃあどーいうことですか。意味不明なんですけど」 痺れを切らしてやや乱れた口調で言うと、何故か〈恭爺〉さんが立ち上がった。……ところで、どこまでが「ここだけの話」なのか。 〈恭爺〉さんはすたすたと壁際まで歩いて行き、一つの箪笥の前で立ち止まると、その場にしゃがみ込んだ。一番下の抽斗を完全に床の上に引っ張り出して、手を突っ込んでしばらくがさごそと漁った後、「あった」と小さく呟いて黒塗りの箱を取り出した。大きさはそう……重箱の一段分ぐらいだろうか。それを抱えて、首を傾げている私の元へと戻って来た。 〈恭爺〉さんは無言のまま、小卓の上に箱を置いて蓋を開ける。中には見慣れないものが入っていた。 「……なんですか、これ?」 〈恭爺〉さんが一番上のひとつを掴み、私に手渡してきた。やや重量のあるそれは、丁度霊符大にカットされた薄っぺらい石、のような不思議な物体だった。色は雪のように白く、表面はざらっとしている。ひんやりと冷たい。やっぱり石かな? 「それは霊符です」 驚いて手元の石っぽい物体から顔を上げる。 「かつての。以前は霊符と言ったらそれを指しました。〈白妙銀嶺〉でのみ採取できる特殊な石を加工したもので、今の紙で出来たものとは違って使い捨てではなく、数回使用することが可能です」 「……なんで使わなくなっちゃったんですか」 「数が間に合わなくなったためです。まず採取できる場所が限られている上、加工の手間もかかります」 「ああ……」 「それに重いでしょう?」 「確かに……、でも」 でも、この石、何も書かれていない。まっさらなままだ。それともこれは未加工品なのだろうか。 「その石、霊力を吸うんですよ」 〈恭爺〉さんがさらりととんでもないことを言った。 「ええっ! それ先に言って下さい!」 慌てて石を元の箱に納める。せっかく二度に渡って麗燈さんから受け取った霊力が吸い取られては困る! と、何故か〈恭爺〉さんが呆れ顔で私を見た。 「今の説明で解りませんか?」 え、すみませんわかりません。という内心の声が顔に出ていたのか、〈恭爺〉さんが小さく溜め息をついた。そんな、私は人に溜め息を吐かれるほど理解力に乏しい人間ではないぞ! ……多分。 「貴方はその石と同じなんです」 「えー……」 私=石? えー。 「違います。他人の霊力を吸収するという共通点がある、と言っているんです」 「ああ、なるほど……」 「だから貴方がそれに触れたって何ともなりませんよ」 ふーん、そっか。 ……で、何の話だったっけ。 「〈魔羅〉は日々その勢力を増しています。それは事実です。霊符の数が多ければ多いほど良いというのも、また道理」 〈恭爺〉さんが手際よく箱を片付けながらつらつらと語る。元通り箪笥の一番下の抽斗の奥へと仕舞い込んでしまった。……もしかして今の石の霊符って、人に見せちゃ不味いものだった? 「実際、紙の霊符が普及するようになって、かつて霊符の入手が困難だった者の元にも行き届くようになり、感謝の声は絶えません。当代の姫君は素晴らしいと。私も、当初はこの改革に全面的に賛成していました」 当初、は? それにしても今日は〈恭爺〉さんがよく喋る。……じゃない、そうじゃない。重要なのはその内容だ。 「霊符に霊力を注ぐという役目を失った霊具師たちは、どうなりますか」 「……」 失業。 なんてはっきりとは言えず、私は黙って〈恭爺〉さんのワインレッドの瞳を見返した。 「元通り霊具師を務めている者も中にはいます。ただ、霊具師とは名ばかりでその実はただひたすらに指定された〈呪言〉を紙の札に記すというもの。つまり、この改革によって霊符は誰にでも作成が可能となり、霊具師は何らの技能も必要ない言うなれば低い格付けの職となってしまったわけです」 うーん、それって現代日本で例えると、大量生産出来る機械の登場によって一つ一つ手作業で営んできた職人さん達が人件費削減のために失業に追い遣られる、みたいな感じだろうか。……いやちょっと違うかな。 でも。 「霊符がたくさんあるのは、良いことですよね?」 〈恭爺〉さんは喉の奥で唸った。 「確かにそうです。ですが、姫様がこの改革に伴って進めていたもう一つの事業について、私はずっと疑問を抱いていまして」 「なんですか?」 「その職を失った霊具師たちを、しきりと守護軍へ移籍させていらしたんです」 「はあ……、そんなに〈魔羅〉が増えてるんですかね」 思慮の浅い私の発言に、〈恭爺〉さんが少しだけむっとする。もう、ほんと怒りっぽいな。 「よく考えてごらんなさい。どちらが主なのか、気にはなりませんか」 「……んん?」 主? 「霊符の作成方式を変更することによってその絶対量を増やし隅々まで行き届かせようとしたのか、あるいは守護軍を増員するために霊具師の数を減らそうとしたのか」 〈恭爺〉さん、そんなこと異邦人の私に言ったって仕方ないんじゃ。……いや、最初から考えることを放棄するのは良くないな。 ええと、どういうことだろう。……。 というかさ。 しつこいようだけれど、何の話だったっけ? 麗燈さんからの言伝を聞かされて、その後……、 「光さん」 そうだ。一昨日私が〈恭爺〉さんと会ったって事実を、何故麗燈さんが知っているのかが問題で。で、なんで霊符の話になったんだっけ。 「光さん?」 「……え、はい」 考え事をしていたら、返事が遅れた。というか、その前にも一度〈恭爺〉さんの呼びかけを無視してしまったような気がしなくもない。 「何も霊符に関してだけではありません。現〈穢れ姫〉様は今までに様々な抜本的改革を成し遂げてこられました。……例の計画もその一つです」 はっとして目を見開く。何か〈恭爺〉さんが大切な情報を与えてくれようとしているのが、語尾の押さえられたトーンから伝わってきた。 「その改革の全てに姫様の特異な霊力が関係している、というのがどうも、私には気がかりで」 「…………」 〈恭爺〉さんが小さく息を吐いた。私は膝の上でぎゅうっと手を握り込む。知らず、手のひらに冷や汗をかいていた。 「私にもよく、わからないのです。確かに姫様は幼き時分より卓越した霊力をお持ちでしたが、いつからでしょうか……、あのように特異な力を持つようになったのは。呪術などという、訳のわからない技をお使いになるようになったのは」 「訳のわからない」……それが人々に畏れられる所以だろうかと頭の片隅で思った。 〈恭爺〉さんがまた、息をつく。今度は深く、片手で胸を押さえながら。……心なしか顔色が悪い。私は急に不安になった。 「一昨日の、光さんとの面会について。私はあの方には何もお伝えしていないと言いましたね。ここまで言えばもう、わかるでしょう?」 わかりたくないが、さすがにわかってしまった。 「お姫様には千里眼があるんですか」 「いいえ。特異な霊力による御技の一つです」 「そんな……、」 私は大きく息を吸い込む。 「――そんなのプライバシーの侵害です!」 突然叫んだ私が余程奇異に映ったのか、〈恭爺〉さんがぽかんと口を開けて私を見る。 「ゆ、許せない……、いくら国の最高権力者だからってやって良いことと悪いことがある。何が『あ、勝手に逢いに来てはいけないよ。まあ無理だろうけれど』だ! 絶対直談判しに行ってやる、槍の雨が降ろうが黒装束集団に邪魔されようが絶対に、這ってでも辿り着いてやる!」 私が怒りにわなわなと震えながらそこまで言い募った時、〈恭爺〉さんがようやく我に返ったように口を開いた。 「……光さん、それはおやめなさい」 「なんでですか!」 怒りが収まらずに声を荒げる私の頭に、〈恭爺〉さんが手を伸ばした。反射的に避けると、なんだか悲しげな目で見られてしまった。 「歯向かうな、と言っているんです」 「はむかう?」 耳慣れない言葉に怒りが遠のいて、それとは別の感情が生まれる。不安。 「あの方にしか、貴方を元いた世界に返すことはできないのだから」 「…………」 それはとても残酷な事実で、時折忘れてしまいそうになるけれど、忘れてはならないと私が今まで幾度も自戒してきたことだった。 でも、〈恭爺〉さんの声がなんだか少し震えているような気がしたから、私は傷つかずに済んだ。ただ現実を思い出して、先程の怒りなんてあっという間に冷めてしまって。力んでいた肩の力が抜けると同時に、心も凋んでしまった。何だろう。悲しいのかな、わからない。 「〈恭爺〉さんは」 私は俯いたまま、口を開いた。 「どうして麗燈さんに仕えているんですか」 馬鹿な質問だと思った、話題転換にしては幼稚過ぎる手法だと思った。 「さて。――気付くとお傍におりましたから」 眉根を寄せる。何故その答えに不意に泣きたくなったのか。ああこの二人の絆を前にしては新参者の私など到底敵わない、そんな諦め故にではない。麗燈さんとそれだけ長い付き合いと、血の繋がりとがありながら、〈恭爺〉さんが私の助けになってくれたことがなんだか申し訳なくて、嬉しくて、訳がわからなくなって泣きそうになったのだ。 「〈恭爺〉さんは、監視されてるんですか。お姫様に」 「さあ、どうなのでしょう。よくわかりませんね」 「……。〈恭爺〉さん……、」 「少なくとも貴方はされていないはずです」 「……え?」 私が一番監視されていそうなものなのに、どうして。 「貴方の部屋の戸は手動になっているでしょう? 主殿の中でも位が高い者の部屋の戸には姫様の霊力が流れているんです。特定の者のみを通すというあの面妖な仕組みも、おそらくは姫様の呪術によるもの。戸に霊力が流れている部屋に住まう者に関しては、そうだと言えるでしょう」 〈御殿〉の自動ドアの仕組みがこんなところで明らかになってしまった。正体がわかったところで全然すっきりしない、どころか胸糞が悪い。 ……ていうか。 「この部屋は?」 そうじゃん、〈恭爺〉さんのこの部屋の戸にも確か紋様円があったはずだ。今までの会話全部、麗燈さんにだだ漏れだったってこと? それって、それって……。 動悸がする胸を押さえてぜーはーぜーはーと呼吸困難になりかけていると、〈恭爺〉さんがふふっと笑った。おかしそうに。 「一昨日の貴方との喧嘩の最中に破壊してしまいました」 ……何っ? あれ、あれ、そういえば今日は普通に戸を引いてお邪魔したような覚えがある。言われてみれば。 「しばらくは復旧しないでしょう。これは姫様が直接手で触れなければ発動しない術ですからね。これからも密会の場として利用して下さって構いませんよ」 〈恭爺〉さんが笑いながらとんでもないことを言う。……というか密会って、誤解を招くような表現を使うのはやめてほしい。 「明日も来ますか?」 「え、えーと……一昨日はもう顔も見たくないみたいなことをおっしゃっていた気がするのですが、私の思い違いでしょうか」 「何の話です?」 「えええええなっなっ何、なんです、何故に近付いて来るんですか!」 〈恭爺〉さんが変だ。そうかまだ治りかけであって完治したわけではないからどこか頭のねじがぶっ飛んでいるのだろうそうに違いない近い近い近い! 綺麗な笑顔がまた恐怖をそそる。私は混迷した。混迷した挙句、目の前にあった小卓でどこぞの頑固親父よろしく卓袱台返しをしてしまった。バイオレンスはいけないと常々、というか先日の〈恭爺〉さんとの命を賭した喧嘩以降そう強く思っていたはずなのに、なのに! 人間いざとなると何をしだすかいやはや全くもってわからないものだ、自分でも吃驚した。 ただし、私の咄嗟の攻撃はひょいと軽く避けられてしまった。何故だ、デスクワークばかりで運動不足なはずなのにいやそういえばこの人は怪力だった、というか避けるのと同時に距離を詰められてしまったのだがどうしよう。 「ひ」 片方の手を素早く床に縫い止められる。えええ、なに、この人何がしたいの!? やっぱりまだどっか壊れてるよね、むしろ全壊してるよね!? 「ね」 「はい!?」 「お茶とお菓子を用意してお待ちしていますから」 「わかりましたから離して、ていうか顔が近いっ!」 おかしいな。一昨日はこの距離でも平気だったのに、乱れた髪を直し合ったぐらいなのに、なんで今は逃げようとしているんだろう、なんて冷静に考えている場合ではないくらいに焦る、この状況。やばい、なんだかよく解らないけれど非常にやばくて不味い。片手で押さえつけられているだけの手はひっこ抜こうともがいてもびくともしなくて、彼と目を合わせずにできるだけ体を仰け反らせるぐらいしか回避の方法が見つからなかった。……いや、回避って何を? 「光さん」 「まっ、真澄さん、助けて!」 「……面会中は決して入るなと言いつけてありますが」 「なんで、私今ちょうピンチなのに! しぬ! ころされる!」 自分でもよくここまで取り乱せたものだと思う。こういうのは駄目なんだ本当に、慣れていないとかいう問題以前に嫌なんだ嫌いなんだ、出来れば避けて通りたい道でとにかくいやだいやだいやだ。 「〈恭爺〉さん、やめてください」 うわなんか涙まで滲んできた。情けなさ過ぎる。 やめてください、って言ったのに。 視界が陰る。 なんでなんでなんでって心の中で何度も痛切に繰り返しながらぎゅっと目を瞑った。 そうしたら。 ふうっとおでこに息が吹きかかって、前髪が乱れた。 ……だけだった。 目を開けると、押さえつけられていた片手が解放されるとともに〈恭爺〉さんも離れていった。 次の瞬間〈恭爺〉さんが意地悪く笑いながら意味不明なことを言い出す。 「仕返しです」 え、何の? と真面目に考えた。私は一体〈恭爺〉さんにどんな酷い仕打ちをしたというのだろう。そしてそれは一体どのタイミングで。 額を手のひらで押さえたまま半ば放心状態でいると、〈恭爺〉さんが勝ち誇ったように鼻で笑って付け加える。 「貴方のような小娘にああも貶されて私の矜持は深く傷つきました。当然の報いです」 貶されて? 「……な……、」 まさか。 「〈恭爺〉さん、まだ一昨日のこと根に持っていたんですか!? なんて人ですかあなたはっ、大人げない!」 信じられない、一昨日のことはもう忘れろとか言って油断させておいて、あれは全て私を陥れるための罠だったのか。 「しかも何ですか小娘って!」 「小娘でしょう。これしきのことで赤くなって」 「これしきぃ!?」 酷い、仕返しにしたってこれは酷過ぎる! 〈恭爺〉さんがくすくすと楽しげに笑っている。駄目だむかつく、殺意しか湧かない。悪戯するだけの元気が戻って良かったワ、なんて捉え方ができるだけの寛大な精神は今の私に残ってはいなかった。大体、理性の糸も当の昔に分断しているし。 「信っじられない、〈恭爺〉さん最低!」 泣いているのかキレているのか自分でもよくわからなくなってきたが、とりあえず今この部屋に留まっている意味は完全に消え失せた。寧ろ早急に出て行かなければならないだろう、全力疾走で。 「おや、もう行ってしまわれるのですか?」 ええい白々しいっ。 「お邪魔しました!」 自分で戸を引き、回廊に出たあと思いっ切り閉めた。が、想像ほど大きな音が鳴らなかった。それがまた不満である! 正直なところ去り際に何か投げつけて行きたいぐらいの気持ちではあったが、それではまた仕返しをされるかもしれないので我慢した。 あああ、むかつく! あんの中年め!(年齢知らないけど) などなど内心好き勝手に罵りながら歩いていると、足音が普段より大きかったのか、回廊の途中で待機していた真澄さんが以前より早く気付き、こちらに駆け寄ってきた。私の顔を見るなり、目を見開く。 「光様、おかえりなさいませ。いかがなさいましたか?」 「…………」 駄目だ、今口を開いたら汚い言葉しか出てこない気がする。私は真澄さんの言葉に勢いよく首を横に振り、ずかずかと歩き出した。 「光様、お顔が赤いようですが、熱でも?」 ううううう、と憤怒の残滓に耐えて喉の奥で唸る私はまるで獣のようである。 「……、怒ってるだけです」 「怒る……?」 つい、無意識にぎりぎりと歯ぎしりしてしまった。 「光様――、」 真澄さんまで何故私の顔を見て笑うのだ! 「気晴らしに散策に出ませんか?」 ……えっ? 思わず立ち止まって真澄さんを振り返る。私の目には彼の背から白い翼が生えて見えた。 「行く」 私が珍しく敬語でなかったのが面白かったのか、くすりと笑う。 「では、すぐに用意して参ります」 その日の私は、〈御殿〉の庭園を歩き回りながら「〈恭爺〉さんめ〈恭爺〉さんめ〈恭爺〉さんめ」と何度呪うように繰り返したか知れない。心の中で叫ぶだけでは鬱憤を晴らすことができないと気づき、途中からは口に出してぶつぶつと罵っていたのだけれど、私のペースに合わせて隣を歩く真澄さんは時々ふっと笑うだけで何も咎めなかった。自分の上司を貶されて嫌じゃないのかな? 「いえ、中々面白いですよ」 味方になってもらえた気がして感動を覚えた私は、途端に機嫌を直したのだった。 単純だなあって、自分でもつくづくそう思う。 |