第二幕:11



「……あれ?」
 間抜けな声が出る。と同時に、思い切り入っていた肩の力も完全に抜け落ちる。
 ええと。
 しばし混乱して頭の中が真っ白になったが――やがて一つの答えに辿り着いた。
 あ、そうか。
 お頭が案内する部屋を間違えたんだ。
「失礼しました」
 部屋の様子を確認するより先にそう言って回廊に出ようと背を向けると、背後からこんな言葉がかけられた。
「いきなりトイレかい?」
 と。
 ……といれ? 〈紅蓮〉の人って基本的にカタカナ語というかあちらの世界で言うところの外来語って通じないはずなんだけれど。……その前にどこかで聞いたような声だな。
 私は当然、トイレに行くつもりなどではなかったので、そのことについて弁明するためにも再度部屋にいる男性の方を向いた。
 赤い。
 見間違いでも目の錯覚でもなく、確かに赤い。
 いや、赤い、なんてものではない。赤過ぎる。目がちかちかするようなビビッドな色合いの髪。さらにはその瞳までもがどうしようもなく真っ赤だった。見とれるっていうか、凝視してしまう。めちゃめちゃ派手だ。肌が白いこともあってか一層赤が映える。そんなとんでもない色彩に反して顔立ちはどちらかといえば大人しく、あまり印象には残らない感じだった。ただし、にこにこと愛想たっぷりに笑っているためか人懐っこそうに見えて好印象ではある。年齢は、どれくらいなんだろう。若い。もしかしたら私と同い年くらい? 背は瑠璃さんほどではないけれど、高そうだ。着ている衣はこれまた煌びやかというかド派手というか、ピンクの地に金色の蝶の刺繍があしらわれた物で……ってあれ、なんだか激しく誰かを髣髴とさせるな。誰だっけ。とにかく、この人を見ていると目が痛くなるっていうくらいに全体的に派手で、派手で、派手だった。
 そんな彼の存在に対し部屋は平凡で、私にあてがわれた部屋と大差なかった。ただし広さは倍くらいある。それから、向かい合わせに設置されたソファみたいな家具が二つあって、この部屋の主は現在進行形でその片方に深く腰掛けている状態だ。
「えっ、と……?」
 自らが置かれた異様な状況に思い切り引き攣って言葉に詰まっていると、真っ赤な髪の彼に手招きされた。えええええ、何?
「トイレじゃないなら、座りなよ」
「いやあの……、私、部屋を間違えて」
「間違えてないよ、光」
「はい!?」
 私はびくっと肩を揺らし、胸の前で腕を構えて大仰に硬直した。何故名前をってところには今更驚かないけれど、間違えてないとはどういうことだ。
 待って、落ち着こう。
 私は何をしに来たのだったか。
 ……そうだ、お姫様とのご対面。
 でも、目の前の赤髪の人物はたった今、部屋を間違えていないと言った。言い切った。
 えええええ。混乱してきたんだけど!?
「光、会いたかったよ。ほら、とにかくまずは座って。話ができないだろう?」
 え、と、とりあえず部屋は間違えていない? なんだかよくわからないが、従うか??
 まずは落ち着きたかったこともあり、赤髪の人物の向かい側の疑似ソファに腰掛ける。ふわっふわだ。
 そんなこんなで私が魂を飛ばしているうちに彼がお茶を用意してくれて、私は動揺しつつなんとか湯飲みを受け取った。この辺は完全に和風だ、なんてどうでもいいことに気付いたり気付かなかったり。ほうじ茶かな。香ばしいにおいがする。
「さすがに気付かないかなぁ……」
 席に戻った彼がそう呟き、頬杖をついて私をじっと見つめた。機嫌良さげに笑っているところ申し訳ないが、確かにどこかで聞いた声だとは思ってもはっきり「誰」というところまでは出てこない。どうしたものか。
「ごめんなさい。……えーと、これはほうじ茶ですか?」
 居た堪れなくなってつい話を逸らしてしまう。
「んー? それは、」
 答えかけて不意に言葉を切った赤髪の青年は、一瞬何かを思案するように目線を下に落とした。再び私の方を見ると、何故かふふっと楽しげに笑う。なんだ?
「それはほうじ茶ではなくて麦茶だよ。君は間違いが多いね。前は鷲を鷹と間違えていたし」
「…………え」
 五秒間、私は瞬きを止めて目の前の人物を凝視した。
 で、五秒後。
 見事手に持っていた湯飲みを取り落とし、中に入ったほうじ茶ならぬ麦茶を余すことなく零してしまったのだが――許して欲しい。


 鼠君?
 確かに言われてみれば鼠君の声に聞こえなくもない、が……。
「手が止まっているよ」
「あ、すみません」
 指摘されて布巾を動かす手が止まっている事に気付き、慌てて作業を再開する。先程赤髪の青年があまりにショックな発言をしたので驚いて床にお茶をぶちまけてしまったのだが、零したのは君なんだから責任を持って君が拭きなさいと彼に尤もなことを指摘されつつ布巾を手渡され、今に至る。返す言葉も無く大人しく床を拭きながらやはり私の脳内は大混乱の真っ只中だ。鼠君だって? いやいやいやそんな馬鹿な……。それにしてもこの床、私にあてがわれた部屋と同様見た目はフローリングなのだが、ワックス(〈紅蓮〉でいうと植物油か?)は塗られていないらしくお茶が染み込んで仕方がない。乾いた布巾をぎゅっぎゅっと押し付けてみるけれど、中々綺麗にならない。弁償できないのにどうしよう……と私の心は徐々に仄暗く染まりつつあった。だって私、なんてったって一文無しだからさ。
 落ち込みながらもしつこく拭いていたら、ふと頭上が翳った。赤髪の青年――鼠君候補が覗き込んだようだ。
「うん、そのくらいでいいよ」
 言葉と共に手に持っていた布巾を取り上げられてしまった。あーどうしよう今顔を合わせるのはすごく気まずいんだけど。
「さて」
 席に戻り、改めて向かい合った。
 私は緊張しつつも、というか寧ろ緊張の反動なのかもしれないけれど……、目の前の人物のことを注視した。声は鼠君そのものだ。でも、彼は。
 ……彼は?
 そこで虚を突かれた気分になった。
 私は鼠君のことを、何も知らない。
 数日前まで、彼は〈魔羅〉かもしれないなんて疑惑を持っていたぐらいだ。いや、今でさえそう思っている。混乱もあるけれど、実はそれ以上に先程から胸を占めているのは――ほかでもなく、得体の知れない恐怖だった。わからない、という事実は何より恐ろしいものだ。
 彼は何者なのだろう? 鼠であったり鷲であったり、かと思えば今度は人間だなんて。〈紅蓮〉に来てから超次元的な体験を何度かしてはいるけれど、これはどうも解せない。現実味がない。だってこうして向かい合っていても、彼は普通の人間に見えるわけで。……いや、容姿と服装は奇妙奇怪奇抜極まりないが。
 混乱しつつ凝視する私の瞳に内心の声が現れて見えたのか、鼠君候補の彼は困ったような笑みを浮かべた。私も困っているが同じくらい彼も困っているようだった。どうして。
「色々と疑問はあるだろうけれど、時間が無いんだ。僕の話を聞いて欲しい」
 時間が無い? 鼠君はそういえば会う度時間に追われていた気がする。私の必死の引きとめを二度も躱して行ってしまったなんとも食えぬ男なのだ。いや、男だよね? うん。
「遅くなったけれど、まずは自己紹介しよう。僕は麗燈(れいひ)という。生粋の貴人ではないから、そう畏まらなくていい」
 麗燈さんか。何を言う、「生粋ではないが貴人」には変わりないんじゃないか。鼠・鷲の姿だった時には人外の存在だとばかり思っていたためタメ口で話してしまったが、人とわかった以上は敬語で応接させていただく。年上には極力敬語、年上じゃなくても一定の距離を保って接さねばならない相手には敬語。うん、中学時代から守り続けている私のポリシーだ。
 ……なんて脱線したことを考える余裕があるならもっと彼の話に集中しろって話だよね。
「突然のことで驚いただろうね。僕としても、君とはまだ当分の間は会わないつもりだった。というより、とてもそんな時間は作れないと思っていたんだ。でも、ほら、先のことがあっただろう?」
 先のこと? 何の話だ。本気でわからず考えあぐねる。
 一人首を捻って、麗燈さんが事もなげに放った次の言葉で私は驚愕した。
「〈恭爺〉が、倒れただろう?」
 聞き慣れない呼び捨てであったため、一瞬頭の中でその単語を処理することができなかった。
「〈恭爺〉……さん? が、え? 倒れたって!?」
 身を乗り出す私に対し、麗燈さんは飄々と答える。
「瑠璃辺りから聞いてなかったかな? 〈恭爺〉ったら執務中に卒倒したんだよ」
 あれこの人瑠璃とか言わなかったか、いや今はそれよりも。
「卒倒って、ぶっ倒れたってことですか……?」
「そう、ぶったおれた」
「そんな……そんな話聞いてない、今日だって〈恭爺〉さんのこと話題に挙げたけど、瑠璃さん何も言ってなかったし、っていうか瑠璃さんはそもそもあまり〈恭爺〉さんとは繋がりがないはずで……」
 頭を抱えた。嫌な汗とともにいよいよ私の思考は迷走し始める。わからないことだらけだ。少しはここでの生活に慣れたつもりでいたのに、今は何もかもがわからない。
 答えが欲しくて顔を上げると、申し訳なさそうな表情の麗燈さんと視線が絡んだ。この人は――一体誰?
「普段の僕は〈恭爺〉に見張られていて、自由に身動きが取れない」
 え、と目を剥く。今度は何の話? ……あ、麗燈さん自身に関する話か。
「そのままでは君に会いに行くことが出来なかったんだ。だから、獣の姿をとった」
 ハイ? という感じだ。もう、なんていうかついていけない。
「とった、ではないな。とり憑いた。肉体はそのままに、思念だけを器となる獣へと移して、君に会いに向かった。思ったよりも獣の体はそぐわなくて、確認くらいしか出来なかったけれど」
 麗燈さんはそこで思い出したように口元に笑みを浮かべた。人を安心させる整った綺麗な微笑だ。……この辺は少しだけ菩提さんを思わせる。顔立ちは似ていないけれど、雰囲気とか表情の作り方がそっくりなのだ。
「一度目は確認、では二度目はというと、これは単に君の様子が気がかりだったから。初めて会ったとき元気が無かったのに、そんな状態でまた慣れない環境へと押し込まれたりして辟易しているんじゃないかと心配だった。案の定、君は体調を崩したね?」
「え……それは、」
「ストレスだよ」
「……あの、その単語」
「僕は君の世界のことを知っているんだ。ほんの一部だけれど」
「そ、うですか……」
 そういえば、私が投じられたのが異世界で、君はトリップをしたんだよって教えてくれたのは彼だった。
 ……なんだろ、胸が苦しくなってきた。
「ねえ。ちゃんと、直接、謝りたかった」
 ぶれる視界の中でぺこりと真っ赤な頭が下げられたのを、私は確かに見た。こんなふうに同世代の人に深く頭を下げられた経験など生まれてこの方一度もなかったので激しく動揺したけれど、それ以上に息が詰まって、目の奥がじわりと熱くなった。駄目だ、今ここでこの感覚は。弱い自分が許せない。
「ごめんね。君をこんなことに巻き込んで」
 必死で堪えたつもりだったのに、その瞬間私の涙腺は崩壊した。もう否定できない、私、かなりの泣き虫なんだ。
 彼が私の隣に移動してきた。何事かと思って一瞬涙が引きかけたが、ぎこちなく頭を撫でられ、また新たに涙が溢れる。もう隣にいる人の正体とかどーでもいい、なんて浅はかにも思ったりした。やっぱり鼠君は優しくて、気遣いのできる人だ。多分、ヒトだ。人類だ。
 なんでこんなに泣けてくるのか一部冷静な頭の片隅では疑問だったが、もういいや。覆水盆に返らずっていうじゃないか、多分アレと同じだって、なんて投げ遣りな言い訳さえもが浮かぶ。
「あー……あのさ、光……」
 ぐすぐすと鼻を啜っていると、彼が私の頭を撫でる手を止め、なんとも歯切れ悪く呼びかけてきた。若干の嫌な予感を覚えつつ涙に潤んだ目を上げると、返ってきたのは案の定不穏なお言葉で。
「まだ一つ大事な前置きを君にしていないのだけれど」
 ここで一発、「何でしょう?」とすぐさま聞き返せたら勇者だが、残念ながら私は違う。まだ落涙の余韻が残っているし……、ああもう、ほんと自分って情けないなと嫌気が差してくる。
 麗燈さんが一呼吸置いてから口を開いた。
 私の目を、じっと見て。
「落ち着いて聞いてね。――僕が、当代の〈穢れ姫〉なんだ」
 その瞬間私の涙は引っ込み、色んな意味で理性が崩壊した。


 もう何だというのだろう。どう反応せよと。嘆き悲しむのも違うし、怒り狂うのも見当違いな気がする。ただそのどちらの反応をしてもおかしくないほどに衝撃を受けている、という事実は確かだ。
 先程彼が頭を下げた時、どうして鼠君こと麗燈さんが私に謝る必要があるのだろうと不思議には思っていた。でもそれは彼がお姫様と親しい間柄にある人物であるためなのではないかと勝手に推測し、そしてその解釈に自分で勝手に納得してしまったので、大して気にならなかったのだ。
 ああ待って欲しい、時間が欲しい。とは思っても実際には麗燈さんに時間は無いらしいじゃないか。時間が無いと聞くと余計に焦ってまともな思考が働かない。
「麗燈さんが、お姫様……」
 放心したまま呟くと、「お姫様」という単語に麗燈さんが「え」と引き攣った。
「麗燈さんは……」
「うん?」
「女性なんですか」
「まさか」
「ですよね……」
 やば、また混乱する。私は両手でこめかみの辺りを押さえた。ええと、ええと。もっとちゃんと考えなきゃ。なんで彼がお姫様? どう見ても男性だ。性転換でもしたというのか。そんな現実ってナイ。いや、性転換自体は悪くないのだ。問題は彼がこの国の最高権力者であることであって、ええと、だから……。
「光、ごめん。時間が無いからその話はまた今度にして、本題に入らせてくれないかな」
「……えと、ど、どうぞ?」
 その頃には私の涙はすっかり引っ込んでいたので、麗燈さん(お姫様って呼ぶべきなのか?)は向かいの席へと戻っていった。
 考えても混乱するだけならもう考えることはやめにして、今は彼の話に集中しようか?
 腹を括った私は背筋を伸ばして座り直す。麗燈さんは落ち着いた様子でゆったりと深く腰掛けていた。
「今後の方針についてなんだけれど――」
 それから彼が聞かせた話は私が思うような「そもそも」な内容ではなかった。


 彼の話はこうだ。
 〈恭爺〉というのは役職名で、元々は文字通り「恭しい爺」を指した。まあそんな余談はともかく、彼は実際どこまでも僕に忠実で献身的なんだよ。そう、自らを省みないほどにね。〈恭爺〉は僕の唯一の肉親でもあるんだ。ほら、少し似ているだろう? え、全然見えない? まあいいけれど。実は今回の計画は当初は僕一人で実行するはずだったんだ。それがひょんなことで彼にばれてしまい、協力してもらうことになった。彼は僕の言うことなら何でも聞く、必ず遂行しようとする。それが問題なんだ。彼は計画を完遂することにしか頭が回っていなくて、君の精神面までは考慮に入れていない。だから今のままではいずれ、きっと君に無理が生じてくる。たとえそうなったとしても〈恭爺〉は君のことを慮って計画を遅らせたりはしないだろう。僕としてはそれは避けたい。君のことは無事に元いた世界に帰してあげたい。そこで、今後は〈恭爺〉を介さぬ形で君に霊力を受け取ってもらいたいと考えているのだけれど、どうだろう?
 うぬ……早口に一挙に言われ混乱気味だが、要するに彼はこの計画から〈恭爺〉さんを除外したいと。
「どう、と言われましても」
 としか私は言葉が返せなかった。それこそ私に拒否権など無いではないか。
 それに、彼の話に幾つか首を捻りたい箇所もあった。〈恭爺〉さんって本当にそんな気遣いの出来ない人なのか。そんなふうに盲目的に誰かに仕えるようなミーハー的部分があるのか、等等。確かに腹黒いとは思うが……いつだったか寒さに震える私に上着を貸してくれようとしたのも、体調不良の私の元を訪れて一応、多分、一番心配してくれたのも彼だし。それとこれとは別、と言われてしまえばそれまでなんだけれど。ああやはりこんなふうに考えてしまう私って甘いんだろうか。世間の荒波に無様に呑まれて修正不可能なほどボロボロになる駄目なタイプ? 世渡り下手??
 腕を組み、眉間に皺を寄せて深刻に悩んでいると、唐突に軽やかな感じの笑い声が響いた。……もう、麗燈さんたら思ったより暢気なのだ。仮にも一国の主である人間がそんなことでいいのか? と真剣に懸念せずにはいられない。
「はは、ごめんごめん。君のその顔を見ていたらいつかの〈恭爺〉を思い出して」
 失礼な。私に腹黒星から来た腹黒星人である〈恭爺〉さんの面影を見ただと。ありえぬ。
 ちょっと憤慨しつつ見返すと麗燈さんはようやく笑い止んだ。といっても口元には変わらず笑みが刻まれている。笑い上戸なのか。鼠君の時には気付けなかった事実だ。
「うん、そういうわけだから光」
 そういうわけってどういうわけなのだ、前後の脈絡とか前置き的なモノはどこへ置いてきた、そんなモノは綺麗さっぱり捨て去ったとでもいうのか。
「受け取ってくれるかな?」
 あ、そういうこと。
 さっそくとは思わなかったため緊張してきた。また薬を飲まされて眠らされるのかと身構えたためだ。
「どうしたの? ほら、こっちに来て」
 む、どうやら薬を飲まされるような気配はないな。彼はそのまま私に霊力を受け渡すつもりらしい。
 おずおずと近付き、足元にしゃがみ込んで彼を見上げた。いやうん、隣に座らなかったのはなんとなく気恥ずかしかったからで……、私だって一応オトシゴロなのだ。と片言で表したらなんだか「落とし頃」みたいになったけれど、「お年頃」の間違いだ。勘違いしちゃいけない。
 霊力貸与の儀式の前に、幾つか確認すべき点がある。
「あの、〈恭爺〉さんが言っていたんですけど」
「ん?」
「えっと……覚醒時に霊力を譲り渡した場合、拒絶反応が起こる可能性があるって」
「なにそれ」
 ふっと麗燈さんが笑った。あれ? まさか、その話って嘘。
 マジで。
 床に正座してソファの上の彼を見上げている今の私の表情、この上なく情けないと思う。
「ああ、〈恭爺〉にそうやって脅されたんだね。大丈夫、作り話だよ」
 臓器移植じゃないんだからさ、と彼がさもおかしそうに笑って言う。私と似たような感想だ。さすが私の世界のことを知っているだけはあるな。
「ですよね……」
 それにしても騙されていたのか自分。平然と騙る〈恭爺〉さんに対して呆れる気持ちもあるのに、それと同じくらいショックだった。……少しだけだ。
 意気消沈していると、うーん、と麗燈さんが顎に手を遣り、どこか遠くを見つめるような目をした。
「僕の顔を見せないようにしたことなんだろうけれど」
「え? そう、なんですか」
 だからって眠らせるとか犯罪紛い過ぎて納得できないのだが。私もちょっと遠い目をしてしまった。
「うん。だって僕、男だし」
「……?」
 それは見ればわかるが、どういう意味なのだろう。
 彼は意味深長に笑うだけでその台詞の意味を教えてはくれなかった。どことなく頑なな気配を感じ、私も深くは追求できなかった。
「あの……」
「まだ何かあるの。いいよ、なに?」
「呪術円的なモノは用意しないんですか。血の色の蝋燭とか」
「なに、それ……」
 またも麗燈さんが噴き出す。くっそぉぉぉ、また〈恭爺〉さんに騙されていた!
「なんでそんなことをしようと思ったんだろうね?」
 麗燈さんがあまりに不思議そうに言うので私はポカンとしてしまった。私に〈恭爺〉さんの思惑なんて理解できるはずがないじゃないか。
「あの子、昔からそうなんだ。聡明なのに時々生産性のない意味不明なことを真剣な顔でやったりする。そういうときの〈恭爺〉は、僕には理解できなかった」
 変なことをする〈恭爺〉さん…………うーん、ちょっと想像できないかも。腹黒いイメージの方が強くて、一生懸命無駄な努力をする必死な姿は思い浮かばない。
「他に何か言われていない?」
「えーと……まだありそうですけど、まあはい、多分」
 少し考えを巡らせてから曖昧に答えると、麗燈さんが口元に手を遣ってくすくすと笑った。盛大に毒気を抜かれるほど無邪気な笑顔なんだけれど、一体彼は何歳なのだろう。やはり、同年代なのか?
「そっか。……じゃあ、はい」
「?」
 彼に急に両手を差し出された私は困惑する。疑問符を浮かべて見上げると、手、繋ごう、と言われた。不覚にもどきっとした。くそ、何なのだ。いや、霊力貸与の儀式なんだろうけれど。
「こうですか」
 自棄気味に手を伸ばすと、軽く掴んで引き寄せられた。
「うん、こんな感じ」
 指と指を絡めるようにしてしっかりと繋ぎ合わされ、複雑な気分になる。内心様々な思いが渦巻く中、私は平静を装いつつじっと繋いだ両手を見つめた。子供と大人の手みたいだ。……あ、今の自分で思って自分で落ち込んだ。さいあく。
 と、触れてしばらくは非常に落ち着かなかったのだけれど。
「……なんだか徐々に温かくなってきてません?」
「そう? そうだね、そういえばそうかも」
 私の戸惑いを含んだ言葉に、麗燈さんが愉しそうに笑った。……あ、違うかもしれない。そう見えるように笑っているだけで、実際は集中しているのかも。だって目はとても真摯な色を乗せて、少し伏せがちになっているのだ。
「…………」
 霊力、というものが何なのか実際のところはよくわからないのだけれど。なんだか今は温かいような気がする。それに、段々眠くなってきた。不思議。
「眠ってもいいよ」
 余程眠そうに見えたのか、麗燈さんに優しく諭すように言われたが、いやいや。この状態でどうせよと。
 ぱちぱちと何度も必死で瞬きした。ああ瞼が鉛のように重い。何故だ。疲れているからなのか、流れ込んできた彼の霊力によるものなのか。温かく、日溜りに包まれるような感覚で。
「ん、こんなものかな」
 いつまでこうしていればいいのだろう、と曖昧な意識の中で疑問を抱き始めた頃、彼が唐突にそう告げて手を離した。
「どうだろう?」
「…………」
「急に気分が悪くなったとか、どこか痛いとか、そういうことはない?」
「……あ、大丈夫です」
 ぼんやりとした目のまま答えると、彼は満足そうに笑って頷いた。……終わったのか?
 じいぃっと食い入るように自分の手のひらを見つめてみた。別になんともない。手どころか体中のどこにも異常は感じない。ただ、激しく眠いが。
 床にぺたんと座り込んだまま放心していると、不意に麗燈さんがぱんっと手を叩いた。びっくりして思わず肩が跳ねる。と、その直後に部屋の戸が開き、中に〈影〉の人が入ってきた。多分お頭だ。
 麗燈さんがにっこりとお頭に笑いかけたのが見えた。……あれ? なんだろ、二人は仲良しなのかな、なんて眠い所為かかなりピントの外れたことを考える。
「さ、部屋まで丁重にお連れして」
「はい」
「途中で眠ってしまうかもしれないから、気をつけてよく見てあげて」
「承知致しました」
 ぼうっと顔を上げたら、いつの間にかすぐ側までやって来ていたお頭がこちらへ向けて真っ黒な手を伸ばしてきたところだった。自力で立てる、と言いたいところだがまるで腰が抜けてしまったかのように力が入らず、無理そうだ。
「光様、参りましょう。――立てますか?」
 無言で見返しただけだったけれどそれで私の状態を理解したらしく、お頭が私の二の腕を掴んで一息に引っ張り上げた。強い力だったのにも関わらず、腕に痛みは走らなかった。特殊な力の入れ方をしたのかな。何せ〈影〉の人だし、そういうことに関してはプロっぽい。
「光、それではね。また呼ぶから、それまではよく休んでおいで」
 麗燈さんがひらひらと手を振りながら最後にそんなことを言った。なんか、違和感。……あ、そうか。国のトップっていう割に彼があまりに平凡というか、威厳を発していないので、調子が狂うのだ。
 麗燈さんの明るい笑顔を最後に、私とお頭は部屋を後にした。
 当初の要望である「〈紅蓮〉を覆う結界を壊す目的を教えてもらうこと」は叶わなかったが、彼が自ら口にした「君のことは無事に元いた世界に帰してあげたい」という言葉で私は十分に満足感を得ることができた。私を帰してくれる気がそれだけしっかりとあるならとりあえずはまぁいいか、なんてその時は暢気にも思ったのである。自分が関与する計画の目的をきちんと知りたいという気持ちと、家に帰りたいという気持ち、どちらも胸を押し潰すくらいに強くて、簡単に優先順位をつけることなんて出来ない。知らないまま実行して帰った場合は後悔が残るだろうし、知ったことにより帰れない事態になっても非常に困る。一番良いのは私が役目なんて果たさなくても無償で帰してもらえるってことなんだけれど、それはどう考えても無理そうだし、私としても気が引けてしまう。結局今出来るのは、影でこっそりと情報収集しつつ与えられた役目もしっかりと果たし、無事帰れるように「保証」を作っておくことぐらいなのだ。今はそれしかない。
 考えを整理するうちにも瞼がしつこく下りてきて、同時に私の歩みも減速していった。
 麗燈さんの部屋を出て間もなく、私はついに回廊の途中で立ち止まった。
「光様?」
 行きと違いわざわざ並んで歩いてくれていたお頭が私の顔を覗き込んでくる。闇の中にいるためかなんだかその黒いシルエットが膨張して見えた。
 ああ、駄目だ。
 限界。
 普段覚醒時に意識というものが頭蓋の中に大切に仕舞われているとすると、その時私の頭の中には後ろからずぼっと透明な手が突っ込まれて無理矢理にそれが引きずり出されたのだと思う。それぐらい抗う暇もなく、私の体は糸の切れた操り人形のごとくその場に崩れていった。
 お頭の服だか闇の暗さだか判別のつかない黒を最後に、暗転。



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