第二幕:14



 御殿に務めている人の中で私のことを「光さん」なんてカジュアルな呼び方をしてくれるのは〈恭爺〉さんぐらいな気がする。自室に到着して一息ついたとき、ふとそう思った。麗燈さんはずば抜けて身分が高いから問題外として、その他の人だってそれなりの地位にいるだろうに、私を様付けで呼んだりする。お頭とか真澄さんとかは完全に実力でのし上がってきた人たちだから、様付けをされるとなんだか申し訳ないような、罪悪感にも似た気持ちが湧く。平民、どころかこの世界の住民ではないのに。私は異質な存在。こうして改めて考えてみると、優遇され過ぎなくらいに優遇されているんだって自覚が芽生える。それもこれも〈紅蓮〉の最高権力者である人物が私の力を……、いや、私自身に何らかの特別な力があるわけではない。ただ受け皿としての利用価値がある、それだけの話だ。そうだ、私は利用されている。「器」って、本来は「物」だよね。生命じゃない。人間の都合で作られた都合のいい道具だ。私はもしかしたら麗燈さんに同じ人間として見てもらえてはいないのかもしれない。……さっきの、〈恭爺〉さんとの会話の中で発覚した麗燈さんの嘘。それに気付いてしまった所為なのかな。少し、心が揺れて。不安とは少し違うけれど、なんだか落ち着かなくて。暴れた所為でまだ気が昂ぶっているのかな。〈恭爺〉さんと喧嘩して仲直り出来たことは嬉しいんだけれど、新たに心配事ができてしまった。……まあ、異世界に来ておいて何の不安もなく悠々と暮らせるほど私は肝が据わってないし、神経が図太くもなければ大人でもない。最初からわかっていたことだ。きっとこれから先もずっと、不安が尽きることはない。
 首を振って、ネガティブな思考を頭から振り払おうと試みた。結果は、まあ、上手くいったかな。そんな私の不審な行動に首を傾げる真澄さんを見ていたら、なんだか大丈夫な気がしてきた。そうだ、これだけは確か。私は一人じゃない。一人で抱え込まなくてもいいんだ。きっと私の周囲の人たちは、いざとなったら助けてくれる……はず。
 そんなことより、今日一つ決めたことがあるじゃないか。麗燈さんより〈恭爺〉さんを信じるということ。それに伴い目標もできた。まあ喧嘩するほど仲がいいって言葉はあるけれど今日のような事態はご免被るとして……、〈恭爺〉さんと、できるだけ仲良くなる。というと誤解を招くかもしれないが、要は私が信じている分だけ、彼にも信じてもらえるようにするってことだ。何事も信頼って大事だよね。信じてもらうにはまずは自分が態度を改めなければ。
 等々、考えを整理……できているのか否かは置いといて……している間、私は視線を壁伝いに移動させていた。自室の寝台の縁に腰掛けている私は今、真澄さんの治療を受けている最中だったりする。逃げ回っているときは無我夢中で気にもしていなかったんだけれど、どうやら足に小さい疵がたくさんあるらしい。割れた湯呑みやら粉砕した木製の家具の破片やらが散乱した床の上をほぼ裸足で駆けずり回っていたのだから当然といえば当然なんだけれど、避けるのに必死で痛みなんてどこかに吹っ飛んでいたんだよね。で、今になってそれが思い出したように疼き出したんだけれど、顔に出してはご心配をおかけすることになるので、私はじっと考え事に集中して痛みに耐えていたという次第である。ううむ、やはり〈紅蓮〉の医療技術がどの程度進んでいるのかはよくわからない。今私が受けている治療の方法は至って簡単、〈薬師〉(この場合は真澄さん)が負傷者の疵の具合に合わせて調合した薬を混ぜたぬるま湯、つまり薬湯を桶に張り、傷口をよーく洗い、清潔な布で水気を取る。おしまい。後は疵の程度によっておのおの異なった治療を施す、と。私の場合は本当に小さな浅い傷がただたくさんあるだけ……なんだけれど細かい木片が突き刺さっているらしくそれを除去する作業で中々手間取っているご様子だった。因みに、一応私もお年頃だし、異性、しかも結構年齢が近かったりする真澄さんに足を触られることに抵抗がないわけではない。けど、彼はいわゆるお医者さんだ。そう思い込むことにした。
 質素な部屋の中をゆっくり、ぐるりと一巡したあと、私の視線は真澄さんの頭頂部へと移った。じいぃぃっと疑うような目つきで旋毛の辺りを凝視してみたけれど、根元からしっかりと金色で、決して染めているわけではないようだった。黒梅は真っ白だし、篠はピンクだし、〈恭爺〉さんはなんだか物凄い色をしているし……〈紅蓮〉の人達ってなんていうか、鮮やか? だなぁ。今まで見かけた中では、茶色の髪の人が一番多いような気がする。色の濃さは違うけど、近いところでは瑠璃さんと浅葱がそうだ。それに対し私のような黒髪って見かけない。やっぱり私だけが異様、なんだよなあ。日本では物凄く平凡なのに……そうだ、無彩色。思い出した、中学の美術で習ったあれだ。ここには無彩色の髪の人がいない。
 …………あれ、そうだっけ。
「真澄さん」
「はい」
 呼びかけると、真澄さんが手を止めて顔を上げた。あ、そのまま聞いて下さい、と付け加えると、はあ、と不思議そうにしながらも作業を再開する。い、いたい。今結構大きいトゲが肌から抜き取られた感触があったぞ。生々しい感触がオソロシイ、自分の怪我なのにあまり見たくない感じ。うう、でも我慢だ。真澄さんの方がきっと嫌な思いしてる。他人の足なんてあまり触りたいものではないだろう。
「ええと……、下らない雑談なので、気軽に聞いて下さると嬉しいんですけど」
 真澄さんがちょっと笑った。
「そう前置きをされると、深読みしてしまいますよ」
「あ、違いますよ。ほんとにただの思いつきで話すだけですから。……ええと、なんだったかな……」
 私が本気でボケると、真澄さんが益々笑った。肩を揺らして。その所為で傷口に振動が伝わって痛かったが、やってもらっておいて文句を言うのは傲慢な気がしたので、黙っておいた。
「どうしよう、忘れちゃった……ね、よほどどうでもいい内容だってわかったでしょう?」
「光様、それは、わざとですか?」
「え……すみません、本気です」
 引き攣って答える。真澄さんは吹き出すように笑った後、私の機嫌を損ねるかもしれないと危惧したのか、必死で笑いに堪えるような顔をした。……肩が震えてますよ。
「あ、思い出した。真澄さんって、綺麗な髪をしてますよね」
 真澄さんは笑いを堪えるので精一杯なのか、こくこくと頷くだけで言葉は発しなかった。というか、発せなかったんだろうけれど。私のアホな様子がそんなに面白いのか? それとも馬鹿にされているのだろうか。……まあどっちでもいいや。
「この色って、誰に似たんですか? やっぱりお母さん?」
「いえ、私は……」
 まだ笑いの波がおさまらないのか、真澄さんは中途半端なところで言葉を切った。最初はちょっとむかついたけど、他人がこんなふうに自分の前で屈託なく笑っているところを見られるのって有り難いことなのかもしれない。ということで、私は彼が私のアホな様子を見たためにしつこく笑っているのだとしても気分を害したりはしなかった。もう勝手にするがいいさ。いや、良い意味で。
 お母さんじゃないってことは、お父さん譲りってことだよね。男の人は母親に似ているのが定石だと勝手に思っていたから、ちょっと意外だった。上に兄弟がいるって可能性もあるし、なにもおかしなことではないか。妹がいたって話は聞いているけれど……、ああ、彼に家族の話をするのは不謹慎だっただろうか。妹さんが亡くなったのはいつのことなんだろう。この話は鬼門だったかな。雑談だなんて簡単に済ませて良いものではなかったかもしれない。段々と不安になってきた。
 ようやく笑いの波から抜け出したらしい真澄さんが、笑いの余韻を目元に残したまま顔を上げて、膝立ちのまま私と視線を合わせた。作業は済んだのだろうか。足の裏がヒリヒリと痛む。
「私は父によく似ているそうです」
「へえ……。お父さんも金髪なんですか?」
「いいえ? この色は、父親と母親の色を混ぜ合わせてできたものです」
「混ぜ合わせる? すみません、私は両親の顔を知らないので何がなんだかさっぱり」
「そうでしょうね。光様はご存じなくとも無理はございません。普通、子は、女親と男親の色を足すか、もしくはそれを薄めた色を持って生まれてくるものなのですよ」
「色、というのは具体的には?」
「髪の色と、瞳の色を指しますね、普通。肌の色は出身地によって差異が見られますので、血は関係ないと言われています」
「出身地?」
「〈四郷〉 のことです」
「あ、なるほど。常夏の〈碧緑青葉ノ郷〉に住んでいる人は肌が浅黒いとか、そういう?」
「ご察しがよろしいですね」
「これくらい誰でも気付くような……」
「何か?」
「いえ。……あ、終わりました?」
 その時、真澄さんが水気を取るのに使った布を桶の縁に引っ掛けて、桶を手元に引き寄せたので、そう声をかけた。
「はい。すぐに片して参りますので、しばしお待ちください」
「あの、大した話じゃないので今聞いて欲しいんですけど……」
 立ち上がりかけていた真澄さんがきょとんとして瞬く。それから、抱えていた桶をそっと脇に置いた。再びもとの私の足元に屈んだ態勢に戻る。ええい、今更躊躇うな。この際訊いておけ。
「ここに来る時、ある人に言われました。黒い髪に黒い瞳は珍しいって。そうなんですか?」
 真澄さんは目を細めて、思案顔になる。あれ、私、難しいこと訊いてる?
「……そうですね、とても、珍しいのではないでしょうか。けれど奇異だとかそのような意味合いはなく、ただ貴重であると、そういった意味で『珍しい』のです。貴方はやはり、由緒正しき家柄のお人なのでしょう」
 真澄さんは慎重に言葉を選びながらそう言ったようだった。私、今。今、なにかの核心に、触れかかっている……?
「それは黒い髪だから? それとも髪と瞳の両方が黒いから? 同じ色だから?」
「髪と瞳が同色なのは、高い位にいる貴人の証です。ただ、〈御殿〉から遠く離れた僻地にも二色(にしき)の者が住んでいる例もあります。そのような者は大抵、止むを得ない事情から〈御殿〉を逃れて行った者ですが……」
「では、黒い色自体は珍しくないと?」
「いいえ」
「いいえ? ……どういうことですか。珍しいんですよね? 黒」
「ええ……、まあ……」
 なんだか真澄さんの様子が変だ。
「ええと、私の容姿、かなり変に見えるんですか?」
 つんつんと自らの髪を一房抓みつつ尋ねると、真澄さんがぎょっと目を剥いた。
「とんでもない!」
「じゃあなんで言葉を濁すんですか。黒って何か特別な意味があるんですか? 私、今まで誰にもそんなこと言われませんでしたけど」
「黒、と言いますか、白と灰と黒の三色は……」
「三色は?」
「〈無色〉(いろなし)と、呼ばれています」
「はあ。それで?」
「光様……、私は一つ大切なことをお話していませんでした」
「何ですか?」
「先程から色、色と申していますが、この色にはもっと明確な意味があるのです。血の濃さにも深く関わっています」
「と言うと……?」
「身に宿す霊力が甚大な者ほど、濃く鮮やかな色を持つ、ということです」
「……、」
 濃い色って、つまり言い換えると、彩度が高い色ってこと? より鮮やかな色。真澄さんは、とても綺麗な髪の色をしている。でも、黄色だ。薄い黄色。どちらかと言えば白に近い、原色のイエローではなく、淡黄色というに相応しいごくごく淡い黄色。光が当たる角度によってきらきらして見えるから、鮮やかって印象があったけれど。真澄さんは身に宿す霊力の絶対量が足りないために守護軍には入れなかった。だから、〈影〉になった……。
 真澄さんの話にはまだ続きがあった。
「この国で最も由緒正しき血を継ぎ、最も強大な霊力を身に宿す一族が、姫――〈穢れ姫〉様の一族です。高貴なる赤。血の繋がり云々はよくわかりませんが、身に宿す霊力が多い者ほど赤に近い色を持つようです。そして、平均は茶色。その髪の色を持つ者が最も多いでしょう、恐らく。瑠璃の髪も茶色ですね。私はこの髪のために平均に達していないと判断されたのです。霊力の含有量を二色で判断するという話は、ここへ来てから知りました」
 まだだ。まだ、先程一瞬垣間見えた、私が一番聞きたかった話をしていない。なんだっけ、イロナシ?
「光様の色ですが……」
 案の定真澄さんは困ったように目を伏せて、口籠ってしまった。……だって、おかしいよね。わざわざ白と灰と黒の色を持つ人間のことだけ〈無色〉って呼ぶの。そういうのってすごく……、そう、差別の匂いがする。
 真澄さんが言いにくそうにしているので、私は自ら口を開いた。
「〈無色〉、って、本来の意味の無色(むしょく)とは違いますよね。だって、黒は黒色だし、白は白色だし。ねえ、私の勘なんですけど――」
 私は、今はここに居ない人のことを想った。黒梅。……と、もう一人。
「〈無色〉の『無』は、無能の無?」
 真澄さんが悲しげに瞬いた。すっかり俯いてしまっている。そんなふうに気遣わなくても私は大丈夫なのに……、それに、私が今想いを馳せているのは自分自身のことではなくて、別の人物たちのことだ。黒梅。黒梅だけじゃない。
 私の憶測は多分、間違っていないんだろう。真澄さんが否定しないところを見る限り。
「そっか。そうなんだ……」
 だから私はあんなに可哀想って連呼されたのかな。でも、彼本人もそうなら、同類であるはずの私にそう言うのも変だよね。もしかして、自己投影、だったのかな。彼は私に自分を重ねて「可哀想」って言っていた? ……わからない、今となっては真実は闇の中だ。
「真澄さん」
 真澄さんがびくりと肩を揺らす。
「大丈夫です、私、傷ついてませんから。だって真澄さんは守護軍の試験に落ちて、でも、〈恭爺〉さんに力を認められて今〈影〉にいるんですよね。私は〈魔羅〉が凄く怖いので、勿論霊力がたくさんあった方が良いに決まってるんですけど……、危ない時は瑠璃さんが助けてくれるし。きっと霊力が全てではないですよね」
 ああ、他人事だ。だからこんな白々しい言葉がさらさらと出てくるんだ。〈紅蓮〉には〈魔羅〉っていう恐ろしい化け物がいて、人々が常にその脅威に怯えていて、その唯一の対抗手段として霊力が存在するんだってこと、私は本当の意味ではきっと理解していなかった。理解しないままそんなことを言った。他人事だからって。
 恐る恐る顔を上げた真澄さんは、私の落ち着いた顔を見て、安心したように小さく微笑んだ。
 はじめから傷つくわけがないのに、私は。
 髪と瞳の色が同じなのは貴人の証。その色が原色の赤に近ければ近いほど秘めたる霊力は強大。
 それじゃあ――。
 私は知っている限りの全ての人の髪と瞳の色を脳裏にイメージした。麗燈さんは両方真っ赤。〈恭爺〉さんもさすが麗燈さんと同じ血族とあって両方ともワインレッドだ。浅葱、篠、黒梅、……そうだ瑞枝! 瑞枝は両方とも赤茶色だった。霊力に恵まれているだけではなく身分も高い? ではそんな彼女が私の女官を務めているのは、何故なのだろう。
「真澄さん、瑞枝……さん、のことはご存知ですよね」
 何故かさん付けしてしまった。本人の前でそんなことをしたら眉を顰められるけど、いない時だからいいよね。年上を呼び捨てにしてしかも敬語なし、なんて、普段の私からすると信じられない暴挙なのだ。こっちの方が断然、自然。……あ、今のは別に故意に韻を踏んだわけではないぞ。
「瑞枝さんはもしかして、お姫様の一族に纏わる人だったりは……」
「それは、ありえません」
「え。だって赤茶色って、赤にかなり近いし、髪も瞳も同じ色で」
「けれど、近い、というだけでしょう? あれは無論貴族の端くれなのでしょうが、まあ、どういった事情かは兎も角、おそらく道楽で貴方に仕えているのでしょうね」
「道楽!?」
 あのめちゃくちゃ厳格な瑞枝にその言葉ってものすごーく噛み合わない気がする。思わず恥も外聞も無く叫んでしまった。というか真澄さん、今言ったことはドコ情報なんだ? 真実か?
「でもでも、瑞枝……さんってすごく厳格で、その、えっと、ちょっと偉そうに見えなくもないときがあったりなんかもして、でも」
「始終不機嫌でしょう?」
「え、はい」
「あまり他の者と共に仕事をしないでしょう、あれは」
「え、はい」
「不機嫌なのは、やることなすこと自らの思い通りに行かないからです。慣れていないから。他の者と共に行動しないのは、しないのではなく、できない。あるいはしたくない。恥を晒したくないのでしょう」
「で、でも、それで道楽っていうのはちょっと矛盾しているような気が」
「一族から逃れたかったのかもしれません。霊力が十分にあるとはいえ、一族の囲いの中で育った女ですからね」
「?」
「一族から逃れたい。けれど、〈御殿〉の外で生きて行けるだけの自信はない」
「はあ……」
「そういった事情を抱えた者は存外多いものですよ、光様」
 と言ったとき、真澄さんは悪戯を思いついたような目をして私の膝にちょこんと両手を置いた。びっくりしたけれど、先程まで治療のためにぺたぺたと足を触られていたわけで、それを思うと然程違和感が湧かなくて、私は一瞬身を引きかけただけに留まった。
 ん、何の話だったかな。
「貴方は?」
「え?」
 じっと見上げられる。ええと、何の話、だったっけ……?
 困惑する私に、真澄さんが衝撃の一言を投下する。
「私は、貴方がたとえ貴人でなくとも、どこまでも着いて参ります」
 心臓が跳ねた。確かに私の膝に手を置くなんて行動は彼にしてはおかしかったけど、不意打ち過ぎる。
 真澄さんは私が本当は貴人じゃないって知って――いや、そんなはずはない。
 でも、なに、じゃあ今の言葉って。というか、え? どこまでも?
 はしたなくぽかんと開きそうになる口を押さえるべく、私は両手で口元を覆った。真澄さんは私に不思議な微笑を投げかけると、薬湯を張った桶を抱えて立ち上がる。
「では、失礼致します」
 なんて言い残して、呆然としている私を余所に颯爽と部屋を出て行ってしまった。
 彼は、「冗談です」とは、言わなかった。
 なに。
 一人取り残されて十数分後、私はようやく彼の言葉の真意に思い至る。話の流れから考えて、多分、いや絶対そうだと思う。
『そういった事情を抱えた者は存外多いものですよ、光様』
 そういった事情を抱えた者……つまり、逃れ難い状況に立たされている人。
 あ、と思った。不意に泣きそうになった。
『お前はここでの生活に満足しているのか? あるいはこれから死ぬまでここでやっていく気があるのか』
 ――同じだ。
 瑠璃さんと、同じ。
 真澄さんは「ここから逃げ出したいのなら力を貸す」と、そういう意味合いの言葉をくれたんだ。
 ううん、ちょっと待って。
 瑠璃さんは私に「よく考えておけ」って言った。でも真澄さんの言葉はもしかしたら、それ以上の強い意志を秘めたものなのかもしれない。「どこまでも」――なんて、そんな、じゃあ〈御殿〉を抜けて明日の保障もできないような暮らしになってもいいって、落ちぶれてもいいって、そう言うの? ここまで何のために実力一本でのし上がってきたの、どんな思いで。それを全部捨てるだけの覚悟がどうして。いや、勿論瑠璃さんもその覚悟があってこそのあの発言なんだろう。私には、そこまでしてくれることが純粋に不思議で、驚愕で。だって私……、貴人にしてはヘンテコ過ぎる。見た目も中身も中途半端で、生まれ持っての聖人君子とは程遠い。どこにそれだけ尽してあげる価値があるんだろうって、そう考えずにはいられなかった。ほら、こういう打算的なところとか、全然可愛くないし。私だったら多分――いや。他と違う人のことって、案外気になるものなのかもしれない……でも、よくわからない。初めはきっと警戒する。その人の中身が見えて、良い人だってわかったら、はじめて信頼する……、だろうか?
 何にしてもこの現状を喜んではいけないと、自戒するように強く思った。
 私は二人を騙しているんだから。
 真澄さんが部屋を去って一人きりになり、何か張りつめていたものが切れたのか、どっと疲労が押し寄せてきた。寝台の縁に腰掛けたまま、こめかみの辺りを指で揉む。
 真澄さんと入れ替わりでやって来た女官の皆と一言二言言葉を交わし、お風呂を出てすぐ、私は布団に潜り込んだ。眠りにつくまで十秒もかからなかったぐらいかもしれない。泥のように眠るって、こういう状態を指すのだろうか。お風呂に入って体はすっきりしていたけれど、脳内はぐちゃぐちゃに掻き乱されたままで、心が追いついて来ないようだった。人ってきっとそういう時に卒倒するんだね。正直この日の、布団の中に入った記憶とか、女官たちと交わした会話の一部とかは頭からすっぽ抜けていたりする。いくら疲れているとはいえ、汗で濡れそぼったどろどろな衣を着たままで眠る気にはなれなかったから、気力だけで無理矢理身体を動かしてお風呂には入ったけれど、その後は何がなんだかだ。一応、寝間着を身に付けたところまでは覚えている。だから風呂場で裸のまま卒倒して運ばれた、なんていう最悪の展開にはなっていないはずなんだけれど、なんとも記憶が曖昧で不安だ。
 ――〈無色〉か。
 霊力が少ないことは、恥なのかな。


 前日、つまり私室戦争が勃発した当日はもう遅かったこともあり、〈恭爺〉さんの部屋のお片付けは翌日になって始まった。無論、〈恭爺〉さんに宣言した通り私も参加した。でもってついでにその日の私の護衛当番である瑠璃さんも強制参加させてしまった。本当は私だけが参加するはずだったんだけれど、主人(驚くことなかれ、私だ)が働く手前、黙って見ているわけにもいかなかったのだ。今回の場合、人目があったし。
 人目というのはいうまでもなく、私たち以外のお片付け参加者のことだ。〈恭爺〉さんは前日の暴動を下々の者に知られるのが余程嫌だったのか、作業には腹心の部下である〈影〉の方々しか呼んでいなかった。作業に参加したのは私と瑠璃さん含む五人。全員で、たったの五人だ。確かに部屋は然程広大でもないが……果たして今日中に終わるのか、という心配が当初からずっと私の頭を悩ませている。いくら部屋が広大でないとはいえ、所々床が抜けているぐらいの物凄い崩壊ぶりだし、壁だって凹んでいるし、作業に集められたのはそっち方面の技術者でもないわけで。結局〈影〉の人って全員で何人ぐらいいるんだろう。私は何故か逢う機会が多い……というか私の存在自体がそうだからかもしれないが……〈影〉って本来は隠密組織で、その存在は国の機密事項であって。ってことは国を守る主力である守護軍に比べればその規模は小さいんじゃないだろうか。目立たないように。私が〈御殿〉に来た時に迎えに出ていた〈影〉の人達は大体十五、六人ぐらいだった……まさかあれが全員ってわけでもないだろう。私一人の迎えのためにそこまでするとは思えないし、大体、隠密組織が目立つ行動をとっては本末転倒ではないか。ということで、私は勝手にあそこに出ていたのは〈影〉の中でもほんの一部の者たちだけだったと思っている。瑠璃さんにその話をしたら、まあ妥当だろうなって言っていたし。
 しかしだ。
「瑠璃さん、良い手つきですね」
 作業が開始してしばらく経った頃、私は膝をついて黙々と作業を進めていた瑠璃さんに声をかけた。床に開いた穴に板きれをあてて釘を打ち込んでいたのだけれど、それがやけに慣れた様子で。私にはそんな高度な技術は備わっていないので(いや、一度はチャレンジしてみたんだよ。だけど何故か金槌が指にしか向かってこないから、見かねた瑠璃さんが取り上げたのだ)、部屋の修復には携わらず、ひたすら掃除に徹していた。余談だけど、今日は私も瑠璃さんも作務衣っぽい格好に身を包んでいる。実はこれ、〈影〉の人の配給品だったりする。動きやすく脱ぎ着も楽で、これからも普段着にどうかななんて密かに企んでみたが、瑞枝が見たら物凄い形相で睨まれることは必至だろう。よって、すぐに断念した。
「俺はお前のような貴人ではないからな」
 私の褒め言葉に対し、瑠璃さんが目を上げずに皮肉で返した。瑠璃さんはすぐにそういうことを言う。彼の過去を思うと気持ちはわからなくもないけど、〈影〉の人たちが聞いているかもしれないのに。……それにしてもあの三人はどこの誰なんだろうかという疑問が先程から頭を擡げている。
「そういえば今日も黒梅を見かけないんですよね」
 ふと思い出し、私は話題を転換した。作業を中断しているわけではなかったので、会話するぐらいなら良いかなと思って。
「またか?」
 瑠璃さんが「また」といったのは、以前にもこの話を彼にしたことがあったためだ。
「最近ずっと忙しそうで、顔を合わせることはあってもゆっくり話す時間が無くて」
「いつからだ」
 いつから……私は昨晩の延長のごとく乱れている脳味噌で、なんとか記憶を辿ってみた。
「一週間ぐらい前から?」
「そんなに経つか」
「はい、多分」
 間違いないと思う。最初の方こそ黒梅が傍にいる時間が圧倒的に多かったものの、一週間ぐらい前……、そう、私が初めて霊力を受け取ったあと気絶し、三日後に目覚めた辺りからだ。私は気付けば見習い女官の浅葱、篠の二人と過ごす時間が増えていた(いや、瑞枝は……うん)。それの何が不満ってわけでもないんだけれど、事情がわからず気になっていたのである。
「最初は女の子にしか見えなかったんだけれどなあ……」
 出会ったばかりの頃を思い出し、思わず遠い目をしてしまう。うん、どこにもそんな妙な疑いをかける余地なんてなかったはずだ。
「そうなのか?」
 瑠璃さんも一応この不可思議な現象に興味があるのか、それとも単に作業が退屈なのか、はたまた私に調子を合わせてくれているのか、話を続けた。
「そうなんです。変な夢を見て、それで目覚めた辺りから急に…………、あれ?」
 そういえばそうだ。麗燈さんから霊力を受け取り、目覚めたあと、自分の目が信じられなくなるような事態が起こった。おそらく転機はその辺りだ。ひょっとすると黒梅じゃなくて変化が生じているのは私自身の方なのかも? という考えがちらっと脳裏を過って、すぐに掻き消える。
 と、瑠璃さんと雑談しながら作業を進めていると、〈影〉の一人がこちらへ近づいてきた。サボるなら出ていけと注意しに来たのかもしれない。いかんいかん掃除中の私語は慎もうどこかの地域の小学校のごとく、と慌てて瑠璃さんから離れようとしたところ。
「ご存じないのですか?」
 先程の〈影〉の人が話しかけてきた。なんだ、話に参加したかっただけか。そうかそうか、大いに結構だぞ。と何故か偉そうにする自分が謎だ。不安の反動だと思う。
「何が?」
 瑠璃さんが睨みつけるように〈影〉の人を見上げ、突っ慳貪に訊き返した。瑠璃さん、やはり誰にでもこうなのか……。
「黒梅様のことです」
 ……ん?
 さま?
 今何か、奇妙な言葉が聞こえたような。
「……いえ、濫りに口外して良い話ではありませんでした。失礼」
 〈影〉の人がそう言い直して去ろうとする。思わせ振りだな、気になるじゃないか。言いかけておいて。
「待たぬか」
 瑠璃さんがびしっと引き止める。ううむ、私もそうしたい気持ちは山々だが。
「言いかけておいて何だ。無礼ではないか?」
 私だけじゃなく他の〈影〉の二人も微かに気まずげな気配を漂わせた。瑠璃さん、喧嘩売らないで。それより作業しようよ。ね。とは言えず、私は箒で床を掃きながらそわそわと事の成り行きを見守った。ああこの粉っぽい物体、昨日のある時点までは湯呑みとして立派に働いていたはずなのに、可哀想に今はこんな無残な状態になって……。
「無礼? 私のどこが無礼と」
 駄目だ、この全身真っ黒な人、瑠璃さんの安い喧嘩を買う気だ。止めなければ。
「瑠璃さん、良いじゃないですか別に。本人に聞けばいいことだし、言いたくないならそれまでで」
 と私はさり気なく床を掃きつつ瑠璃さんと〈影〉の人の間に体を滑り込ませる。よし、視界から消えればもう大丈夫だろう。
「言動も無礼、態度も無礼、眼光も衣服も無礼、寧ろ貴様のどこが慇懃と? とんだ慢心よな」
 大丈夫ではないようだ。というか、私が言ってることには全く耳を傾けてくれていない。
「瑠璃さん、何しにここへ来たのか思い出して」
 確かに黒装束は怪しげだけれど。
「眼光? 眼光といえば穏やかでないのはそちらでしょうに」
 それは私も常々思っ……じゃなくて。
「あ、貴方も。〈恭爺〉さんのお願いを忘れたんですか?」
 お願いっていうか、命令なんだけれど。なんだかそう表現するのは気が引けたのだ。因みにその〈恭爺〉さんだが、現在仕方なく仕事部屋の方でお休み中らしい。私とは直接顔を合わせていない。
 〈影〉の人が私の話を綺麗さっぱり無視し、距離を縮めてきた。本格的に第二次私室戦争が勃発しそうだ、これはいかん。今度こそこの部屋が倒壊、否、全壊してしまう。
「そっ、掃除! 掃除しましょう! ね!」
 焦るあまり上手い言葉が出てこなかった。あーもう、何でもいいが近づくんじゃない!
 背後で瑠璃さんが立ち上がった気配がした。わかったからもう、二人とも穏便にして欲しい。
「瑠璃さん」
「表へ出ろ」
 いや、確かにこの部屋が倒壊しては〈恭爺〉さんに申し訳が立たないがじゃあ外に出れば良いのかって別にそういう問題でもなくて。
 ふと目の前の〈影〉の人が怪訝そうな気配を漂わせた。
「何ですって、瑠璃? どこかで聞いた名だと思えば貴方、いえ貴様」
 何故言い直したのだろう。
「私の白百合を誑かした不届き者ではないか!」
 ――え。
「なっ、何の話ですかちょっと!」
 私は瑠璃さんを取り押さえつつ思わず振り向いて突っ込んでしまった。だってとてもとても気になるじゃないか。
「人聞きの悪い! あれが勝手に……」
 反論しようと口を開いた瑠璃さんだったけれど、微妙に蒼褪めた顔をしていたので私は吃驚仰天である。なに、なに、この感じ。珍しいっていうか、その前にここに来てからそういう類の話ってほぼ全く聞いていなかった。ここは是非とも詳細をお聞かせ願いたいところ……と私は一瞬お片付けのことを忘れてそう考えてしまった。
 〈影〉の人が今度こそ本気で憤慨する。
「貴様っ、あれとはなんだ、あれとは! まさか白百合のことではあるまいな?」
 白百合さん? 知らないな……と私は二人の応酬を聞きながら首を捻る。
「他に何がある。それよりお前、あれのなんだ?」
「どこまでも傲岸不遜な奴め。私は、白百合の兄だ!」
「何……」
 本当に、ほんとぉーに珍しいことに、〈影〉の人の言葉に瑠璃さんが怯んだようだった。しかも、さりげなく私を盾にしている。
「兄だと。ではお前は一端の貴人であると?」
「ふん、そういうことになるな」
 これには私も少し驚く。〈影〉の中にも貴人がいるんだ……と、そういえば昨夜真澄さんから私に仕えている瑞枝は貴族の端くれだって話を聞かされたばかりだった。どうなっているんだろう、〈御殿〉って。あれかな。兼業している人が多いのかな?
「兄……、ならば兄らしく、もっと厳しく躾をだな」
 瑠璃さんが顔を引き攣らせつつもなんとか「貴人」という観点を逃れて言い返す。
 が。
「躾!? 白百合を犬か何かのように言うんじゃない!」
 ああそうきたか……。
「此方は迷惑しているのだ!」
 なんだか、あまりに瑠璃さんが必死で可哀想になってきた。でも。この〈影〉の人の話を聞く限りでは、瑠璃さんがこの人の妹さんに何か悪いことをしたっぽいし、ちょっと庇う気にはなれない。いつもお世話になっているくせに薄情だろうか?
「それは此方の科白だ。よくも妹を誑かしてくれた!」
「あの……」
 依然として間に挟まれていた私は、その辺りで音を上げた。元はといえば二人の喧嘩を阻止するべく渦中に飛び込んで行ったわけだが、既に喧嘩が始まってしまった今となっては非常に手に余る状況だった。いっそ逃げてしまうか?
 ……ん? そういえば白百合って名前だけはどこかで聞いたことがあるような気がする。どこでだっけ。
 そうして私が修羅場の真っただ中で弱っていると、壁際に居た他の〈影〉の一人が部屋の中央部にいる私たちの元へと遠慮がちに近付いてきて、私に目を止めた。
「お二人とも、ご歓談に興じられるのは結構ですが、作業を進めながらにして下さいませんか」
 ご、ご歓談って。微妙にずれた表現に、私はぽかんとしてその人を見つめ返す。お二人とも、と言いつつも彼は私の方を見ている。気のせい……ではなさそうだが、何故だろう。もしかして私、首謀者だと誤解されていたりはしないか。大いに違うぞ。
「それに、そちらのお嬢様も困っておいでです」
 はっとして、私はその人の隣に素早く移動した。二人を振り返ると、一瞬私と私の隣に立っている〈影〉の人に目を向けたけれど、すぐに睨み合いを再開してしまった。にしても明らかに瑠璃さんが劣勢と見受けられる。珍妙なことがあるものだなあ、と解放された私は呑気に傍観したあと、救いの手を差し伸べてくれた〈影〉の人の後ろに着いて行った。
 窓際まで移動したところで、立ち止まったその人と目がかち合う。その日は日差しが強かったため、〈影〉の装束の中でも唯一肌が露出している目元がくっきりと見えた。――なんだろう、この奇妙な既視感は。真っ白な肌に、褐色の瞳。どこかで……?
 首を捻りつつもひとまず先程のお礼を言って、箒で床を穿き始めると、彼の方から話しかけてきた。彼は壊れた家具類の中でも比較的原形を留めている物の修繕にあたっている。
「何故、貴方がこのような場所に?」
 かなりの小声だったので私は一瞬耳を疑った。まるで私と知り合いであるかのような口ぶりである。
「ええと、すみません。どちら様でしたっけ……?」
 瑠璃さん達に勘づかれると不味いかな、と考え、私はその人に倣って彼らがいる方向に背を向け、視線を床に留めたまま尋ねた。〈影〉の人は口元を布で覆っているためどうしたって遠目では喋っているのか否か判別できないけれど、私は違う。だからその人の方を見ずに、作業に集中して見えるように振る舞っておいた。
「無理もございません。ただ一度お会いしたきりでしたので」
「お会い……したんですか? 私」
 ということは彼は、私が初めて〈御殿〉を訪れた日にお迎えに出ていたあの集団の中の一人、ということだろうか。
「ええ、そうです。私はてっきり、姫の元においでとばかり思っておりました」
「ええと」
 どういうことなんだろう。この人の中では、私は常にお姫様の元にいるってことになっているんだろうか。私が実は貴人であるという話(嘘なんだけど)、〈恭爺〉さんから聞かされていないのかな? 〈恭爺〉さんの管轄する〈影〉の人なのに。
 ここしばらくは身を潜めていた疑念が、そこで再び姿を露わにした。昨日〈恭爺〉さんと会って話して、ようやく一息ついたところだったんだけれどな。――でも、それで良いような気もする。だって私は、この国の重要な計画に関わっている当事者なんだから。鈍感に、何も疑問に思うことなく力を貸すのは、絶対嫌だった。その考えは初めの頃からずっと変わらない。
「どういうことでしょうか」
「私はてっきり、貴方が姫の補佐をなさっているとばかり思っていたのです」
「はあ……」
 あれ、そういう設定? 私って頭の可哀想な子なんじゃなかったっけ。……自分で言っておいてなんだが、傷つくな。
「違うのですか?」
「待って下さい、むしろ私が聞きたいんですけど。私の身の上について、〈恭爺〉さんから何と説明されたんですか?」
「いえ、私は〈恭爺〉様からではなく、統領から伺ったのですが」
「……お頭から?」
 名前を出すのは憚られたため、そう言っておいた。
 不意に脳裏にある記憶が閃いた。数日前に麗燈さんの元へと私を案内したのは、朝影さんだ。本人がそう名乗っていたし、あの透明感のある眼は彼以外にあり得ない。声も雰囲気も、間違いなく彼だった。
 そこではっとする。忘れかけていたけれど、朝影さんは〈穢れ姫〉の正体を知る数少ない人物じゃないか。会話だってしていたし、寧ろどことなく親しげだったし。ということはだ、朝影さんはどちらかといえば〈恭爺〉さんではなく、麗燈さんの腹心の部下ということにはならないだろうか。〈恭爺〉さん管轄の〈影〉、それも統領という立場にいる人ではあるけれど……いや、寧ろ統領だからこそ〈穢れ姫〉の正体を知っているのかもしれない。あれ、でも最初に会った時は〈穢れ姫〉という存在をとても畏れている様子ではなかったっけ。確か周りの人もそうだった。具体的にはそこに居合わせたのは真澄(当時は梧桐と名乗っていた)さんと、ええと……忘れてしまった。とにかくもう一人、部下の人だ。あの態度は、その場に居合わせた二人に合わせたの? 何のために。あそこで〈穢れ姫〉を畏れてみせることでどんな効果があるというのだろう。……単純に、お姫様を立てたのだろうか? 自分も偉い地位にはいるけれど、〈穢れ姫〉には遠く及ばない、と。そうだ、〈影〉は〈御殿〉の政の裏で暗躍する機密組織。お姫様やそのすぐ側に仕える〈恭爺〉さんに楯突く者には容赦がない。逆にいえば自分たちはお姫様に絶対服従だということ。じゃあ、あの場面ではお姫様を立てたのだと考えるのが妥当……なのかな。
 いやいや、呑気に回想している場合ではないのだった。腹に一物抱えている麗燈さんの腹心の部下であるならば、当然朝影さんのことも疑わなければならない。つまり、この目の前の〈影〉の人が朝影さんからなされた説明と、〈恭爺〉さんが直接した説明との間には、何らかの差異があるのではないか。
「貴方は記憶を失った貴人でいらっしゃると、伺っております」
 〈影〉の人が言葉を続けた。
「ええ、まあ、そうらしいですね……」
 そこは共通なんだ。ううむ。
「ゆえに、不思議に思ったのですよ」
「え?」
「貴方が何故ここで、このような仕事に携わっているのか」
「んん?」
 ちょっと待てよ。この人の話しぶりから察するに、お頭、じゃなくて朝影さんは、私が初日に実際はお姫様ではなく〈恭爺〉さんと面談したって事実をわざわざ捻じ曲げて説明したと?
 ……なんで。
 〈恭爺〉さんではなくお姫様に直々に面会したという事実は、ここの人たちからすれば脅威になるんじゃないかと思う。〈紅蓮〉では〈穢れ姫〉の存在って絶対だ。〈穢れ姫〉の喪失=〈紅蓮〉の滅亡といえるし、加えて、その存在が神格化されているきらいも多少ある。正体を知っているのが極々一握りの人だけって辺りがその証拠だ。そんな〈穢れ姫〉に私が直々に呼ばれ、面会したとなれば、この〈影〉の人のように勘違いしてもおかしくはない……のかな。いや、何かおかしい気も。その前に、普通どんな場合に〈穢れ姫〉から特別のお呼びがかかるものなのかを、私は知らない。
 しかし最初の質問には何と答えるべきなんだ。へまをしたら〈恭爺〉さんのお怒りを買いそうだ。てきとーに無難なことを言っておこう。
「私、まだ全然記憶が戻らなくて、自分が何者であるのかよくわからないんですよね。それだけならまだしも、何故か自分は平民なんじゃないかっていう思いがあって、今もそう思い込んでいるんです。だからこういう作業をしていると落ち着くんです」
 我ながら無茶苦茶な話だとは思ったが、〈影〉の人は信じてくれたようだった。そうですか、と言って目元を和らげた。
 ――麗燈さんは嘘つきだ。
 だからといってまともにそれを指摘したり、反抗したりはできない。彼にしか、私を元いた世界に帰す力はないのだから。……まあそれに、正真正銘の悪人でないってことは、会ってみてわかったし。最初はサボリ症だって思い込んでしまったけれど、やるべきことは精一杯やっているって、今は知っている。
 でも私、彼の所為で結構、振り返ってみると嘘をついているんだよね。周囲のお世話になってる人のことを騙してる。瑠璃さんも、真澄さんも、女官の皆も。
 私が真実を知って、その上で元いた世界に帰してもらう方法は無いのだろうか? 思えば唯一無二の肉親である〈恭爺〉さんにまで隠し事をしていた麗燈さんのことだ、他にも自分だけしか知らない秘密を抱えているに違いない。となると私が今までちまちまとしてきた情報収集は、全てが無駄とまではいかずとも決定的な効力とはなり得ないわけで。一体どうやって核心に近づけばいいんだろう。核心を隠し持つ麗燈さん自身には全く私に本当の事情を話す気などないのだろうし。あの綺麗に作られた笑顔は、中々手強そうだったもの。
 うん、絶対無理だ。
 もしも私一人だったなら。
 だから私は、嘘をつきながらになってしまうけれど、騙しながらになってしまうけれど……、まずは周りの人を味方につける努力をしないと。
 その一番の要となるのが、重役である〈恭爺〉さんだ。
 なんだかんだと彼が甘いこと、私はもう知ってしまったのだ。


 〈恭爺〉さんと一悶着、どころか死闘を繰り広げてしまった恐怖の日から二晩が明けた。
「それで、何故貴方はまたしても私の元を訪れているのですか」
 小卓を挟んで向かい合わせに鎮座している〈恭爺〉さんが不意に引き攣った笑みを浮かべてそう尋ねてきた。今日は寝間着じゃなく、いつか見た橙の衣装のような割ときちっとした格好をしている。顔色も幾分良い。この僅かな期間のうちに順調に以前の調子を取り戻しつつあるようだ。喜ばしいことである。
「え、今更ですね」
 ちょっと驚いてそう返すと、ぴくりと〈恭爺〉さんの片方の眉が動いた。怒らせたかな。というか〈恭爺〉さん、結構短気だよねえ……。
「今更も何も、貴方がそこで落ち着いてしまったから話が始められなかったのでしょうが」
 忌々しげに指摘されてしまった。しかし、声をかけられればちゃんと答えるぞ。よくわからないが、そういうマナーなのか?
 落ち着いたというのはつまり、私がお茶に茶菓子にと手を伸ばしてまったりしていたことを指している。
「そうですか?」
 とりあえず、これ以上機嫌を損ねるわけにはいかなかったので、私はことりと湯呑みを卓上に置いた。今日は若干肌寒いので、お茶の温かさが身に染みる。それでつい心まで綻んで、寛いでしまったという次第だ。うん、言い訳だ。
「白々しい……」
 〈恭爺〉さんが荒んだ目で零したけれど、聞こえなかったことにする。
 そう、ここは〈恭爺〉さんの件の私室なのだ。板を打ち付けて無理矢理穴を塞いだ箇所は〈恭爺〉さん本人が調達した調度品やら〈影〉の人が頑張って直した家具やらで隠されているので、一時はあれほどの崩壊を見せたこの部屋だが、今はなんとか人が生活できる空間にまで戻っている。まあ……足を踏み出した折に時たま床が変な音を立てるのが気がかりではあるけれど。昨日は丸一日かけてその修復作業にあたったし、その前にこの世界に来て二回目となる霊力授与をお姫様(……いや、もうこれからは麗燈さんというべきかな)から受けている私は、少しだけ自信を持って今ここに居る。初日に〈恭爺〉さんと交わした「働きに応じて云々」って約束が反古になっていなければ、今日私がする質問の一つや二つに答えて貰うぐらいは可能なはずだった。昨日、修復作業に参加する中で気になる話を耳にしたから。こうしてまた日を置かずに押しかけることに抵抗がないわけではなかったけれど、なんだっけ、善は急げ? ちょっと違うような。ともかく、私は最悪の結末を避けたいがために今日ここへやって来たのだ。
「ごめんなさい。怒ってらっしゃいますか?」
 彼に悪いと思っているのは本当なので、そう言ったのだが、〈恭爺〉さんは途端に顔を顰めた。
「そうやって人の顔色を窺うのはお止めなさい」
「え、どうしてですか」
「貴方は子供でしょう」
「こ……、」
 もう何度目になるやら知れない〈恭爺〉さんの子ども扱い。一瞬言葉を失ったけど、さすがにもう慣れていたので、立ち直りは中々早いものだった。
「こほん。……何故ここを訪れたのか、でしたよね。勿論〈恭爺〉さんのお見舞いに」
「それが白々しいと言っているんです」
「……ええと、じゃあご機嫌伺いに」
「じゃあ?」
 くそう、やはり健康状態良好な〈恭爺〉さんは手強いな。
 でも。
「〈恭爺〉さん、ごめんなさい」
 〈恭爺〉さんのご指摘の通り、確かに私は彼のお見舞いをするためにここへやって来たわけではない。今日の夕方まで予定が詰まっているらしいお姫様と、夕方以降に面会できないかどうか相談にやって来たのだ。でも、目的はそれだけでもない。
 突然謝罪されて意表を突かれたのか、胡乱な表情から一変、〈恭爺〉さんが不思議そうな顔で私をまじまじと見つめた。
「何です、唐突に」
「一昨日のことです。私、昨日一日かけてよく考えて、反省しました。無礼千万な言動の数々、誠に相済みませんでした」
「…………」
「ということで、ごめんなさい」
 まことにあいすみませんでしたなんて言いにくいことこの上ないし普段使わないから心が込められない。本当はもっと格好良く、慇懃な言葉遣いで謝罪できたら良かったんだけれど、生憎と私にそれができるだけの知識は備わっていなかった。
 そうなのだ。〈恭爺〉さんに謝りたかったんだ、一昨日のこと。病人なのに暴れさせてしまって、一晩明けて冷静になってから空恐ろしくなったのだ。自分はなんて酷い仕打ちをしてしまったんだろうと。
 そうだ、言葉だけじゃなくて態度で示すべきかも知れない。土下座しようかな……と半ば本気で考えていた時、軽やかな笑い声が降って来た。発生源は、どうやら〈恭爺〉さんの模様。
「神妙な面持ちで何を言い出すのかと思えば、そんなことですか」
「そんなことって、大事なことですよ。〈恭爺〉さん、疲れたでしょう? だって十五歳の私ですら筋肉痛になって……」
「私が歳だと言いたいのですか」
「すみません違います」
「……貴方は確かに脱兎のごとく終始逃げ回っていましたが、私自身は大して動いていませんから」
「そうでしたっけ? でも息切れしてたじゃないですか。というか〈恭爺〉さん、凄い怪力ですよね」
「光さん」
「あのでっかい壺が宙を舞った時には我が目を疑いました。しかも持ち上げるだけでも凄いのに、私に向かって真っ直ぐ、物凄い速さで飛んでくるし、その後……」
「光さん」
 ジェスチャー付きで一生懸命説明していた私は、そこではたと口を噤んだ。壺の形を作っていた両手をぱたりと膝の上に落とす。それで結局私、許してもらえたんだっけ……?
「あれは喧嘩だと言ったはずです」
 私は思わずぶっと噴き出しそうになったが、寸前で耐えた。だって〈恭爺〉さんが至極真剣な顔で「喧嘩」なんて言うんだよ。しかもその喧嘩相手って私なんだよ。
「あの、そうですけど……」
「良いですか」
「え、はい」
「喧嘩というのは、両成敗が原則。よって貴方が私に頭を下げる必要も、私が貴方に頭を下げる必要もありません。全ては済んだことです。一昨夜のことは忘れなさい。早急に、忘れなさい」
 無茶苦茶な話である。
 〈恭爺〉さんは至って真面目な雰囲気……だけど、彼の主張は全て最後尾の「忘れなさい」に集約されている気がする。そうか、無かったことにしたいんだね〈恭爺〉さん。後悔してるのかな。というか、思い出すと恥ずかしいってな心境だろうか。そっかそっかなるほど。同じ出来事に対してだけれど、私とは大分違う考えをお持ちのようだ。ふーん、面白い……といっては失礼か。
「……わかりました。忘れます」
 〈恭爺〉さんがちょっと疑うような眼差しで私の目を見つめた後、頷いた。そっか……一昨日のこと、怒ってはいないんだ。良かった。
「光さん」
 〈恭爺〉さんがなんだか改まった様子で声をかけてきたので、私も思わず姿勢を正す。
「姫様から、言伝を預かっています」
 意外な言葉に目を丸くした。



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