第二幕:10



 それから数日は安穏に過ぎていった。
 どのように安穏かというと、悪代官……ではないが私の今後を一人掌握している〈恭爺〉さんとの対面が、ここ数日の間はなかったのだ。こっそりと真澄さんに教えてもらった話によると、〈恭爺〉さんはここ最近体調を崩しているんだとか。そのため私のお役目も一時的に免除されることとなった。私も体調不良気味だったので、これは助かった。おかげですっかり元気を取り戻せたし、黒梅を初め私の世話を焼いてくれている人々との親交を深めることが……できたのかどうかは私が勝手に判断して良いものかわからないが、自分では勝手にできたと思っている。他にも、〈紅蓮〉の政治の仕組みについては知らないし説明してもらったところで私が理解するには限界があるが、その他の基本的な事項については〈魔羅〉や霊力、霊術師などの話を中心に前より幾分把握することができた。こちらの衣服に着替えることにも慣れたし、紙を用意してもらって自分なりに主殿の見取り図を書いてみたりして、徐々に周囲の人の手を借りずとも最低限の生活は送れるようになってきている。……と言っても衣食住全てにおいて世話になっていることには変わりないので、相変わらず肩身は狭いのだけれど。しかーしそんなことを一々気にしていては生きていけない! なんて最近ちょっと開き直り気味だったりするのは内緒だ。いや、瑠璃さん辺りはそんな私の微妙な心境の変化に気付いている可能性がある。なんといっても私が今のところ一番心を開いている相手は、彼なのだから。
 肝心の、私がお姫様の霊力を恙なく受け取れたか否かの問題については、実はふとした瞬間に確信を得ることができた。ある時瑠璃さんが何気なくこんなことを零したのだ。「お前、いつの間にか霊力が開花したようだな」と。深く突っ込んでみると、霊力というものは生まれつき備わっているものではなくて、ある程度の年齢になってから身に纏うようになるものであることが判明した。瑠璃さんの場合はそれが早くて、四歳の時だった。だからこそ瑠璃さんはお養父さんにその素質を認められて引き取られた、とも言えるらしい。
 一つ不満があるとすれば鼠君が尋ねてきてくれていないことであるが、それはまぁ鼠君にだって事情があるのだから……と無理矢理納得するとして。
 何にしても。
 親身になって私の処遇について考えてくれている瑠璃さんには申し訳ないが、私はここでの役目をきっちりと果たさない限り元の世界には帰れないわけで、ここを出るという選択肢は念頭にない。だから二人きりになったときに何度か本気で「他の道もある」という話を持ちかけてくれたことがあったけれど、私は曖昧に言葉を濁しつつやんわりとお断りするしかなかった。
 三日ほどは体調が優れないために日中の殆どを寝台の上でじっと過ごしていたけれど、四日目辺りから午前中はふらふらと散策に出るようになった。勿論一人では間違いなく迷子になるので、お供の人を連れて、なのだけれど。
 今日で〈恭爺〉さんが体調を崩してから、六日が経つ。
「浮かない顔だな」
 庭園の所々にある東屋っぽい空間で休憩を取っている時、瑠璃さんがふと口を開いた。この休憩所には石を削って作った大きな円卓と椅子とが設けられている。この机、よく磨かれたつるつるの感触とひんやりとした温度とが気持ちよくて、前に一度べったりと張り付いてみたことがある。その際傍にいた真澄さんに凝視され、さすがに行儀が悪かったかと反省しすぐに止めようと思ったのだが――直後、彼が私を真似て同じ体勢になったのを見て噴き出しそうになった。もちろんこの事は二人だけの秘密で、吹聴お断りだ。真澄さんって見た目は綺麗系なのに仕草とかは本当に可愛い。あとは、ちょっと天然っぽいのかな。などと思い出してにやにやしていたら、今度は瑠璃さんに嘆息されてしまった。今、絶対変な子だと思われた。いや、彼には元々奇矯な小娘だと認識されていたか。
「次々と忙しい奴」
 呆れたようにそんな呼称を頂いてしまったが、私が傍らにいる瑠璃さんの存在を自らの脳内から完璧なまでに消し去って思考に集中してしまうのはいつものことじゃないか。いや、威張っているわけでは決してない。単なる事実だ。
「いえ、これは思い出し笑いであって悩みが解消されたわけでは」
「悩みがあるのか」
「…………」
 うーん、お見通しか。
 視線を卓の上で組んだ自分の手元に落とし、しばし考える。悩み。そりゃあ色々とあるとも。多くは自分の境遇に関してだけれど、それ以外にだってある。彼に言ったらそんなものは無駄な悩みだって一蹴されそうだけれど……、実は他人についての悩みだったりする。
 顔を上げて彼の方を見てみると、片方の眉がぴくりと上がった。お、怒っているのか? 何故に??
「俺には言えぬことなのか?」
「えと……いいえ、かな」
「言ってみろ」
 聞いてくれる気があるのかないのか、瑠璃さんは机に肩肘をついて頭を支える体勢をとった。楽そうだ。反対に背筋を伸ばして両手を膝の上で揃えた私は一体、って感じ。
「〈恭爺〉さん、についてなんですけど」
「…………」
「一応、お見舞いしたいなぁとか思っ」
「阿呆娘」
「えぇ……」
 なんとなく予想はしていたが、よりにもよって阿呆娘はないだろう。人が真面目に心配しているというのに。
 その態度、不服だぞー不満だぞー立腹だぞーという恨みを込めた目でじいぃっと見つめたら、ふいっと顔を背けられてしまった。またそれですか。
「お前、他に悩むべきことがあるのではないか」
 顔を逸らしたまま瑠璃さんが不機嫌そうな声で言った。私はちょっと首を捻る。他に悩んでいることはないのか、ではなく、他に悩むべきことがある? 何故そう決め付けるのか。
 まあ間違ってはいないのだけれど……、反対に思い当たることが多すぎて彼が具体的に何のことを指して言ったのか判断できなかった私は、視線を彷徨わせる。広い広い立派な庭園。果樹園みたいな区画がすぐ近くにある所為か、仄かに果実っぽい香りが漂っている。柑橘系、かな。何度か散策してはいるけれど、まだ全部は回りきれていない。といっても立ち入り禁止区域があるらしいので、どのみち制覇することは無理なのだけれど。あー今日は日差しが強いなぁ。瑠璃さんがこういうことは珍しいと言っていた。というのも、〈御殿〉一帯には季節というものが存在せず、一年中同じような過ごしやすい気候が続くためであって。そうそう、〈四郷〉は四季を准えているのではないかという話、あれは正解だった。そしてもう一つ付け加えると、〈御殿〉は無季節、という具合である。
 話を元に戻して、悩み。
 ……あ、そうだ。
 唐突に思いついて、私は未だに顔を背けて不貞腐れている瑠璃さんの肩辺りをつついた。彼が一瞬びくりとした後、頭を支えていた手のひらから顔を離し、こちらを向く。
「瑠璃さんには無いんですか、悩み」
 せっかくスマイル0円付きで尋ねたというのに、瑠璃さんは珍妙な生き物を見るような目を向けてきた。相変わらず失礼な人だ。
「聞いてどうする」
「聞いてみたかっただけです」
 本当にただそれだけの理由なんだけれど。思いつきだし。
 めげずににっこりと笑いかけてみたら、また溜息をつかれてしまった。瑠璃さん、最近多くないかなこういう扱い。
「お前に話してもなぁ……」
「言うだけですっきりすることだってありますよ」
「…………」
「何ですかその目は」
「いや、……何でもない」
「?」
 こういう話の濁し方は彼にしては珍しかったので、気になった。彼の頬杖をついた気だるげな様子を改めて見て、はっとする。
「瑠璃さん、もしかしてお疲れなんじゃ。あんまり無理すると〈恭爺〉さんみたいに体を壊しますよ」
「俺は奴ほど軟弱ではない。日々鍛えている」
「それは、そうでしょう。体力的には」
「……何?」
「心労ってことですよ。心労……いやまあ瑠璃さんがそんな繊細にできているとはとても思え痛い!」
 久しぶりにデコピンをお見舞いされた。「ばちんっずきずきずき!」というこの感覚、懐かし……ってそんなわけはない、痛いものは痛いのだ。両手で額を押さえつつ、ううっと唸って久しぶりの痛みに耐えた。認めよう、瑠璃さん貴方はデコピンのスペシャリストだ、洗練されたその技の威力は凄まじい。勿論褒めてない。
「誰の所為だと思う」
 瑠璃さんが脱力したように卓に突っ伏し、淡紫の瞳で私を見上げた。どうでもいいけど、彼の手は卓の下だ。例の、私と真澄さんが以前に実行しただらっと手を伸ばした体勢とは異なる。
 何度かぱちぱちと瞬き、考えた。……あ、わかった。多分この答えで合っていると思う。
「上司の方の所為ですね?」
 瑠璃さんは紅蓮守護軍第二師団第二連隊隊長だ。しかし隊長といえども上には師団長や副師団長、さらに上には総師団長、そして〈恭爺〉さん、お姫様などがいる。真澄さんに〈薬師〉見習いとして付き従うのにだって相当嫌そうな顔をする彼のことだから、上司の存在ってすごくストレスになるのではないだろうか、と考えたのである。
 と、自信満々に答えたのに、返ってきた言葉は「阿呆娘」だった。違うの?
「それじゃあ……、あー、仕事じゃなくてプライベートな悩みなんですね」
「ぷら……? お前は時々妙な言葉を口にするな。どこで覚えるのだか」
「瑠璃さん瑠璃さん」
「なんだ」
「私で良ければ聞きますよ」
「断る」
「えぇ……即答ですか……」
 私ってやっぱ頼りないんだ……、と結構本気で落ち込んだのに、瑠璃さんはそんな私を見て笑った。無論戦慄が走るような嘲笑ではなくて、自然と零れた微笑なんだけれど。
「もう良い、寝るから」
 そんな笑顔を最後に、彼は言葉通り本当に卓に突っ伏したままお昼寝を始めてしまった。
 ――なんだ、やっぱり疲れているんじゃないか。
 覚醒時と比較するとかなり幼く見えるその寝顔を見ていたら私も段々と眠くなってきて、こっそりと欠伸を漏らした。


 熟睡する瑠璃さんの横で先程から何度も欠伸を噛み殺している私は無防備な瑠璃さんが誰かに襲われてはいかん、私が守らねばと妙な責任感に駆られて眠気にも耐えていたのだが、よく考えてみればこれって瑠璃さんの職務怠慢な気がする。一応私の付き人である彼がこんなことでいいのか……、まあ、私は良いんだけれど。大体彼を守らねばって思うのにだって彼の日頃の行いが関係しているわけで。彼、敵が多そうだとは思わないか? 嫌いは嫌い、好きは好き、ってかなりはっきりしているからさ。余計なお世話か。
 そうして俯き気味で座っていると不意に視界の端に何かがひらりと映った気がして、私は顔を上げた。
 何か、ふわりと宙に浮かんでいた気がする。
 座ったまま周囲にぐるりと視線を飛ばすと、すぐに見つかった。静の中の動。風も無くあまりに周囲が静かなため、耳を澄ませばその羽音が聴こえるんじゃないかと思った。桃色の、結構大きな蝶だ。揚羽蝶でも紋白蝶でもない。こんな色合いの蝶が果たして地球に居ただろうか? 珍しい。
 蝶は東屋内部をぐるぐると旋回していた。もしかして明るい日向から急に暗い日陰へと入って混乱しているのかな、と思ったらそうでもなくて、あっという間にひらひらと出て行ってしまった。
 ちらっと目の端で瑠璃さんを確認すると、起きる気配は無い。よし。
 追いかけよう。
 私は立ち上がって出来るだけ足音を立てないようにそろそろっと東屋を抜け出し、蝶の後を追い駆けた。
 念のため弁解しておくと、私に昆虫採集の趣味は無い。今回の行動は単に暇であることと、後はちょっとした好奇心が原因している。
 蝶が去って行ったのはどうやら果樹園がある方角のようだった。この辺は来たことが無い場所だ。迷わないように気をつけなきゃ。
 砂利道が途切れ、石畳っぽい道に変わった。
 こんなふうになっていたんだ、と驚きながらぐるぐるその場で回り、辺りの景色を眺めた。どちらかといえばこの周辺の造りは洋風庭園っぽくなっているのだ。枯山水とか無いし、道の両脇のスペースにはびっしりと鮮やかな花が植えられているし。この花、どこかで見たような気がするけれど……、まあそんな奇妙な既視感は置いといて、ほんと〈紅蓮〉って妙だと思う。果樹園のある区画は地面が一段、というか人二人分くらい盛り上がっていて階段が備えられているぐらい高さがあったので、私が立っている小道からはよく見えなかった。
 さて肝心の桃色蝶々はどこか、なんて言い訳になるかどうかもわからない口実のもとを探して、私はゆっくりと歩き出した。一度、後ろを振り返ってみる。うん、大丈夫。帰り道はわかっている。
 そのまましばらく歩いていると、来たことのない東屋に到着してしまった。あれ、見失ったかな。
 ……というか。
 東屋に、誰かいる。
 そういえば庭園庭園って言ってきたけれど、正しくはこの場所、全体を指して凪苑(なぎえん)っていうらしいのだ。さらにこの凪苑は大きく二つに分けられて、それぞれを夕凪苑(ゆうなぎえん)、朝凪苑(あさなぎえん)と呼ぶ。前者の夕凪苑というのが最近私がうろうろしている貴族の散策スペースで、かなり広く、これが凪苑の凡そ三分の二を占めている。後者の朝凪苑なんだけれど――、これが前に言った立ち入り禁止区域で、実は瑠璃さんの所属する紅蓮守護軍の宿舎、及び鍛錬場なんかもこの敷地内に含まれている。鍛錬場って具体的に何をするところなのかわからないけれど、私が黒梅や真澄さんに付き添ってもらっているような日には瑠璃さんはそこで時間を潰すと聞いている。勿論、一生懸命お仕事しているんだと思う。何せ本業だし。因みにこの辺りの話題を持ち掛けると瑠璃さんは決まって渋い顔になり、私が食い下がれば必ずそっぽを向き、仕舞いには凄絶な形相で睨んでくる。私にはお仕事の話を絶対に聞かせたくないみたいだ。よくわからない心境だけれど、話したくないことを無理矢理聞き出そうとするほど私の性根は腐っていない、というか、そんな勇気は初めから持ち合わせていないのだ、うむ。
 話を戻して、凪苑。
 今私がいるここは夕凪苑、貴族の散策スペースの方だから、誰かいるとすればその存在は無論、貴族の人ってことになる。
 なんだけれど。
 今確認した限りでは、東屋にいるのは一人のみなのだ。
 これはおかしい。だってこんな似非貴人である私ですら数人の付き人が宛がわれていて、大切に護衛してもらっているのに、正真正銘本物の貴族の血筋の人が一人でその辺をふらふらできるわけがないじゃないか。と普通に考えたらそうだし、実はこれまでに一度だけ貴族の女性と擦れ違ったことがあって、その時十数人の取り巻きを引き連れているのを確かに見たのだ。……まあ、いつだったか〈御殿〉に訪れて間もない頃に貴族の人と出くわしたときの対応イメトレを必死にしていた私だけれど、その甲斐も無く完全に空気扱いで素通りされてしまったなんていう逸話付きだったり、ね。いいんだ、別に。下々の者と同じ扱いの方が寧ろ好都合。そもそも私、その時は見習い女官の二人と一緒に回廊でごみ掃きをしていたのだ。なんでそんなことをしているのかっていう経緯はまた追々話すとして、ともかく、素通りされて当然といえば当然の状況だった。その貴族の女性は横目で確認したらやはり夢で見た貴族の少女のように煌びやかな服装をしていて、対して私は町で無料で譲り受けたおさがり衣装のひとつを袖なんかを盛大に捲り上げつつ豪快に纏っていたわけで、その差は言うまでもなく歴然としている。まさかこんな子が自分と近しい地位(まあ、似非なんだけれど)にいるなんて夢にも思わないだろう。私だったら、思わない。
 となると浮上してくるのは、東屋に居る人物は何か事情があって側近達の目を逃れてここまでやって来たのではないか、という懸念だ。
 気になるな。しかし私が関わってどうこうできる問題ではない上、そのことが〈恭爺〉さんに知られた場合は即刻監禁されてしまう。いや、「面倒事を起こしたら閉じ込めるぞ」って直接言われたわけではないのだが、私の中では既に決定事項と化しているのだ。……なんとなくだけれど。
 この場では関与せず、後で瑠璃さんに報告しておくのが賢明だろう。うむ、そうしよう。
 などと色々企んでいる私に対し、東屋に居る人物はこちらの存在に気付いていないようだった。まあ、ここから東屋までは大分距離があるし、私も辛うじて「人かな?」と困惑気味に判断している次第だ。ここで誰かとお喋りに興じても余程の大声でも出さない限りは到底気付けないぐらい、遠い。
 というわけで、東屋にいる人物のことは一旦脇へとやって、私は桃色蝶々探しと称した一人散策を再開することにした。
 もう、私、ここに来てから一日中誰かにくっつかれていて護衛されているっていうよりは監視されている状態なのだ。……ううん、多分本当に監視の意味もあるんじゃないかな、なんて最近は考えている。部屋に居る時に一人になるタイミングは就寝前と起床時を含め何度かあれど、こうしてお日様の下で一人きりになれることって一度も無かった。私は寂しがり屋な方だから一人で完全に放置されても困るんだけど、さすがに毎日毎日ほぼ一日中誰かと過ごさねばならないのは肩が凝る。一人の時間だって大切だ。
 それから十五分くらいふらふらした後、来た道を辿って元いた東屋に帰った私、であったが。
 わあ、瑠璃さんが東屋の前で仁王立ちしていらっしゃるよ。
 いつ目覚めたんだろう。
 そろそろと怯えつつ近付くと、ぽす、と頭に手を置かれた。一瞬鉄拳が降って来たのかと思ったが、全然痛くなかった。意外に思いつつちらっと視線を上げる。
「どこへ行っていた」
 瑠璃さんは私が思ったほど怒っていないようで、冷静な声で尋ねてきた。さーて何と答えるべきか。よし。
「蝶に誘われて、少々放浪の旅をば」
「何?」
 なんという胡乱な目だ。しかし私はめげずにへらっと笑う。
 ちっとも悪びれずへらへら笑う私を見て、瑠璃さんが頭が痛い、というような顔をした。自らの額に手のひらを強く押し当てている。
「何かあってからでは遅いのだぞ」
 苦々しい声で言われ、さすがにしゅんとなる。怒る、とかじゃなくて、迷惑をかけたんだ。
 だって私の身に何かあったら瑠璃さんの責任になるわけで。
「そうではない」
 じゃあ、何?
「……それで、どこへ行っていたのだ」
 あっ、誤魔化したな。
 まあいいけど。
「んーと、果樹園? がある辺りです」
 果樹園という名称で良いのか迷いつつ答えると、瑠璃さんが舌打ちした。ガラ悪いな。
「お前、あの辺りは朝凪苑との境界になっているのだぞ」
「へえ……」
「何が『へえ』だこら」
 瑠璃さん、その低いお声と殺伐とした目元の組み合わせはちょっと怖いぞ。ちょっとだけ。
「誰にも、何とも、遭っていないな?」
 誰、はいいとして、何ってのは一体なんだ。人間扱いするのも躊躇われるような下衆共を指していると取って良いのか?
「あの……そのことで一つご報告することがあるんですけど」
「なんだ」
「向こうの方の休憩所に、人が居て」
「声をかけられたのか?」
「え? いえ、遠くから見ただけです。向こうはこっちに気付いてません」
「そうか」
 瑠璃さんが警戒を解いて頷いた。無駄に心配させちゃったかな。
「その人、一人で居たんです。おかしくないですか?」
「……いや、軍の者やもしれぬ」
「あ、そっか」
「怠ったのだろうな」
「んん?」
 怠った?
 ……それってつまり、サボタージュ。
 うわあ瑠璃さんそれは怒るだろうな、と思って見上げたけれど、本人は小さく息をついただけだった。あれ? 反応薄くない?
「何にせよ、光。お前はもうそれ以上関わるな。よいな?」
 うむ、そのつもりなのだ。
 大人しく頷いたら奇妙な目で見られたけれど、まあいい。というか瑠璃さん、私を何だと思っているのだ。向こう見ずに突っ走る暴走少女だとでも思っているのだろうか。……心外過ぎる。
 腕時計を見たらまだまだ時間がありそうだったので、東屋に戻った。久しぶりに好き勝手歩き回った所為か、前より余計に眠い。
「それで、蝶というのは?」
 瑠璃さんは最近になって急に自分から他愛ない話題を持ちかけてくれるようになった。前まではそういうこと、無きに等しかったのだ。
「桃色の大きな蝶です」
「ほう」
「ここに入ってきて、しばらく飛び回っていたんですよ」
「…………」
「綺麗だったなぁ」
 瑠璃さんが口元に手をやって何か考え込んだ様子だったけれど、理由は定かではなかった。


 安穏な時間に終わりが訪れたのはその夕方のことだ。
 無理を言って隣の女官部屋で黒梅の針仕事をお手伝いさせてもらっていると、訪問者が現れた。上から下まで完全に黒ずくめといえば、勿論〈影〉の人である。〈恭爺〉さんがお呼びらしい。
 ついに来たか……と遠い目をしたら黒梅が心配そうな顔で見つめてきたので、私は笑顔を意識した。自分のためにも。
 以前と同じく回廊の途中で黒梅ら女官から〈影〉の人へと案内人が変わる。で、問題はその後だった。
「あのー……」
 私は不安になり、前を行く人物に声をかけた。いい加減しつこいようだがもう一度言っておこう。全身黒ずくめ、頭巾まで被っているために彼(おそらく)が誰であるのか判別できない。ただし今の場合の問題は、そこではない。
「何でしょう」
 〈影〉の人が立ち止まり、こちらを振り返る。
「どこに向かっているんですか?」
 お姫様の部屋に通されたのも霊力を受け取った怪しげな呪術部屋に通されたのも一度きりだけれど、そのどちらへ行く通路でもないことがわかる。だって今通っている回廊には灯りが燈ってなくて、〈影〉の人が持っている蜀台だけが頼り、なんていう心許無い状況になっているのだ。灯りが燈る時間は、この六日の間に覚えた。今は本来ならば点灯されているはずの時間帯だ。
 そんなわけで、一体どこに向かっているのか、と質問したのである。
「光様」
「は、はい」
 〈影〉の人がかなり抑えた小さな声で呼びかけてきたので、私も小声になってちょっと緊張する。彼は私のすぐ側まで近付いてくるとまたこそりと小さな声で言った。
「朝影です」
「え……、あ」
 どうやらこの人物は〈影〉のリーダーことお頭だったらしい。なあんだ。
 ってそれはどうでも良くて。
「突然のことで真に申し訳ありません」
「いえ、大丈夫ですよ」
 いや、何の話かわからないうちに反射的にそう答えるのってどうなんだ自分。したてに出られると弱いのか……。
 じゃなくて、本題。
「これより姫にお会いしていただきます」
「えっ?」
 耳を疑う。でもって頭上に疑問符が大量発生だ。
 ええと……。初めて〈御殿〉を訪れたときにも、ほぼ同じ言い方をされたような。で、実際にはお姫様は仕切りの向こう側にいるだけで、面会した相手は実質〈恭爺〉さんだったんだよね。
 でも、だったら今回はどうして別の場所に向かっているの?
「いいえ、光様」
「うえ?」
「今宵は、姫と直接、お顔を合わせていただきます」
 諭すようにして齎された言葉に、え、と一瞬思考が停止する。そして何を言われたか理解した瞬間、勢いよく心臓が跳ね上がった。
「……えええ!?」
「お静かに」
「あ、す、すみません……」
 会う?
 お姫様と、直接、会う?
 今度こそ本当に!?
 ちょっと待ってよ唐突すぎるイキナリすぎる、と私は動悸がする胸を押さえ、深呼吸を試みた。この場合動揺のあまりにヒッヒッフーと場違いな呼吸法に挑戦してみても断然許されそうだけれど、残念。どきどきどきどきと暴走する胸の鼓動とは裏腹に、脳内は至って冷静なのだ。狂えるものならいっそ狂いたいとはこのことだ、なんて思う辺りはちょっとずれている気がするけれど。
 以下は、歩きながら行われた私とお頭の微妙にテンションの高い会話だ。
「ほ、本当に?」
「本当です、光様。私は今回は姫の仰せによって貴方をお迎えに参上しています。このことは〈恭爺〉様もご存知ありません」
「わ、〈恭爺〉さんが知らないとか貴重すぎる!」
「光様、お静かに」
「……すみません。でもどうして急に?」
「私ごときに姫のご意向ははかり兼ねます」
「ですよね……」
「ですが光様、これだけは強くお願い申し上げます。今宵私と会われたことや姫と面会されたことは、どうかご内密にしてください」
「わかりました。絶対、内緒です」
「……緊張されていますか?」
「かなり」
「姫は寛大な方ですから、大丈夫ですよ」
「でも……。あーこんな展開が待っているなら、心の準備をさせておいて欲しかったな」
「光様……」
 そこでお頭(なんだかもう私の中ではこの渾名がすっかり定着してしまった)がどことなく心配するような気配を漂わせたので、私は一人ぐっと拳を作り、気合を入れ直した。
 よし。
 予定とは大分違う展開だけれど、私にとっては好都合じゃないか。だって、ずっと会いたいと思っていた。彼女とちゃんと話がしたかった。
 どういったわけで呼ばれたのかはまだわからないけれど、これだけは絶対にはっきりさせたい。
 何故〈紅蓮〉を覆う結界を破壊する必要があるのか、ということだ。


「……光様、そろそろいかがですか」
「待って、もうちょっとだけ」
 現在、姫がおわするという部屋の真ん前の回廊に立ち、私は浅い深呼吸を繰り返している。「浅い深呼吸」というと矛盾しているように思われるかもしれないが、自分ではちゃんと正真正銘の深呼吸をしているつもりなのだ。それが実際は全く出来ていないという。むしろ息切れしているぐらいだ。いやむしろむしろ、虫の息? 胸がいっぱいでこれ以上息が吸えないし、吐こうとしても何かがつっかえているみたいに吐けないし、上手いこと呼吸が出来ないでいる。
 だって、偉い人だ。それだけじゃない。もし何か失礼があれば、私はもう二度と元の世界へは帰してもらえないだろう。これが緊張せずにいられるか! なんて今にも逆ギレしそうになるくらい不安だし、限界ぎりぎりだ。
「光様」
 お頭の苦笑交じりの催促に、私はついに決意を固めた。いい加減にしないとね。
「はい。……行きます」
 ごくりと唾を飲み込みつつ掠れた声で答え、頷いた。
 お頭が承知したとばかりに手を伸ばし、両開きの戸の中心に描かれた文様円に触れた。円の中心に丸っこい何かの花――ああ、蓮の花かな――が描かれているのが一瞬ちらりと見えた。国トップを表す象徴みたいなものなのかな、と頭の片隅で考えた。
「姫、お連れしました」
 お頭がそう言うのと同時にすっと両脇に戸が動いた。やっぱり自動ドアみたいだ。瑠璃さんの話によれば、ある程度の身分を持つ貴人の部屋の戸には大概古の術が施されていて、このように許された者だけを認識して通すのだとか。……私の部屋には無いな。まあいいや。
「行ってらっしゃいませ」
 お頭は帰りのお迎えの時間まで別の場所で待機するのだと聞いている。だから「いってらっしゃい」なのだ。
「はい」
 小声でそうっと言われた言葉に少しだけ笑って頷き、私は部屋に入った。
「失礼します」
 ぎくしゃくと緊張しながらそう告げた私を、待っていたのは。
「やあ、いらっしゃい」
 真っ赤な髪の男性だった。



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