第二幕:12



 黒に飲み込まれてゆく。文字通り地に足つかぬ浮遊感。この感覚、記憶に新しい気がする。
 唐突に地面が現れて、私がようやく人心地つくと、次の瞬間黒の世界が大きく切り裂かれ、裂け目から白が溢れ出す。眩しくて、私は腕で顔を庇った。
 腕を下ろし、私の目に飛び込んできたその景色は――おそらく、〈御殿〉内部にある誰かしらの部屋の中だった。
 広さ的には私の部屋の倍といったところ。私の部屋の内壁は土壁というか、ざらついた感じで、色も渋めの黄土色をしているのだけれど、この部屋の壁は白く滑らかだった。全体的に可愛らしい雰囲気で、ちょっぴり羨ましい。調度品は緋色で統一されているし、壁には花が飾られている。きっと女の子の部屋なんだろうな。
 ……ん、ちょっと待て。これって不法侵入。
 呑気に部屋を見回している場合じゃなくないか、と引き攣った。と同時に動悸がしてきた。
 この際今が夢なのか現実なのかって問題は脇へ置く。っていうかさ、夢だろうが現実だろうが悪いことは悪い、だよね。
 私が立っていたのは部屋の入り口付近だったため、部屋全体を見渡すことが出来たらしい。はっとして足元に視線を落としたけれど、沓は履いていなかった。良かった……って、そんな些細な問題はどうでもいいような。
 いや、よく考えてみれば沓無しで外には出ていけないじゃないか。
 ああでも、迷っている暇は無い、誤解を受ける前にとにかく回廊に出よう! と一人決意した瞬間、回廊の方から複数の足音、及び話し声が聞こえてきた。
 それらは確実に、この部屋へと近付いてきている。
 えっ、ちょっ、えぇ!
 待った!
 なんて切に願っても待ってはくれないのが道理で。
 あたふたしているうちに無情にも戸が引かれ、中に人が入ってきた。私は反射的に隅の方に飛び退く。
 入ってきたのは、見覚えのある二人だった。
 乙女らしからぬ硬質な気配を漂わせる濃い赤髪の少女と、その弟である茶髪の優しい少年。
 いつだったか主殿の西側付近で見掛けた貴族の姉弟だ。……あれ、でもそれって夢の中で、だったかな。曖昧過ぎて判別がつかないや。
 兎にも角にも心臓を硬直させたまま、私は二人を凝視した。
 少年は部屋に入るとまずは回廊で深く頭を下げているお付きの人たち(女官かな?)を振り返り、お礼と、もう下がるようにという旨を伝えた。するとお付きの人たちは速やかに去っていった。
 一方、少女はというと。
 お付きの者や少年には一切興味無しとでもいうような感じで見向きもせず、さっさと鏡台の前に座っていた。髪を一部分だけ括っていた黄金色の紐を解くと、抽斗から櫛を取り出して髪を梳き始める。余談だがその黄金色の絢爛な紐はぽいっと傍らの屑入れに投げ入れられたぞ。す、捨てるのか!? 勿体無い!
 ……いや、というか、私は?
 この場において明らかに不審人物であるはずなのに、二人とも私のことは見事なまでにスルーだった。あれ? まさか、気付いていない?
「あの」
 と結構声を張って二人に向かって呼びかけてみるも、反応無し。あれ、あれ。
 ここで一つの可能性が浮かんできた。
 これって、もしかして幽体離脱なんじゃ。
 だって前もそうだったけれど夢にしてはリアル過ぎるのだ。私も思考できることだし。そして今の二人の様子からして、周りの人に私の姿は見えていない、と。
 自分で思いついておいてなんだが、かなり信じがたいぞ。
 それより良いのかなぁ、これって不法侵入な上にプライバシーの侵害だよ、なんて悩むうちにも目の前の光景は進んでいく。
 よく見ると少女は顔色が悪かった。目の下に隈があるし、頬も痩けて血色が良くない。真昼間であるにも関わらず、髪を梳き終えると早々に寝台に潜り込みに行ったぐらいだ。
 調子、良くないのかな。
 心配になって少女の寝台の傍らに移動してみる。これだけ近付いても反応がないって……やはり、そうなのか? 私、幽体離脱中?
 間近で少女の青褪めた顔を見て、さらに不安を覚えた。心臓が嫌な具合にどきどきしてくる。こんなにも青い人間の肌って見たことがない。正常な体調で無いことは明らかだった。意識を保ってこうして上半身を起こしていられるのが不思議なくらいだ。今にも倒れそう。気力でなんとか持っている、ってところなのかな。そう思うとなんて我慢強い立派な子なんだろうと尊敬する気持ちが芽生えてくる。硬質な雰囲気も今は前ほどは感じなかった。こんなに近くにいてもだ。……体を壊している人を前にすると、見ているこちらの心も壊れそうになる。弱ってしまうのだ。多分これは誰もが持っている感覚の一つだと思う。同情とか憐憫とはもっと違う位置に存在するもの。「思う」とか「考える」よりずっと以前から体の中に染み込んでいて、脳内回路とは無関係に反応するもの。他人の苦しげな姿を前にすると、堪らない。人間の本能なんじゃないかな。私もどうやらそんなごく普通の感覚を持ったひとりだったらしく、少女を見ていたら段々と落ち着かなくなってきた。焦燥、している。焦燥――それは、何に対して?
 束の間姿を消していた少年が戻ってきた。私とは左右反対側にあたる、寝台の脇へ。つまり、少年と私の二人で寝台を両脇から挟んでいるような状態だ。
 少年はとても辛そうな表情を浮かべている。……そうか、他人の私なんかより身内の彼の方が余程心配だし、辛いよね。
 大丈夫なのかな。
 思い切り部外者でありながらもそわそわと二人の様子を見守った。
『あの、薬を』
 遠慮がちにそう言って少年がお盆を差し出す。お盆には水の入った陶器と、白い小さな紙の包みが載っている。もしかしてこの包みには粉薬が入っているのだろうか。少し前に真澄さんが私に用意してくれたものは物凄く変な匂い(むしろ異臭)がしたし味も口に入れて良い代物だとは思えなかったが……。漢方薬がさらに怪しく強烈に進化した感じなのだ。
 と、私だったら最低でも三十秒は心の準備が必要であろうそれを、少女は顔色一つ変えずに一息に飲み干した。な、なんて立派な子なんだろう! ほんと、尊敬に値する。
 一方、空になった陶器と紙を載せたお盆にしばらく無言で視線を落としていた少年は、一瞬躊躇うような素振りを見せてから、口を開いた。
『いかがでしょうか、御具合は』
 それは、私も少女本人に直接伺ってみたかったことではあるが、果たして答えてくれるだろうか。
『さほど悪くない』
 ……何っ?
 何を言い出すのだ。どう見ても嘘じゃないか。
 少女の発言に仰天して目を剥いた私に対して、少年は真に受けたのか見るからにほっとしていた。待て待て、そんな馬鹿な。だってどう見ても病人――。
 あ、とそこで気付く。
 もしかして、少女の具合は普段もっと悪い……?
 それで、今日は中でもマシな方なのかもしれない。
 部外者の私からすれば絶不調に見えるが、実は二人からすると良い方なのかも。
 でも、やっぱりどう考えても「健康」とは程遠いわけで。
 なんだかなぁ……と苦々しく思う。何もしてあげられない自分が憎い。何にしても私、ただいま幽体離脱中っぽいし。
 でも、それにしたって前に見掛けたときはそれほど体調が悪そうには見えなかったんだけれど。
 少年が安堵した様子で部屋を出て行った。お盆を片付けに向かったらしい。
 その瞬間、部屋は完全に静まり返った。物音一つしない。これだけ側にいたら少女の呼吸音が聴こえても良さそうなものなのに、その気配すらなく、また不安を覚える。少女の、……命の気配が遠いのだろうか。
 傍らの少女に目を向けると、少年が去っていった戸をじっと見つめていた。
 その静かな目。とてもその年代の少女が見せるとは思えない静謐さ、奥に秘めた何か。押し隠した感情。
 なんだろう。
 寂しい? 悲しい? 切ない? ……よくわからない。
 わからないのに、私の胸は同調するかのごとく痛みを訴えた。


 何度か瞬く。目覚めたその場所は、〈御殿〉で私にあてがわれた部屋だった。そもそも部屋に辿り着いた記憶がないのにきっちりと寝台の上で横になり掛け布団を顎まで被っている自分がいてまずは驚いたことと、先程まで見ていた夢の面妖さ加減に呆然としたことがあり、私は寝台に上半身を起こした状態でしばし硬直してしまった。んんん、夢だよね? 多分。
 体調は別に悪くないようだ。頭痛もなければ腹痛もないし、何もかもが普段通り。
 しかし何だ、妙に記憶が曖昧だな。何だっけ。なんで寝ているんだっけ。
 とりあえず着替えるべきかと考えたその時、女官部屋へと続く戸が開いた。入ってきたのは、私が未だに打ち解けられていない女性、瑞枝。彼女は枝のように細く長い手足でてきぱきと動く。その要領の良さ、是非とも見習いたいとひそかに思っているのだが、そんなことを軽い調子で口に出せる相手ではないのだな、これが。
 瑞枝は私の姿を見とめると、僅かに目を細めた。
「お目覚めになったのですね」
 無機質な声でそう言うと、箪笥から私の着替えを取り出し、持ってきてくれる。受け取りつつ私の視線は泳ぎに泳いだ。その無表情と無感情な声に負けちゃ駄目だ。……とりあえず笑っておくか?
「私、どれくらい寝てたかな?」
 さっそく笑顔(不自然な上、ぎこちない出来)を浮かべつつ尋ねてみた。黒梅ほどではないけれど瑞枝も背が高いので、私はやはり見上げなければならない。見下ろされるとこう、多少威圧感を覚えてしまうな。立ち上がればいーじゃんってそういう問題でもないのだ。
「いえそれほどでは」
 一刀両断するがごとくバッサリ返ってきた冷たい答えに内心「それほどでは」じゃあ何もわからないんだけど……と弱った。でもまあ、確認する方法なら他にいくらでもあるし、黒梅の登場を待つのも手だし。
 現在の時間だけでも確認しようと思い立って、枕元に置いてあった腕時計を覗き込んだ。これも腕から外した覚えが無いので、黒梅辺りが外してくれたんだと思う。七時二十六分。……朝のだろうか? これ、デジタル時計だったら二十四時間制で表示されるから何も迷うことはないのにな。ということで結局私はカーテンを開け、空にさんさんと輝く太陽を視認することで漸く現在の時刻を把握するに至る。朝の七時二十六分、否、七時二十七分のようだ。日付はどうなのか。これは他の人に確認しなければならない。
 昨日の一連の出来事をふと思い出して内心慌てふためいていると、見習い女官の二人が既に朝食の準備を調えてくれていたらしく、瑞枝が女官部屋に下がったのと入れ替わりで二人が部屋に入ってきた。
 そうそう、食事。〈御殿〉に暮らす貴人たちは普通主殿に隣接した大きな建物、公殿(くでん)の中にある食堂のような空間で食事を済ませるものらしい。しかし私はワケあり貴族の末裔(という設定)であるため、このように例外的に自室で食事をとらせていただいているという次第だ。何だろ、これって一応罰のつもりなのかな。公殿では頻繁に宴が開かれるそうなので、この待遇はそういった娯楽を禁止されていると取っても良いように思える。……ま、そんなことはどーでもいいんだけれどね。寧ろこの方が嬉しいし、私そもそも貴人じゃないし。
 因みに入浴に関してはこの部屋の隣にある個人用湯殿を主に使用するようになった。最初は風邪を引いているらしいということで公の場である湯殿堂に行くのを遠慮したためだったけれど、その後はそこはかとなく瑠璃さんに推されて使用するようになった。「貴人とはいえ、お前は異質」。前に聞いた「玩具にされる」とかいう脅しじみた話も多少影響している。それに瑠璃さんだけでなく、真澄さんまで便乗してきたし。黒梅は私に本来の貴人としての生活を送って欲しいみたいで最後まで渋面だったけれど、強くは反対してこなかった。黒梅ってただの付き人だと思っていたけれど、どうも違うような気がする。〈恭爺〉さん寄りの人なんじゃないかって最近ちょっと疑い気味だ。確証がないから、何とも言えないんだけれど。
「光お嬢様、お早うございますね」
 桃色おかっぱ頭の篠がそう言ったのを聞いて、私は嫌な事実に思い当たってしまった。瑞枝と、朝の挨拶をしていない。挨拶って結構大事なものだと思うんだけれどなぁ。ショックだ。
 気を取り直して。
「うん、おはよう。私どれくらい眠っていたかな?」
「ええと……、そうですね、ほぼいつも通り、でしょうか?」
「あ、そうなんだ。ちょうど一週間ぐらい前に三日連続で眠ってたことがあったでしょ?」
「はい」
「だから心配だったんだけれど、ならいいや。安心した」
「そうですか。ふふ」
 篠は顔立ちが狐っぽいというか、かなり釣り目気味なんだけれど、こうして笑うと凄く柔らかい印象に変わる。初めて対面した時はやっぱり緊張していたみたいで、笑顔なんてとても見せてはもらえなかったが、最近は色々な表情を見せてくれるようになった。
 寝込んでいた三日間を除いても、なんだかんだでこの世界に来てから二週間程が経過している。「もう二週間」が経っているのに、「まだ二週間」なのかとちょっと面食らってしまう感じだ。それってやっぱり〈紅蓮〉に来てから一日一日を長く感じているためだと思う。実際どうなんだろう? 私の主観的時間の問題なのか、本当にこの世界での一日が元の世界より長いのか。太陽の動きに合わせてせっせと働くここの人々の姿を見てからは腕時計に頼り過ぎるのは止めようと思い、前ほど神経質に覗かなくなったため最近は日の入りの時間の変化を確認できていないけれど、もしかしたらそのうちずれが生じてくるかもしれない。時計が刻む時間と、実際流れている時間との間に。
 なんて取り留めのないことを考えながら食べ進むのは行儀が悪いと見なされるらしい、ここでは。かなりのスローペースで食べている私を通りかかった瑞枝がどことなく怖い目でちらりと見た。そういえば私についている女官は四人だけれど、瑞枝は一人で行動していることが多いような。いや、常に一緒に行動したがる見習いの二人が特殊なのかもしれないけど。
 この部屋での食事は普段小棚の上に逆さまに置いてある卓袱台みたいな卓の上にて、茣蓙に座ってなされる。この茣蓙、……こう言うのは気が引けるが、あまり座り心地が良くない。そのため私は普段寝台に腰掛けることが多い。茣蓙に座るのは凡そ食事時のみだ。黒梅は時々困ったように見つめてくるが、咎めはしない。まあ教育係ではないからね。そんな人要らないけど。
 朝食後、篠に一言かけてから着替えを持って隣の浴室へと向かった。自分の行動を逐一把握されるというのはやはり息苦しいものがある。こういった些細な居心地の悪さを感じる瞬間に、元いた世界に帰りたいって気持ちが芽生える。一人きりになって周りを見回している時もそう。目に飛び込んでくるものの一つ一つが奇妙で、異質で、非日常的だ。反対に、〈紅蓮〉がある程度発展している国で良かったと思う点もある。お風呂やトイレの文化があること、水資源が豊富で尚且つ綺麗な水質であること、農耕や牧畜、建築、紙漉き、その他諸々の技術が確立していること、薬草の知識が普及していること。……そういえば学問については話を聞かないな。陽読み器、って時計のことだよね。ってことは天文学が存在しているのか? なら当然数学もある程度は発展しているのだろう。ここにも学者さんっているのかな。今度瑠璃さん辺りに訊いてみるか……いや、彼は地方出身の人だし、知らない可能性もあるな。そもそも学校という機関はあるのか。
 手の中で衣服用の洗剤にも似た粉末状の石鹸を泡立てつつ、ぼんやりと考えを巡らせた。自慢じゃないけど長湯は得意だ。最高で二時間半ぐらい入っていても逆上せなかったぞ。無論今のは自宅での話だ、〈御殿〉で試したわけではない。
 それに、まずは何より昨日のこと。
 夢じゃないんだよね。今泡だらけの手のひらを見つめてみても、特に変化は見受けられない。霊力って何なのだろう。瑠璃さんは、俺のように扱いに長けた者は気配のごとく感じることができるものだって言っていた。私にはそれが自分の体の中にあっても感じることはできない。それはやっぱり、扱いに慣れていないから? 現時点で私の中にある霊力ってどれくらいなのか、それも定かではない。目標はお姫様五人分。でも真澄さんに聞いた霊符の仕組みに関する話を照らし合わせて考えると、お姫様の霊力ってとんでもなく莫大なようなのだ。それを扱いを知らない、というか扱うことが出来ないこの私が受け取っても、大丈夫なのだろうか。
 ……っていうか、「お姫様」。
 これから「姫」って聞く度にお腹が痛くなりそうだ。今ちょっと思い出しただけでも鳩尾の辺りがシクシクとしてきたし。
 お姫様は麗燈さんで麗燈さんは鼠君で。
 ああ、混乱しそう。
 口外禁止だそうなので、肝に銘じておかなければならないな。


「真澄さん?」
 浴室から出ると、回廊にてばったりと真澄さんに出くわした。今日も作務衣みたいな小ざっぱりとした格好で、鮮やかな金色の髪を肩口でゆるく結わえている。すっかり見慣れた姿だ。寧ろ本業であるはずの〈影〉の彼を思い出せない。それぐらい、〈薬師〉としての彼といる時間が増えたということだろう。最近は呼び方も真澄さんで統一してしまったし。
 彼もこちらに気付くと少し早足になって近付いてきた。普通に歩いて来てくれて良いのに。
「光様、奇遇ですね」
「はい。おはようございます」
「お早うございます」
「うぬ……」
 やはり朝の挨拶は大切だな、と実感して思わず唸ってしまった。いかん、不審に思われる。
 そこではたと気付いた。そういえば、今朝は黒梅に会っていない。目覚めた先に黒梅、というのが最近の朝の一コマであったのに。
「あの、黒梅、知りませんか?」
 見上げつつ尋ねると、真澄さんはきょとんとする。
「さあ、存じ上げませんが……」
 私はそんな彼の顔をしばしじっと見つめた。本当に、知らないみたい……。
 おかしいな。隣の女官部屋には居ないみたいだったし。
 別の場所での仕事があるのだろうか? 瑠璃さんとか真澄さんのように掛け持ちの職業があるとか、その可能性もある。私以外の貴人(いやまあ私は貴人じゃないけど)のお世話もしているとか? 黒梅器用だからなぁ、彼女を欲しいと思う人はきっとたくさんいると思うのだ。
 真澄さんが首を傾げた。
「その黒梅が、何か?」
「いえ、大したことじゃないんです。気にしないで」
 誤魔化すように笑ったら、条件反射のように真澄さんも笑みを返してきた。〈影〉の黒装束を纏っている時は殆ど顔色が窺えないが、隠れているからと安心して気が抜け、もしかしたら普段より表情豊かになっているのではないかなんて考えるとちょっと面白い。真澄さん、元々表情が豊かだし。いや、瑠璃さんや瑞枝と比べてしまうと遥かにだが。
 今日は黒梅は不在、なのか。
 ……そうだ、本日の予定はどうなっているのだろう。
 私としては凪苑の未開の地を開拓……じゃなくて探索……いや、散策したいところではある。部屋に居ても暇なのだ。大体、〈恭爺〉さんに「貴人らしく」なんて言われた割にはそれっぽい生活を今まで送ってきていない気がする。「それらしく」と言っておきながら「自由にしていい」では矛盾しているぞ。私、どう時間を使えばいいのか本気で悩んで、ついには先日黒梅達のお手伝いを始めてしまったのだ、これからも時々やるつもりだけれどっ。「時々」であって「常に」ではないのは、私が手伝うことイコール彼女たちの仕事を奪うことにも繋がるためである。生々しい話になるが、自分が着た衣服(特に肌着系)の洗濯なんかは極力自分でやりたいし。まぁ、お掃除は私の趣味だから嬉々として手伝ったけれどね。その時貴族の女性と擦れ違ってまったく意に介されなかったのは言うまでもない。でもさ、上の理由以上に、出来るだけここの人達に恩返ししてから帰りたいっていうのも実はあるんだ。内緒だけれど。
 くそー、それにしても何故私がこんなに悩んで悩んで悩み抜いた挙句の果てにお掃除、洗濯などと異世界に来ておいてある意味とち狂っているとしか思えない行動を齷齪と始めねばならぬのか、それもこれもどれも全部、ぜーんぶ〈恭爺〉さんの放置プレイの所為だそうだろう。多少といわず多々憤慨しても許される気がするな。
 ……あ、そうだ。
「真澄さん、ちょっと」
 私は彼の袖を引っ張って部屋の中に連れ込んだ。うわ、連れ込んだって表現はちょっとヤだな。積極的な女の子みたいで。
 一応は通り道である回廊の途中で立ち話するのはどうなのか、と考えての行動である。部屋じゃなくても少し歩けば誰でも自由に使うことのできる客間みたいな空間があるにはあるのだが、何せ壁がないのだ。つまり、回廊から隔たれていない完全にオープンな開放的空間となっているのである。……実は他の人に出会いたくないっていう内心の閉塞的な声も主たる要因だったりするんだけれど、まぁそれは抜きにしても、まだ部屋の中の方がマシだろう。
「光様?」
 不思議そうに私の様子を見守る真澄さんを一先ず真ん中の比較的広い空間に放置し、私は隅の方に積んであった茣蓙を二つ掴んで戻った。これが完全にデリカシーの欠落した瑠璃さんだったなら何の迷いもなく一番座り心地の良さそうな場所(=寝台)に勝手に腰を下ろすところだが、相手は真澄さんだ、こちらが配慮して差し上げなければならない。そら見ろ、ちょっと照れたようにお礼を述べる彼のなんと純情なことか! 瑠璃さんめ覚えておくがいい、溜まりに溜まったデコピンの恨み、いつか晴らしてくれようぞ!
 と、話が脱線してしまったが、軌道修正だ。
 私も茣蓙に座り、改めて真澄さんと向かい合った。大して慣れてもいないのに、正座をして。
「その後〈恭爺〉さんの容態はどうなったんでしょうか?」
 ここ最近ずっと気がかりだったことを尋ねてみた。
 容態っていうと大袈裟に聞こえるかもしれないけれど、今日で彼が倒れてから実質一週間が経つわけで。やっぱり、ただの疲労とかそういう問題ではない気がする。
 重大な病気だったらどうしよう、なんて私は一丁前に心配しているのだ。
 どうなのだろうか。〈紅蓮〉の医療技術に関しては私自身が至って健康体なため関わる機会が少なく、把握しかねている。少し前に体調を崩していたことがあるけれど、それは「病気」のうちには入らない程度の軽いものだったわけだし。〈薬師〉である真澄さんの仕事ぶりを見る限りでは、患者の状態に見合った薬を調合して飲ませ後は安静にさせるのみ、といった具合だ。人体を切り開く手術の方途が普及しているとは考えにくい。でも、麻酔らしきものは存在するので、可能性はゼロではない。
「そうですね……」
 真澄さんが考え込むように目を伏せた。睫毛めっちゃ長い、なんてこんな時なのに胸を打たれたのは不覚だった。
 と、真澄さんが不意に顔を上げ、隣の女官部屋の方に視線を走らせる。どうしたんだろう?
 ……あ、もしかして。
 私は立ち上がって女官部屋へと続く戸を叩いた。控えめに。
「篠たち、いる?」
「はーい!」
 私の呼びかけに元気良く答えたのは篠だったが、戸を引いて顔を出したのは榛色の髪をした浅葱だった。やはり今日も彼女の瞳は潤んでいる。
「あの、どうかされましたか?」
 おろおろと困った様子で尋ねられ、まだ何を言ったわけでもないのに申し訳ない気持ちになってしまう。
「ええと……」
 真澄さんとの会話を聞かれちゃ不味いから消えて。
 などと単刀直入に言えるはずもなく、私は惑った。何と伝えるべきか。いや、ここはやはり私が出て行くべきなのだろう。
「真澄さんと、外に出てくるね」
「あ……左様ですか? 他の者にも伝えておきます」
「うん、お願い」
 私が頷くと、浅葱は眉尻を垂らしたままにこっと微笑んだ。……なんだろ、前からそれとなく感じてはいたけれど、この子の怯えた様子って「素」なのかな。そろそろ慣れるべきだろうか。
「というわけで、真澄さん。行きましょうか」
 とは言ったものの、私は彼の今日の予定を聞いていないのだった。
「ええ」
 ……良いのかな?
 なんて戸惑いつつ案じてしまったその頃の私は、まだちっともこの世界での暮らしに馴染めてはいなかったのだと思う。


 凪苑に蜘蛛の巣のごとく張り巡らされた砂利道のひとつを歩いた。
 初めは慣れなくて、よく何も無いところで躓いたものだ。砂利道だからというのもあるけど、何より沓がね。「靴」って表記はそぐわなくて、やっぱり「沓」って感じがする。和沓というべきなのかな。底面は何かの革で出来ていて、その他の部分は硬い布で作られている。変わった形だ。個人的には船首みたいだと思っていたりする。爪先の方にゆとりがあってバンドみたいな布を巻きつけて調整するらしいのだけれど、私にはやり方がよくわからなかったので、数日前に瑠璃さんに調節してもらった。瑠璃さん達の故郷である町から〈御殿〉に移動する間にこういった沓を履いている人って見掛けなかったから、もしかしていやもしかしなくても高級品なんじゃないかと踏んでいる。ということで、汚したり傷をつけたりしないよう気を配るあまり学校指定の革靴を履いている時に比べると歩みがかなり遅い。因みにその革靴は黒梅の管理のもと高校の制服と共に大切に保管されているので、心配は無用だ。目に付く場所に置いてあるあちらの世界の品といえば、最近は腕時計のみである。
 夕凪苑は本日も静穏としていて、人気がない。耳を澄ましてみても聴こえるのは私の足音と真澄さんの足音だけだ。砂利道だから、普通の道と違ってざくざくと音が鳴る。
 そうして少し歩いて主殿との距離をある程度設けたあとで、私は口を開いた。
「さっきの話の続きですけど、良いですか」
 何故だか若干遅れ気味に後を付いてくる真澄さんを振り返ると、はっとしたように彼が顔を上げたのが見えた。ちゃんと聴こえたかな?
「真澄さん?」
「ええ、……構いません」
 うーん、ストレート過ぎる言い方だったろうか。何か別の話題を先に振るべきだったかな。世間話とか。
 でも私、挨拶はともかく社交辞令とかご機嫌取りな言葉って苦手なのだ。言うのも言われるのも慣れていない。
「〈恭爺〉様のご体調についてでしたね」
 真澄さんが追いついてくるのを待って、再び歩き出す。
 真澄さんが一呼吸置いてから口を開いた。
「良くは、ありません」
 真澄さんがそう言うのだから、本当にそうなんだと思う。だって彼は〈薬師〉だもの……、元いた世界で言うところの、お医者さん。
「そうですか……」
 じゃあ軽い気持ちで私がお見舞いとかしたら迷惑だよね? ……他人だし。
 ちらりと隣の真澄さんを見上げると、視線に気付いたのか彼もこちらを見つめてきた。ん、思ったほど深刻な表情ではない、かな?
 真澄さんは前に向き直ってざくざくと小道を進んでいく。
「しかし、ご病気というわけでは。過労による虚脱症状が表れているのみですので」
「きょだつ……?」
「無気力の状態です」
「無気力って……」
 思い切り立ち入った話である自覚はあったけれど、聞かずにはいられない。それよりも今、〈恭爺〉さんの話をしている真澄さんの顔に憂いが浮かんでいないのが不思議で。もしかしたら彼が先程一瞬見せた憂色は別のことに向いているのではないか、なんて頭の片隅で思った。
 それにしても虚脱って、無気力って。何もする気が起きないってこと?
 それって、心の病気なの。
「いいえ。単純に、お疲れなのでしょう。本来姫が請け負うべき任までもお一人でこなしてこられたのですから。今まで平気だったことが奇跡なのです」
 真澄さんは、あの方も人の子ですから、と苦笑混じりに付け加える。そこまでコトを深刻に捉えていないらしき彼の様子を見ても、私は動悸が収まらなかった。だって。
 ――麗燈さん、サボっちゃ駄目じゃん!
 前にお姫様ってサボリ症なのか? なんて思ったことがあるけれど、ここまで事態が深刻だったとは。つまりこういうことだよね。麗燈さんサボる→〈恭爺〉さんの負担増える→〈恭爺〉さん過重労働→〈恭爺〉さん倒れる。
 駄目じゃん!
「真澄さんっ」
 私は思わずキッと隣にいる人物を睨みつけてしまった。いかん、彼は何も悪くないのだ。怒りのあまりつい。
「前にも話してくださったことがありますよね、守護軍を統括するのは本来は〈恭爺〉さんではなくてお姫様だって」
「え、ええ」
 真澄さんが私の怒涛の勢いに若干引いているが構っていられない。
「その理由は、ご存知ですか?」
「詳しくは私も存じ上げませんが、〈影〉の者の間で通っている話であれば」
「何ですか? 良かったら教えてください」
 即座に食い下がると、真澄さんは当惑しつつも答えてくれた。
「……『現〈穢れ姫〉様は特異なるお方であらせられるからして、ご自身の精通された御道に限りては極めて優れたり得るが、其の他の瑣末なる事物に至りては悉く御散漫でいらせられる』と」
 え……っと、それは一体誰の言葉なんだろうか。真澄さんではなさそうだが。
「つまり、霊力は凄いけどその他のことは全然駄目と」
 私の歯に衣着せぬ物言いに、真澄さんが動揺したように目を泳がせる。
「そのような……いえ、確かにそうなのですが……」
 真澄さん、もう結構、十分伝わったのだ。これ以上言ったら名誉毀損になってしまうだろう。……私は言うけど。
 思わず歩きながら腕組みをして考え込む。これは遺憾な事態、いや、〈恭爺〉さんの一大事。〈恭爺〉さんが元通り元気になって復帰できたとしても仕事量が変わらなければ元の木阿弥になってしまう。私に出来ることは無論少ないが、何とかならないものか。
 それにしても人って見かけによらない。昨日麗燈さんとお会いした時にはそんな、彼がご怠慢な性格の人だとは思いもしなかった。ただ人懐っこそうだなってくらいしか。いや、その前に鼠君として会った時にもなんて思い遣りのある出来た鼠なのだと感動したぐらいで、人として駄目な部分は全くと言っていいほど窺えなかったのに。
 ――待って、彼は本当にそうなのだろうか?
『〈恭爺〉というのは役職名で、元々は文字通り「恭しい爺」を指した。まあそんな余談はともかく、彼は実際どこまでも僕に忠実で献身的なんだよ。そう、自らを省みないほどにね。〈恭爺〉は僕の唯一の肉親でもあるんだ。ほら、少し似ているだろう?』
 昨日麗燈さんの話を聞いた時に抱いた、違和感の正体。
『彼は僕の言うことなら何でも聞く、必ず遂行しようとする。それが問題なんだ。彼は計画を完遂することにしか頭が回っていなくて、君の精神面までは考慮に入れていない。だから今のままではいずれ、きっと君に無理が生じてくる。たとえそうなったとしても〈恭爺〉は君のことを慮って計画を遅らせたりはしないだろう。僕としてはそれは避けたい。君のことは無事に元いた世界に帰してあげたい。そこで、今後は〈恭爺〉を介さぬ形で君に霊力を受け取ってもらいたいと考えているのだけれど、どうだろう?』
 私の精神面……、麗燈さんがそれを考えてくれているのは本当だと思う。たとえそれが計画遂行のためであったとしても。
 でも、〈恭爺〉さんを計画から除外するっていうくだりについてはどうなのか。私のことを気遣えないから? 口でそうは言っても、結局は〈恭爺〉さんの仕事を減らしているのだ。計画から除外するとは、つまりそういうことだろう。
 これはあくまでも私の憶測だけれど――麗燈さんは〈恭爺〉さんのことをちゃんと気遣っていて、だからこそこれ以上無理をさせないためにくだんの計画からは外れてもらったのだ。だって、唯一の肉親だ。麗燈さんとしてはそんなつもりじゃなく、「〈恭爺〉さん」が自分に献身的であるあまり周りに気を回せないんだってことを伝えるためにその事実を明かしたんだろうけれど、私は気付いてしまった。〈恭爺〉さんが麗燈さんを想うのと同じように、麗燈さんだって〈恭爺〉さんを想っているはずだと。それだけ「唯一の肉親」って言葉は第三者である私にも重く響いたのだ。
 だから余計、麗燈さんが本来自分がこなすべき仕事まで〈恭爺〉さんに押し付けているという事実には首を捻らずにいられない。何か理由があるのではないか、という考えに至る。
 理由。何だろう。
「……光様」
 ふと隣で聞こえた控えめな声に、私は我に返る。すっかり思考に沈み込んでいた。勿論隣にいる人物のことは完全に意識から除外して。
「座りましょうか」
 椅子を勧められ、私はいつの間にか到着していた東屋で休憩することにした。日陰に入ると一気に涼しくなる。石製の机と椅子はやはりひんやりとして冷たい。
 えっと、何だったっけ。そうだ、理由。お姫様がサボる理由……。
「……真澄さん」
「はい」
「〈影〉は〈恭爺〉さんの管轄で、守護軍はお姫様の管轄?」
「ええ、本来ならば」
「守護軍は、〈魔羅〉との戦闘が主」
「戦闘……、私共は討伐と申しますが」
「そうですか、討伐。……ということはお姫様ももしかして戦うことがあったり?」
「いえ、直接はございません」
「では間接的に?」
「そうですね。霊符の強化は普段からされておいでですが……」
「……他に何かあります?」
「浄化、でしょうか」
「……浄化?」
 初めて聞く単語に私は思わず怪訝な声を上げてしまった。肘を付いて頭を支える体勢をやめて、真澄さんの方を向く。
「穢れの浄化です」
「穢れの……?」
「――ああ、そうでした。光様」
「はい?」
「以前、〈魔羅〉に襲われたことがあるとおっしゃっていましたね」
「……思い出したくない……」
「そう言わずに」
 真澄さんいきなり酷過ぎる、と私は涙目になった。忘れ去りたい夜なのに。
「瑠璃が戦う姿をご覧になりませんでしたか?」
「そりゃ、嫌でも見ましたけど……」
「青い炎も?」
「え……、あ」
 思い出したくはないが、確か〈魔羅〉にとどめをさしたのは瑠璃さんの不可思議な呪文によって生じた青い炎だった、ような。
「私も世の全ての理を存じているわけではございませんが……、ずっと昔、学庭(がくてい)にて教わったことがあります」
 多分、真澄さんが言った「学庭」っていうのは学校のことなんじゃないかな。もしくは昔の日本でいう、塾。
 真澄さんが一度、ゆっくりと瞬いた。
「――〈魔羅〉とは、人の穢れの権化」
 凛とした声で落とされた言葉に、私は息を呑む。今……、核心に触れたのだろうか。視界が一瞬ぶれる。
「いつの世から存在するのか定かではないが、人がこの世に在る限り、かの修羅が滅ぶことはないと。寧ろ、人の世が栄華を極めるほどに〈魔羅〉はその勢力を増し、牙を剥く」
 心臓がうるさい。なんだか瞬きまで上手くできなくなってきた。待って欲しい……、じゃあ、今これだけ発展している〈紅蓮〉は……?
「光様、真の意味で〈魔羅〉を滅することは叶いません。穢れはこの身の中にあるのだから」
 そう言うと真澄さんが自分の胸の中心に手を置いてみせた。私も思わず自分のそこへ手を当てる。穢れ。
 ……ああ、どこかで聞いたニュアンスだと思ったら、そういえばお姫様の正式名称が〈穢れ姫〉なのだった。
 そんなことを思っていると、真澄さんが胸の中心に手を置いたまま続ける。
「そして誰より多くの穢れを抱えたのが、我らが姫」
 え、と硬直する。
 それで、〈穢れ姫〉と?
 その時、まさかって思った。でも、私の「まさか」は大抵当たる。
「守護軍に籍を置く者は数日に一度、〈魔羅〉による穢れを払うために姫の元を訪れます。姫がその類稀なる呪術によって穢れを取り除くことを、浄化と言うのです」
「取り除くって……」
「御身の中に取り込むのですよ」
「……穢れを?」
「ええ」
 ぞっとした。取り込む? 自分の、体の中に。
 「穢れ」が具体的に何なのか、よく解らないけれど。
 でも、それで〈穢れ姫〉と呼ばれているのだとしたらなんだか……惨い気がする。
「浄化……、それも、お姫様の仕事のひとつ」
 胸が苦しくなってきたけれど、私は必死に考えを巡らせた。どんなに痛みを伴っても考えなければならないことがある。
 〈紅蓮〉は、発展している。
 上水道もあれば下水道もある、川に直接汚物を流すようなことはない。それに先程の真澄さんの話から学校があることもわかった。天文学も進んでいる。食べ物も十分にある……。
「ねえ、真澄さん」
「はい。……お顔色が、悪いようですが?」
「いいんです。あの、〈魔羅〉による被害はこの数年でどれくらいでしょうか」
「少なくはありませんね」
「増えて、いますか?」
「わかりません。ただ……」
「ただ?」
「私の妹は……」
「あ、結構です。不躾なことを言いました」
「……いいえ」
 顔を両手で覆い、外界を遮断した。考えなければ。まだ答えは出ていない。
 間違いないだろう。〈魔羅〉は徐々にその勢力を拡大している――
 守護軍を統括するのは〈穢れ姫〉だ。守護軍は、〈魔羅〉討伐を任とする。ということはだ、守護軍の仕事は年々ハードになっているのではないか。〈魔羅〉は増えてきているんだから。
 当然、その守護軍を間接的に援護する〈穢れ姫〉の負担も増えてくるはずだ。ならば。
 「〈穢れ姫〉である麗燈さんにしか出来ない」以外の仕事が〈恭爺〉さんに回ってきても、不思議はない。
 ああ、それで、……。
「〈恭爺〉さんが、倒れて……」
 どうなる?
「――あ」
 霊力貸与。
 なんで?
 昨日は、どうして急に。
「ま、すみさん」
「光様……っ?」
 どうしよう、どうしよう。心臓が壊れてしまいそう。心が決壊してしまいそう。
 支えがないと足元から崩れ落ちそうで、怖くて、私は真澄さんに掴まった。真澄さんは瞠目しながらも咄嗟という感じで私の両腕に手を添えて支えてくれた。脅かしてごめんなさい。
「私、馬鹿すぎる」
 真澄さんの衣をぎゅっと握る両手が震えて、しかも氷みたいに冷たかった。
「そんなことはございません、お気を確かに。いかがなさったのです」
「もっと早くによく考えなきゃいけなかった……!」
「光様」
「どうしよう」
 今にも泣きそうなくらい心細いのに、涙は一向に出てこない。なけなしの理性が留めてくれているのか、それとも単に意地なのか。あるいは私に泣く権利など無いのか。
「私、〈紅蓮〉の皆さんに謝らないといけない」
「何故です? ……光様、落ち着いてください」
 あんまり私に聞き分けがなくて痺れを切らしたのか、真澄さんの片手が頬にあてがわれた。目を合わせるためなんだろうけれど、その時の私は焦点が合っていなかった。真澄さんが息を呑んだ。
 だって、ねえ。
 取り乱すのも仕方がないと思うのだ。
 何故なら私は昨日、麗燈さんから霊力を受け取った。
 結界を破壊する目的はわからないし、この際そんなことは関係ない。大事なのは今だ。
 要するに。
 ――〈魔羅〉の大量発生で〈穢れ姫〉の力が超必要なこの時期に、私はその大切な力を奪ってしまった。
 どうしよう。被害が出てからでは遅い。どうしたら。
 これ、返せないだろうか。霊力。
 ああ麗燈さん酷い、どうして「今」なの。
 結界とか知らない。壊すことで何が起こるのかなんて想像もできないし、それが良いことなのか悪いことなのかも判断できない。〈恭爺〉さんが言ったような大昔の霊術師たちの裏切りの話も知らない。知らない――けど、でも。
 今もし〈魔羅〉の所為で誰かが傷付くようなことがあれば……、そしてそのほんの一部でも私が麗燈さんから霊力を受け取ったことに原因が潜んでいるのだとしたら、耐えられない!



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