第二幕:09



「……なんか寒い」
 部屋に入った私は開口一番、ぽつりとそう零した。寝起き時には暑かったので硝子戸を中途半端に開けた状態にしておいたのだが、いざ戻ってきてみれば肌寒い。勿論冬みたく本格的に鳥肌が立つほどってわけじゃない。でも、そよと風が部屋に吹き込んできて、それが首元を掠めて行った瞬間、背筋がぞっとしてしまった。寒気、というか悪寒? ……まさか、三日も寝込んでいたというのにまだ本調子じゃないのだろうか。どうしたんだ私。〈恭爺〉さんに飲まされた胡散臭い睡眠薬の所為であるように思えてならないのだが、確証はないので何とも言えない。しかし必ずや原因を突き止めてやろう、と熱っぽい気だるさの最中心に誓った。もう、何なのだ。身体が重いじゃないか。
 三分の一程開いていた硝子戸を閉め、ようやく一息ついた。
 〈御殿〉に来てから季節感が狂っているような気がする。今朝は寝汗をかくくらい暑かったのに、ほんの少し(といっても例によって水分を拭き取るのに適さない似非バスタオルのために梃子摺ったというのもあるが)部屋を出て戻ってきてみたら肌寒い、なんて。どう考えたっておかしいだろう。夏でも宵には気温が下がる、それは当たり前のこと。でも、こんな一瞬の間に変化するのはおかしい。なんだというのか、一体。
 ……ん?
 私はふとあることを思い出し、首を捻る。
 そういえば、〈淡紅桜花ノ郷〉は常春の〈郷〉だって菩提さんが。
 常春って。
「あ」
 急に、今まで全く気に留めていなかったことが気になり始めて止まらなくなった。体調の悪さとかは最早関係無い。心臓が強く脈打って体温が余計に上昇するような感覚とともに眩暈がした。いや、そんなことはどうでもいい、今は。
 〈淡紅桜花〉、〈碧緑青葉〉、〈金襴珠玉〉、〈白妙銀嶺〉。
 何で、どうして今まで気にも留めなかったのかが不思議なくらいである。この地名。どう考えたって四季に准えたものではないのか? 〈淡紅桜花〉は常春の〈郷〉。なら、他の〈郷〉ももしかしたら。〈碧緑青葉ノ郷〉が常夏で、〈金襴珠玉ノ郷〉が常秋、〈白妙銀嶺ノ郷〉が常冬なのではないか。
 と、一人自分の考えに沈んでいたら。
「お前な……」
 隣から溜め息とともに心底呆れ返った声が吐き出され、はっと我に返る。今いっそ清清しいほど完璧に瑠璃さんという存在を忘れ去っていた。熱の所為か普段より上手く稼動しない私の頭の中には彼が居座るスペースなんてもう無かったのだ。キャパシティオーバーなのだ。
 正気に戻って見てみると、瑠璃さんは我が物顔で私の(……ん?)寝台の縁に腰掛けていた。さすが俺様気質な瑠璃さんだ。ってやっぱりいつも通りじゃないか。先程は何やら妙に大人しかったので何事かと思って心配したが、とりあえず大丈夫そうだ。杞憂だったのだろうか。
 ……あれ?
 ちょっと待つのだ冷静になろう。何故私が瑠璃さんの一挙手一投足に敏感に反応を示さねばならないのだ。いや、それはもう瑠璃さんには随分お世話になったさ。仕事という条件を除けば彼が私にもたらしてくれた事実は大きい。もっと大仰に言えば、彼は命の恩人なわけだし。だから私が瑠璃さんのことを気にかけたってナニもおかしくはない、はずだ。
 なのにどうして、こんな風に否定したい気持ちが湧き起こるんだろう。自分を助けてくれた人のことを大切に思うのは人として当たり前、というか、必要である気がする。
 それなのに。
 自分で自分が謎だ。私は寝台に腰掛けている瑠璃さんを目の前に、その場に突っ立ったまま煩悶してしまった。私、考え事してる時は顰め面ではなく無表情になってしまう性質だ。なので、傍でそれを見た人間は大抵心配する。……まあ実際は心配というより、不気味過ぎてそのままの状態にしておくのが忍びないため無意識に声をかけてしまう、といった心境だろうか。うん、きっとそうだ。
「光?」
 どきりとした。瑠璃さんに名前を呼ばれるのって貴重な気がする。今まで散々小娘小娘言われてきたから、余計に。
 いや、白状すると実は恥ずかしいのだ。彼に名前で呼ばれるのは。
 そのため私はつい返事をするでも目を合わせるでもなく、俯いてしまった。
 すると。
「湯冷めするぞ」
「わ」
 突然腕を引っ張られ、身体が傾く。予期せぬ強引な力に対し、私の足は自分の体重を支え切れなくなった。ということはつまり、引っ張られた方向へそのまま突っ込むしかないわけで。
 時間にすれば一秒、あるいはそれ未満の出来事だったのだろう。
「んぐ」
 私は次の瞬間、ぼふっと寝台に落ちた。いや、落とされた。しかも顔面から。
 ――信じられない!
 私は寝台から顔を引き剥がし、瑠璃さんを睨み上げた。
 別に、腕を引かれたことそれ自体は問題ではない。立っている状態から無理矢理座らされたところで怒るような私ではないのだ、ご存知だろう。いや、寛大だからという意味ではなく小心者でという意味だ。そこは間違っちゃいけない。
 つまりだ。
 瑠璃さんは右手で、私の右手を引いたのだ。少々無茶な体勢ではあったが、それでも私は瑠璃さんに激突する覚悟をして目を瞑った。ああなのに。
 彼はあろうことかひょいっと横に身を躱したのだ。無論、倒壊する私から。
 私は右利きだ。
 右手を塞がれている状態で、しかも反射神経の悪い私が咄嗟に利き腕でない方の手を出して顔面墜落の危機を免れられるはずはなかった。やばいと思った時咄嗟に出したかったのは右手で、でもそれが塞がれていることに気付いて――ってそんなことに気付いたところで既に遅いわけで。時は止まってはくれないし、流れる速度が変わることもない。TVみたいにスローモーションにはならないのだ。要するに一瞬、本当にほんの一瞬だった。そのすべてが。
「なっ、なっっにをするんですか、瑠璃さ……!?」
 常より一段高い裏返ったような声で私が叫びかけた時、瑠璃さんがどこからか取り出した布をばさりと私の上に被せた。これまた不意打ちで。
 訳が分からない。
「ぎゃ」
 思わず潰れた声が出てしまう。実際、潰されたようなものだし。
 瑠璃さんが似非バスタオルで私の頭を、というか髪をわしゃわしゃとし始めた。
「ななななななんですか止めてください自分で出来ますよ!」
「遠慮するな」
「はあああ!? 遠慮とかそういう問題じゃな、んん、舌噛むでしょうが!」
「お前が喋るからだろう」
「瑠璃さんが勝手なことをす、す、す、……乱暴です!」
 振動で上手く喋れない。
 やむを得ず寝台にへばり付いていた私はなんとか体勢を立て直し、瑠璃さんから似非バスタオルを奪った。そこではたと気付く。これ、似非っていうか……、目が粗いところとか、まんまバスタオルだ。多分綿で出来ているのだと思う。肌触りとか、そのものなのだ。私が散々難儀を強いられたくだんのシルク的高級布ではなかった。何だコレ。
 動きをぴたりと止めて沈黙しつつバスタオルを凝視する私をどう思ったのか、瑠璃さんが何やら忌々しげに口を開いた。
「それは、紅蓮守護軍に属する者に支給されているものだ」
 瞬き、じっと瑠璃さんの瞳を見つめ返す。
「……お前とは地位が違うからな」
 地位って。
「だが、こちらの方が使い勝手が良かろう? まぁ尤も、お前が嫌だというなら元の布巾に変えても良いが」
「ううん。こっちが良いです、私」
 即答したら、瑠璃さんが変な反応をした。ショックを受けたように目を剥いた後、珍しく弱々しげな声で呟いたのだ。そうか、と。
 それからしばらく妙な沈黙が続いた。気まずい類のものではない。私はその間にわしゃわしゃと自分で髪を拭いた。ちゃんと時計を確認しなかったからわからないが、髪がすっかり乾いてしまった辺り、随分長い沈黙であったことが窺える。
「お前は、記憶を失っているのだったな」
 私が頭からタオルを離したタイミングで瑠璃さんが口を開いた。言われた事実に心臓が跳ねる。瑠璃さんはどこまで知っているんだろう? それに、その情報は誰から伝えられたのか。真澄さん、だろうか? 友人みたいだし。あるいは〈恭爺〉さん辺りだろうが、この二人が話し合っている姿は想像できない。前にも言ったけど、両者は似て非なる。類似点を支える根本が全く異なるというパラドックスじみた妙な現象が生じているのだ。
「…………」
 あれ、続きはどうしたんだろう。
 瑠璃さんは言葉を探しているというよりは言うべきか否かを迷っているように見受けられた。彼の今の様子を見なくたってそうとわかる。だって彼は私のために言葉を慎重に選んでくれるような人じゃない。どころか、嬉々として私の嫌がる発言をするような人だ。小娘、とか、阿呆娘、とか。自分だって若造のくせに。
「……光」
 また、どきりとする。これからはちゃんと、そう名前で呼んでくれるのだろうか。何が彼を変えたんだろう。僅かな期間ながらも私と行動を共にして、思い改めるきっかけとなるような何かがあったのだろうか。
 視線を上げて、彼と目を合わせた。そういえば、もう恐くはない。以前はあれほど凶悪に見えた目元だが、今はちょっと目付きが悪いだけって思えるのだ。微かにだけれど、私自身も変わったのだろうか。
 なんて、私の思考が少し逸れたときだった。
「これで良いのか、お前は」
 低く、搾り出すような、……でも、意志の強い声で言葉が紡がれた。
 驚いた。
「え……?」
 耳を疑ってしまう。「これで良いのか」。「これ」って、勿論先程の布巾の話はもう終わりだから、全く別の話なんだろう。
 じゃあ、何の話か。
 現状についてだとしたら、気遣われたということになる。私はそれが吃驚なのだ。
 目を大きく見開いていると、瑠璃さんが私の頬に指先を滑らせた。一瞬だけ、はっとするほど優しく。少しは変われたのかななんて自惚れに過ぎなかった。私はやっぱり何も見えてはいなかったのだ。いや、多分、見ようとすらしていなかった。この瞬間まで。
 「何かが怖くて」?
 そんなの言い訳にもならない。いや、言い訳して逃れたがるのは私が弱い証だ。それこそちっとも変われていないのだと言われても致し方ない。
 息を詰めて硬直する私を見て、瑠璃さんがふっと目を細めて笑った。初めて見る表情だった。苦笑なのか、自嘲なのか。自嘲だとしたら彼自身の、一体何を嘲笑ったというのか。解らない、だって彼が私に見せた初めての表情だったのだ。
「俺は、お前の望みを聞いていなかった」
「……私の望み?」
「そうだ」
「…………」
 ねえ、それって。
「お前はどうしたいのだ」
「どう、って」
 そりゃ、帰りたいのだ――元の世界に。地球に、日本に。我が家に。
 でも、それは〈恭爺〉さんとの約束で言ってはいけないことになっている。私は落ちぶれた貴族の最後の生き残りで、記憶を失っていて。そういう「設定」なのだ。
 ……あ。
 そういえば、たった今思い出したのだが。
 私が属しているという設定の一族、謀反を起こしたんだったよね。
 じゃあ普通は、厳しく処罰されるものなんじゃないか?
「覚えの無い罪のために罰せられては不服だろう」
 ぽつりと疑問を零すと、瑠璃さんが簡潔に答えてくれた。確かにそうだ。
 では私は、「記憶が無いから」という理由で処罰は免れたと、そういう話になっているのか。
「それともなんだ、お前は罪を贖いたいのか?」
「え、えっと……」
 瑠璃さんが意地悪ではなくてやけに真剣に尋ねてきたので面食らう。ぶっちゃけどうでもいいです、とはとてもじゃないが言えない。なんて能天気な奴なんだと思われてしまう。というか私、少し頭が可哀想だという設定も無かったか? …………アレは冗談だよね、〈恭爺〉さん。
 ともかく本当の家族じゃないし顔も名前も知らないし、既にこの世には居ないわけだし。ただ化けて出ぬことを祈るばかりなのだ。
「よく、わかりません……。というか、知らないし……」
「まぁそうだろうよ」
 瑠璃さんが笑った。なんだ、やっぱり苦笑か? 普通の底抜けに明るい笑顔ではない。つまり彼は今、楽しいわけでは決して無い。って、何を自分に言い聞かせているんだ私は。そんな当たり前のことを今までの人生の中で気にしていなかったという衝撃の事実に引き摺られて肝心のことから意識が逸れてしまいそうだ。いかんいかん。
「それで、俺が聞きたいのはお前の意志だ」
 意志と言われてもだな……。私は握った拳の中に冷や汗が噴き出るのを感じた。どうしよう、意志? 彼は私の、一体どんな意志を聞きたいというの。
「先程も、改めて確信したのだ」
 うん?
 何の話だ。
「お前には貴族であるという自覚が余りにも足りぬとな」
「…………」
 私は引き攣った笑みを浮かべた。貴族じゃないのだから当然といえば当然なのだが、まさか勘付かれているのかと錯覚したのだ。まったく心臓に悪い。嘘を吐くって恐ろしいことだ。そして、やはりいけないことなのだと思い知らされる。後でどんなしっぺ返しが待っているか知れたものではない。
「どうしたい?」
「え」
「俺にはお前が、周囲の話に流されているように見えてならぬのだが、違うか?」
 うっと思わず喉が詰まる。図星過ぎるのだが、それってば瑠璃さんの野生の勘なのか?
「お前の意志はどうなる」
「意志と言われても……」
「光、遠慮するなと言ったはずだぞ」
「へ?」
 そんな言葉いつ言われたっけ、と思わず記憶の引き出しに手を突っ込んで漁ってしまう。思い出した。正確には瑠璃さんがではなく瑠璃さんの意思を勝手に代弁した菩提さんが、そう言ったのだった。……そういえばあの時も、二人は私のことを知ろうとしてくれていた。
 これまた驚いてしまった。あの時は菩提さんが結構強引に話の主導権を握っていたため、「遠慮せずに何でも言いなさい」っていうのは瑠璃さんの意思ではないとどこかで勝手に解釈していたのだ。
 でも、本当にそう思っていてくれたなんて。
 喜んで良いんだろうか、なんだか迷ってしまう。というか、妙に恥ずかしくなってきたのだが。
 またしばらく俯いた後、ちらりと目を上げた。
「光」
 瑠璃さんの透き通った淡紫の瞳が、私を閉じ込めた。なんて深いのか。私は今までほんの表層しか見ていなかったのだと痛切に知らされる。
「偽る必要は無い」
 真っ直ぐに私を射抜きながら紡がれた瑠璃さんのその言葉は、激しく胸を突くような衝撃を持って私の心まで響く。
 偽る必要は無い。無理に偽らなくても良い。
 多分、普通に日本で暮らしていたら……、私が愛しくも退屈な日々に埋没して、今までどおり平々凡々の道を直進していたならば、決して言われることの無かった言葉だと思う。
 そんなことを言う大人は、絶対に居ないだろう。有り得ないことだ。
 だからこそ。
 思えば私が瑠璃さんを本当の意味で頼りにするようになったのはこの時からだったのかもしれない。
 ぽんぽんと頭を軽く叩かれ、催促されているようだと気付き、口を開く。
「私は……」
 開いて、すぐにまた閉じた。隣の瑠璃さんの瞳をもう一度覗き見る。
 私、〈御殿〉に来てから人の顔色を窺ってばかりな気がする。良い意味でも悪い意味でも。
 〈恭爺〉さんは私を「利用したい道具」として見ることに何の躊躇も罪悪も感じていないようだし、またそれを私自身にも自覚させようとしているぐらいだ。私付きの女官に関しては黒梅は特別に親切で優しいけれど、〈恭爺〉さんと知り合い、というか部下っぽいので、そのためかもしれない。瑞枝のことはまだよくわからないが、なんとなく恨めしげな目で見られている気がするのは確かだ。見習いの二人も、やたら私と距離を置きたがる。真澄さんは梧桐さんで、梧桐さんは真澄さんなわけで、彼がどちらにウェイトを置いているのか判断がつかないうちはまだ信頼しきってはいけないんじゃないだろうか。後の私の知り合いといえば〈影〉の方々ぐらいだが、最初にここに来た時に案内されて以来会っていないので本当に単に顔見知りなだけだ。このまま二度と会うことがなければ顔も名前も綺麗さっぱり忘れ去る自信がある。私の知り合いといえばそれぐらいだ。まあ、鼠君という心強い味方もいたりするが、彼は神出鬼没過ぎるので数に数えるべきじゃないだろう。黒梅は信頼云々以前にお世話にならざるを得ない存在なので、仲良くしたいなぁなんて思っていたけれど……、考えてみればそんな暢気なことで良いのか疑問だ。大丈夫か、私。油断大敵だぞ。
 それにしても、くそー。〈恭爺〉さんめ。
 〈御殿〉にいる私の知り合いって、誰も彼も〈恭爺〉さんの支配下にあるじゃないか! 情報収集がどうとか言っている場合ではないだろう。どう考えたって彼の方が一枚も二枚も上手だ。私がこそこそと情報収集していることがばれたら、もしかしたら今のような自由は奪われるかもしれない。外出禁止とか、私と面会する人は一度〈恭爺〉さんを通さねばならないとか、そういう規則が設けられる可能性だってある。あるいは〈恭爺〉さんはエスパーっぽいので、私の口にチャックをかけるかもしれない。……ってそれ、一番無情だけれど一番ありえるような。恐ろしい人だ。
 でも、だ。
 瑠璃さんは、どうなのだろう。
 瑠璃さんは元々紅蓮守護軍に属する。だから割と中央寄りの人なのかなって思っていたけれど、どうも違う気がしてきた。なんて言えば良いのか。彼はどこに属していようが「変わらない」気がするのだ。どんな地位に居ても、相手がどんな地位でも、物事を客観的に捉えられる。そうだ。彼は最初からそうだった。菩提さんは私のことを初めから悪い人じゃないように思ったって言ってくれたけれど、それって主観による判断なのだ。勿論、私を宥める意味もあってそう言ったんだろうけれど。どちらかといえば確たる根拠があるのは瑠璃さんの判断の方だ。見た目が脆弱でも悪い人間でないとは言い切れない。だってもし本当に人に化けた〈魔羅〉だったら? それを思うと、部下を多く持つ彼があの時下した判断は当然のものだった。謝罪を拒否したがる気持ちも分かる。
「……そうだよね」
「なんだ?」
「いえ。……あの、そう言う瑠璃さんは、どうしてここに留まったんですか?」
 二人で話す機会があったら質問してみようと思っていたことその一だ。
「…………」
 瑠璃さんが黙ってしまった。答えにくい質問だったのだろうか。なんだろ、仕事じゃなくてプライベートな理由があるのかな。
「もしかして、〈恭爺〉さんの命令ですか?」
「いや、そうではない」
 私が食い下がると、彼はそっぽを向きながら答えてくれた。
「お前のことが心配だったためだな」
「え!?」
「嘘だ」
「……瑠璃さん」
「それもある。だが、それだけではない」
 結局答えてくれる気があるのかないのかどちらなのだ、この際はっきりして欲しい。
 私が胡乱な目で見つめていると、彼がちらりとこちらに視線を向けた。
「……あいつが残ったためだ」
「あいつ?」
 驚いてつい咄嗟に聞き返してしまったが、「あいつ」が誰のことかなんてわかり切っていた。菩提さんだ。
「それまた、なんで」
「さあな。あいつは本当のことは口にしないから」
「…………」
 うん、言われてみればそんな気がする。
「荊樹、って人が関係しているのかな……」
「かもしれぬな」
「瑠璃さん、何か知ってますか?」
「……お前なぁ」
「いたっ、何でまたデコピンするんですか!」
「今はお前の話をしているのだろうが」
「あ、そういえばそうだった」
「阿呆娘」
「またそういうことを言う……!」
「他に何がある。たわけか?」
「…………」
「話を戻すぞ」
 瑠璃さんが悪いのだ、瑠璃さんが阿呆娘とか言うから! と私は内心ちゃっかりと責任転嫁しておいた。
「お前はここでの生活に満足しているのか? あるいはこれから死ぬまでここでやっていく気があるのか」
「し、死ぬまでってそんな」
「何も大袈裟な話などではない。貴族の女はここで一生を送るものだ」
「女はって、男の人は違うんですか」
「俺のように〈四郷〉に派遣されればそちらに所帯を持つ可能性もあろうよ。まあ俺の場合は元々〈四郷〉出身らしいが」
「らしいって」
 自分自身のことなのに、まるで他人事のような言い方をする。
「実際、よく知らぬからな」
「ん?」
「俺は孤児なのだ」
 ……え。
 思わず、まじまじと瑠璃さんの顔を見つめてしまった。彼は別段、辛そうに話している様子には見えない。寧ろからりと乾いていて、執着のようなものは一切見受けられなかった。
「だから、あいつが解らない。俺には家族がいない」
「…………」
 家族がいない。
 待って、それって。
 〈恭爺〉さんが用意した私の設定と、被ってはいないか。
 瑠璃さんがまた、ぽんぽんと私の頭に手を乗せる。嫌な感じはしなかった。
 瑠璃さん、私は違うんだよ。家族だっているし、一人じゃ生きていけない。貴方のような強さ、私には無い。
「そんな目で見るな」
 どんな目だ。なんて内心突っ込んでみたけれど、力が入らなかった。
「じゃあ瑠璃さんは、ずっと一人で生きてきたんですか? いつから? 小さい頃はどうしていたんですか」
「義父がいる。三年程前に殉職したが」
「殉職……」
「守護軍の人間だったからな。覚悟はしていたのだ」
「…………」
 なんかもう、言葉が出ない。
「幼き時分より親父に連れられて〈淡紅桜花〉と〈御殿〉を行き来することが多かったゆえ、道には詳しいのだ。だからお前の護衛に選ばれたというのもあるだろう」
「そうなんですか……」
「それに、別に俺が特別なわけではない。守護軍の人間を親に持つ子どもは皆覚悟している」
「でも」
 瑠璃さんはゆるゆると首を横に振ってみせた。全ては過去のことだ。お前が気にかける必要はない。なんだかそう言われたような気分になって、私は口を噤んだ。
「〈四郷〉に派遣された者が増援のために〈御殿〉に呼び戻されることは稀ではない。〈魔羅〉の襲撃に遭う回数が圧倒的に多いのはこちらだからな。ただ、親父は然程霊力が高くなかった。〈御殿〉に次々と加勢が要請される中、親父は呼ばれなかったのだ。そんな時に〈淡紅桜花〉の方でも〈魔羅〉の襲撃があった。力の強い者は皆出払っていたため、かなりの苦戦を強いられた。俺はその時には既に親父の霊力を超えていた上、連隊長を任されていたのだ。ゆえに、俺の方は〈御殿〉に要請されていた。親父と別々の場所で戦うのはそれが初めてだった。俺は内心、喜びすらしたのだ。これで独り立ちが出来るとな。まさか帰って親父が死んでいるとは思いもしなかったが。……俺は何故あの時、〈御殿〉を選んでしまったのだろう」
 瑠璃さんが余りに淡々と抑揚もなく語るので、私は返って泣きたくなってしまった。そんなの悲しすぎる。最後の言葉、瑠璃さんはその時のことを今でも悔やんでいるってことだろうか。瑠璃さんは何も悪くないのに。もしかして、〈御殿〉の人間を恨んだりもしたのかな。だって彼は「何のために」戦ったんだろう。あるいは、今もだ。何だこれって。〈魔羅〉に襲撃される「回数」が多いためって瑠璃さんは言ったけれど、何かがおかしくはないだろうか。私にはどうしても優先順位が見えた気がしてならない。〈御殿〉には貴族が住む。彼らを優先的に守らなければならないって暗黙のルールがあるんじゃないか、なんて思ったのだ。もしそうならそれって、何の権限があってのことなのか。優秀な人材を輩出するから? それともその血を残す必要があるため? 政治家ってだけで何がそんなに偉いのだろう。瑠璃さんが守りたかったのは見知らぬ貴族の人なんかじゃなくて、お義父さんの方だったに違いないのに。勿論、家族じゃないからといって貴族の人を見捨てて良いかといえば、それも違うのだけれど。
「瑠璃さん……」
「さて、俺は何が言いたいのだったか」
 それまで正面を向いて話していた彼がこちらを向き、目元を和らげた。
「お前は、選択を間違うなよ」
 静かに落とされた言葉。と同時に、頭を撫でられる。本来ならこのやろー子ども扱いしやがってと怒るところだが、視界が滲んでそれどころではなかった。
「瑠璃さん、私」
「なんだ」
「よく、考えておきます」
「はは。そうしろ」
 瑠璃さんの強さの秘密、分かった気がする。



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