第二幕:08



 苦い粉薬を強制的に飲まされた後は、なんだか二人に尽くされてしまった。恐れ多い。
 梧桐さんがぺたりと私の額に氷水で冷やした布を置く。あまり病人であるって自覚はないんだけれどな。
 因みにこの氷水の入った桶を運んできてくれたのは瑠璃さんだ。後が怖いのは私だけなのか?
「微熱ですが、しばらくは安静にしていて下さい。念の為にね。〈恭爺〉様が随分心配されていたので」
 それを聞いた私は、まさか、と思う反面、本当にそうかもとも思った。〈恭爺〉さんの目の隈を思い出すと切なくなる。心労だろうか。
 そうだ、疑問点が幾つかあったんだった。解消しておこう。
 まず〈薬師〉という単語について。なんてことはない。これは職業名で、この世界で言う薬剤師兼お医者さんってところだ。詳しくは知らないが、〈恭爺〉さんの管轄らしい。ってことは〈薬師〉も国家公務員なのかな?
 もう一つ、「真澄」という人物について。彼は優秀な〈薬師〉の一人で、私に分量の間違った薬を飲ませた前の〈薬師〉がクビになったために〈恭爺〉さんに抜擢された人物である。〈恭爺〉さん、厳しいよね。
 ――それで。
 最たる疑問点はやはり、梧桐さんと瑠璃さんの二人についてなんだけれど。
 私はこっそりとミニ木箱の山を整頓している梧桐さんを盗み見た。因みにこのミニ木箱達の中身は全て薬関連のものだ。その殆どが乾燥させた植物の葉であるため、漢方というよりお料理に使う香草のイメージが湧いてしまう。まぁ中には匂いがキツイものもあるらしいけれどね。ともかく幸いなことに、私が飲んだ薬は無臭だった。……その代わり物凄い苦味というか渋味というか、灰汁っぽい味が口内に染み付いたりはしたんだけれど、うん、今も残っているだなんてきっと気の所為だそうに違いない。このミニ木箱の表面には印も文字も何も記されていないというのに、どういうわけか梧桐さんは区別がつくようだった。なんだろ、匂いで? あるいは微妙な木材の種類による色合いの違いとか。若いのに相当手慣れていらっしゃるのだ。
 真澄という名の〈薬師〉。
 これ、イコール梧桐さんなんだよね。
 さっき瑠璃さんがパシリ(パシリ!?)で部屋から居なくなった際に話を伺った。表向きは〈薬師〉として〈御殿〉で働いているっていうことと、〈影〉にはそういう人間が多いのだということ。梧桐は〈影〉での呼び名だから普段は呼んで欲しくないと改めて言われた。それから、真澄っていう名前に聞き覚えがある件について、これは私が自分の中で解明した。瑠璃さんが以前、私の護衛中に、霊符の作り主について菩提さんと話していた時に話題に上がったのだ。同僚であると。でも、その時は〈霊具師〉として話題に上がっていたから、不思議に思ってこれも先程本人に尋ねてみた。すると、「瑠璃は大仰に言ったようですが私が霊具を作るのはごく稀なことなのですよ。人手が足りない時に借り出される程度です」と苦笑気味に答えてくれた。つまり本業は〈薬師〉で、裏の顔が〈影〉、〈霊具師〉は副業ってところだろうか。なんだか何でも屋さんみたいだ。
 さて、瑠璃さんの話に移ろう。
 彼は現在疲れたのか、床にべたりと座り込んで私が寝ている寝台の側面に凭れ掛かるようにして目を閉じている。多分本気で寝ているわけではないのだと思う。……うん、多分。それにしても器用だよね。森では木に寄りかかって寝ていたし。節々が痛くなったりはしないのかな?
 まぁ、それは置いといて。
 瑠璃さん、この部屋に入ってきた時に私が受けた印象のままの境遇にいるらしい。
 いや、パシリとまではいかない。けれど〈薬師〉見習いとして梧桐さんの後をついて回っているそうだ。
『さあ、誰の命なのかまでは知りませんが。籍は守護軍のままだそうですよ』
 梧桐さんが教えてくれたのはここまでだ。何故〈御殿〉に留まることになったのか、その理由は知らないらしい。彼に直接訊くしかないだろう。二人きりの時を見計らって。
 でも、大方の予想はついていたりする。〈恭爺〉さん辺りの陰謀なんじゃないか。それがどういう意味があってのことなのかは、検討もつかないけれど。まぁ難しいことは当事者に任せておいて、だ。
「あの、ご……真澄さん」
「はい」
 一瞬梧桐さんって呼びそうになった。でも瑠璃さんが起きていないとも限らないので、念の為。瑠璃さんは〈影〉の「梧桐さん」を知らない。
「不思議に思ったことがあるんですけど」
「何ですか?」
「あのですね。風の噂で聞いたんですが、霊力って人から人へと簡単に受け渡したりは出来ないそうじゃないですか。だから、霊符って不思議だなあと思って。どうやって作るんですか?」
 無論これは風の噂などではなく〈恭爺〉さんに直接聞かされた話だ。〈穢れ姫〉に関する情報なため言い換えておいた。咄嗟に嘘がつけてしまう自分にぞわりと殺意に似た黒い嫌気が差す。どうしてもっと心の綺麗な子が選ばれなかったんだろう、どうして私なんだろう。それが最大の謎でもあるけれど、いくら考えても、そして答えが分かったとしても現状はきっと変わらない。だから私はすぐにも溢れ出しそうになる醜い心の訴えに頑丈に蓋をして、偽りの笑顔で繕った顔を上げるのだ。……どう考えてもこんな私には、美点より汚点の方が多いのに。
 梧桐さんの方を見遣ると、一瞬思考を巡らすように視線を頭上に投げかけたのが分かった。人間って面白いよね。何か思い出そうとするときに脳味噌の方に瞳が寄る。そんなことしたって脳内に格納された記憶の数々がホログラムのように見えるはずはないのに。科学で中々解明できないのって多分人間に永い歳月をかけて染み付いた癖とか習慣とかなんだと思う。
「あぁ、それはですね。霊符に書かれた〈呪言〉に意味があるのですよ」
「……じゅげん?」
「そう、〈呪言〉。あれは姫の霊力を召喚する効果を持っていますので」
「えっ?」
 召喚。
 どこかで聞いたようなニュアンスに、私は思わず身を起こした。梧桐さんが驚いたように私を見つめたあと、躊躇いがちに手を伸ばしてきた。肩を押されて寝台に戻される。ご丁寧に顎のラインまで布団を引き上げてもらって、なんだか過保護な母親を連想してしまった。
「今、召喚って……」
「ええ。極微量、それも一定量ですが。姫の特異な霊力には他の者の霊力を引き寄せて吸収する力がありますから、その必要が……、聞いてらっしゃいますか?」
「あ、はい」
 私は上の空で返事をした。今、誰よりも間抜けな表情を浮かべている自信がある。
 霊符には元々霊力が込めてあるって以前瑠璃さんは言っていた。つまり梧桐さんの今の話を真に受けるなら、その霊力が全部お姫様のモノだってことになるわけだよね?
 それって、……とんでもないスケールな気がする。
「光様?」
「あ、いえ。何でもないです……」
 私はちょっと想像してしまった。お姫様があんな風に隔離状態なのは身分が高くて偉いからじゃなくて、皆の霊力を吸い取らないようにするためなのかな、とか。もし幼い頃からそんな状態なら寂しいよね、とか。
 そんなこと、考えたって何の解決にもならないのだけれど。結局私が利用されていることに変わりはないし、相変わらずお姫様と面と向かって会話する機会はないのだろうし。
「…………」
 なんだかな。難しいな、霊力とか術とか。概念(ルール)として理解できたところで自分の世界には無いものだから、いざという時納得が追いつかない気がする。
 あっ、そういえば!
 私はそこで急に気付いた。なんで今の今まで忘れていられたのかが不思議だ。
 〈恭爺〉さんには訊きそびれてしまったけれど、私はちゃんとお姫様の霊力を受け取れたのだろうか?
 別に、うん。霊力を受け取ったからといって特にこれといった変化はないのだけれど。今は少し熱があって気怠いが、これも梧桐さんの話によると少し眠れば治るとのことだし。というかその前に本当に受け取ったのかどうか確認が取れていないのだが。
 うーんと考え始めてごろごろと寝返りを打っていたら、梧桐さんに声を掛けられた。
「光様、私はこれにて失礼致しますが……」
 あ、行っちゃうんだ。
 私は見送ろうと思ってほぼ反射的に体を起こした。その際ぐらっと眩暈がしたのは気の所為ということにしておこう。
「はい。それは良いんですけど、あの」
 瑠璃さんはどうするんだろうと視線を巡らせると、既に立ち上がっている彼がいて驚く。寝ていたわけじゃなかったのか?
 いや、寝ていたのだろう。時に刃のような鋭さを見せる眼光が今はすっかり封印され、半ば落ちかけた瞼が眠たげな雰囲気を漂わせている。
 そのぼんやりとした目が私に向けられた。微妙に距離が縮まる。微妙に。無駄に背が高い彼と高さの無い寝台に腰掛けている私とでは垂直方向的にかなりの差がある。ので、私は必然的にほぼ真上を向かなくてはならなくなる。首が痛くなりそうなのだ。
 瑠璃さんがぽそりと言葉を落とした。
「そういうわけだ、光」
 どういうわけだろう。
 訳がわからずぱちぱちと瞬いたら、瑠璃さんは面倒臭そうにがしがしと自分の項の辺りを掻いた。あの、面倒臭がらずに。
「ほら、お伝えすることがあったんでしょう」
 何の気遣いなのか若干離れた距離にいる梧桐さんが面白そうに笑いつつ瑠璃さんを急かした。あの……、梧桐さんそれ、彼には逆効果な気がしますけれども。いや、というか帰りは貴方がミニ木箱の群れを運ぶんですか。貴方達には分担して運ぶという選択肢は無いのですか。
 ほんの一瞬瑠璃さんから梧桐さんの方に意識が逸れた時だった。
「ぅひっ」
 突如として私の罪無き額を襲った衝撃。無論犯人は瑠璃さんで、つまり私は、いつかのようにデコピンを食らわされたわけで。うう、不服だ。私に何の罪がある。
 しかも今回は「ばちぃっ」というなんとも不吉極まりない音が鳴った。頭蓋骨を通り越して脳まで衝撃が響いたが、大丈夫だろうか私の額は。当然悲鳴を発してしまったわけだけれど、これまた情けない悲鳴だし。今度こっそり女の子らしい悲鳴が出せるように練習しておこうか、なんて間違った方向に心血を注ぎかねない私に気付いているのかいないのか、やたらと目付きの悪、違った、鋭いこの人は、どうしてこうも自由奔放なんだろう。
 でも、痛む額を押さえつつ――ちょっと涙目になりながら抗議も込めて見上げると、その唇にはいつかのような嘲りも、あるいは意地悪な笑みも浮かんではいなかった。
「……瑠璃、さん?」
 急に不安になる。崖から突き落とされたとまではいかないけれど、それまで注意して徹底的に避けていた領域に無理矢理背を押されて一歩足を踏み入れてしまったかのような、納得のいかない理不尽な現実と向かい合わされた感覚。ぐるぐると不安がとぐろを巻く。なんだろう、具体的に何が原因かと問われると答えづらい。それは「この先何かが起こるんじゃないか」というかなり抽象的な、一種の予感じみた不安だった。
 あの、瑠璃さん、ともう一度呼びかけようとした時だった。見かねたのか梧桐さんが助け舟を出してくれた(あれっいつの間にそんなに離れて……)。でも、どうして私は素直に感謝出来なかったんだろう? ……そっか。他者の介入なしで瑠璃さんと話し合いたかったのだ。これまた天の不条理というものだが、瑠璃さんは一応、この世界に来て出会った人物の中では一番古い知り合いになるわけだし。まあ古いといってもつい最近のことなんだけれど。この世界に来てからというもの、一日一日が凄く濃密で、長くて、重厚に思える。
 じゃなくて、梧桐さんの出してくれたその助け舟とやらが問題なのだ。
「どうやら照れ臭さが優るようですね。瑠璃が自分で伝えると言って聞かないから、私は黙っていようと思ったのですが。これは私にも関わることですので私から申し上げても差異は無いでしょう。光様、本日より私どもは貴方にお仕えすることになりました。不束ものですが、よろしくお願い致します」
 ここで私が耳を疑うのは当然! と胸を張って言えることは確かだ。


 そんな簡単なことで良いのか、と思わなくもない。しかしそう思ったあとで、あぁ、あの〈恭爺〉さんが差し向けたのかという結論に至り、何故だか物凄く納得してしまう自分が居た。あの人、常識人に見えて実は物凄く常軌を逸しているんじゃないか。職権乱用という四字熟語がとてもよく似合いますね! なんて普通は褒め言葉でも何でもなく寧ろ単に厭味なのだが、彼に限ってはまさに、「この言葉は貴方のためにあるのだ」と言って恭しく献上してみたくさせるのだから不思議だ。要するに彼は瑠璃さんに優るとも劣らず傍若無人だったりするのだ。うん。
 でも、二人には決定的な違いがあった。その横暴っぷりの源泉がまるで異なる。瑠璃さんは自らの努力によって身につけた優れた霊力というか、戦闘能力や、自ら築き上げた地位とかが自信に繋がっているのに対し、〈恭爺〉さんの場合は背景に強大な後ろ盾となる〈穢れ姫〉という存在がいる。勿論、〈恭爺〉さんが今の地位に就くまでに全く努力をしていなかったかと言えば、それは私には判断出来ない領域になるのだけれど。〈紅蓮〉って封建制度と実力主義が渾然一体となっている。例を挙げると、守護軍は明らかに実力主義であるし、反して〈御殿〉に仕える所謂国家公務員たる貴族達は封建的な身分を有していたりする。それで、やはり気になるのは国家元首(って表現で良いのか悩むところだけれど)である〈穢れ姫〉のこと。〈恭爺〉さんに以前聞かされた話に忠実に考えるなら、〈穢れ姫〉っていうのはどうも世襲制っぽいじゃないか。だからどうしたという話になるんだけれど、……うーん。なんとなく、そのことが私の中では引っ掛かっていたりするんだよね。私には馴染みがないけれど、〈紅蓮〉の人々には霊力っていう概念が当然のように存在している。ほら、前に瑠璃さんが言っていたじゃないか。霊力は血筋にも関係している、みたいな話をさ。あれ、違ったっけ? 確かそういう血筋の人間が多いからこそ〈御殿〉が栄えているんだって話だったような。そう、そのことなのだ。霊力は子に引き継がれる。じゃあ、かの〈穢れ姫〉もそうなのかってこと。
『現〈穢れ姫〉様は特別な方です。その類まれなる呪術を持ってすれば〈紅蓮〉を覆う忌々しき結界を破ることなど容易い』
 今もはっきりと覚えている、〈恭爺〉さんに聞かされた話の中でも特に私が気になった台詞。「現〈穢れ姫〉様が特別だ」っていう絶妙なニュアンス。私、気付いてしまったのだけれど、それって要するに突然変異なんじゃないだろうか。つまり、今の〈穢れ姫〉様が今までの〈穢れ姫〉様とは明らかに違うってところがポイントだと思うんだよね。それが結界を破壊する要因にもなっているわけだし……。
 いや、なんというか。
 今、大事なものを掴み損ねたような気がしなくもない。


 翌日、朝一で湯殿に向かうことにした。昨日も本当は我慢できないくらい気持ち悪かったのだけれど、それ以上に体調が悪くて無理だったのだ。湯殿、何だかんだ言って遠いし。
 目覚めてすぐ寝台を出て着替えたり湯殿へ行く準備をしたけれど、体の怠さが抜けていなくてふらついてしまった。おかしいな、昨日より悪化していないか? 梧桐さんを疑うわけじゃないけれどさ……ちょっと気の所為とするには辛いものがある。
 そんな具合に覚束無い足取りで部屋の中をうろうろと徘徊しているうちに瑠璃さんがやって来た。朝服用する分の薬を届けに来てくれたらしい。やっぱり昨日と同じ作務衣じみた小ざっぱりとした格好をしていて、ちょっと違和感。私は薬を受け取り、真正面から彼を見上げた。……なんだろ、意味もなくどきりとしてしまう。嫌味の一つでも言ってくれればいいものを、彼は黙って私を見下ろすだけなのだ。調子狂うな、もう。
「えっと、……あ、黒梅知りませんか?」
 ほら、咄嗟に思いついたことをそのままに口走ってしまったではないか。別に変な質問ではなかったから良かったものの。
「黒梅?」
 瑠璃さんが不審げに眉を顰めた。
「知り合いじゃないんですか?」
 言われてみれば確かに、瑠璃さんと梧桐さんは〈薬師〉として私に仕える形になっているけれど、黒梅は女官だったな。あれ、でも。黒梅は〈恭爺〉さんを知っていたよね。
 瑠璃さんがふと思いついたように口を開く。
「あぁ、あの白髪の野郎か?」
 ちょっと待つのだ。
「黒梅は野郎ではありませんよ! というか『しらが』って……」
「事実だろうよ」
「ど、どちらが」
「両方が」
「……うん、知らない。私は何も知らない。黒梅の身体が妙に硬い感触だったことも女性にしては低い声だとかいうことも別に気付いてなんていないし、喉仏が見えるとか絶対目の錯覚だし、裸も見られてなんていないから」
「何かあったのか」
「訊かないで下さい」
 儚い笑みを浮かべてあらぬ場所を見つめる私を見て、瑠璃さんが口を噤んだ。もう、だからそういうのは調子狂うって……、
「お前、どこか行くのか?」
 うん?
 私は彼の問いかけに顔を上げた。こくり、と頷いて肯定すると、瑠璃さんが「そうか」と頷く。
 ああそれで、結局黒梅はどこに。瑠璃さんがここに来る前女官部屋に失礼したら瑞枝と見習いの二人しかいなくてすごく気まずい思いをしたところなのだ。この三人に関しては貴重な女性陣だというのに、まだ打ち解けられていない。いや、黒梅は……うん。
「どうしよー」
 わざわざ丸一日かけて案内してもらったは良いが、私はまだ〈御殿〉の構造を把握出来ていないのだ。それに、湯殿はこの部屋から結構遠い、辿り着きにくい位置にある。
 訳もなくきょろきょろと辺りを見回した。
「どうした?」
「あ、まだ居たんですか瑠璃さん」
「こら」
「いて」
 またデコピンされた。反射的に「いて」なんて発してしまったけれど、実際はそんなに痛くなかった。随分加減してくれたらしい。だからこういうのは以下略。
「ゆ、湯殿に行きたいんですけど」
 言ってしまってから激しく後悔した。それを瑠璃さんに言うのってどうなの自分。
「湯殿か」
「はい」
 瑠璃さんの淡い色の瞳は今日も静謐を抱いている。あの日の、――初めて出遭ったあの時の、私を心の底から怯えさせるような鋭さは微塵も感じられない。勿論丸くなったわけではないのだけれど(デコピンしてくるし)、苛烈さがまるで無くなった。向かってくる者を容赦なく叩き潰すような怒濤の勢いがないのだ。
 それはなんて、彼らしくない。
「行き方がわからぬのか」
「はい」
 これまたご察しがよろしい。明日はきっと槍の雨が降るだろう。
「湯殿に……いや」
 瑠璃さんが何やら目の前にいる私を忘れて一人思考の旅に出てしまったようだ。どうしよう、一人で頑張るしかないのかな。
 と、瑠璃さんを置いて出て行こうとしたら腕を掴んで止められた。何なのだ。
「湯殿まで足を運ぶ必要はなかろう」
「はい? どういうことですか」
「良いから、ここで大人しく待っていろ」
 私はぽかんと彼が出て行った戸を見つめた。
 ……瑠璃さんって横暴なのか面倒見が良いのかよく分からない。
 今着ている服も思えば彼のおかげで手に入ったものなのだったと思い出し、複雑な気分になる。


 何故か私は女官部屋がある側とは反対隣の部屋で湯浴みすることとなった。
 何だろうかここは。いや、分かっている。個人用の湯殿というか、まあ風呂場だ。床は石製で固い。滑り防止のためなのか表面はざらついている。個人用といっても私の家の風呂よりは断然広いが。
 私は素直に喜べない状況に置かれて小さく溜息を吐いた後、風呂場を出た。
 回廊に出ると瑠璃さんが律儀に立って待っていてくれたみたいで、私は少し目を見開く。
「瑠璃さん」
 質問攻めにしたい。
 という心の声が顔に表れたのだろうか、彼は微かに嫌そうな顔をした。
「……意図は知らぬ。直接訊け」
「あ、はい」
 〈恭爺〉さんのことだな、と何故かそれだけで話が通じてしまうから不思議だ。もうここまでくると何でもかんでも彼が裏で糸を引いているような気がしてならない。疑り深くなってしまうのだ。
 ふと頭の上に瑠璃さんの視線を感じて顔を上げた。咎めるみたいに柳眉が寄せられる。あぁ、そういえば髪がちゃんと拭けていないんだった。ここのタオル(みたいな布)って吸水力に欠ける。私の髪はセミロング程度の長さだけれど、そのためか嫌に拭くのに時間がかかるのだ。瑠璃さんを待たせるのも気が引けるし、面倒臭いしで生乾きのまま途中で止めてしまったんだけれど、自然乾燥って髪に良くないんだったっけ?
 まぁいいや、なんてこういう時に深く考えない辺りが子供っぽく見られる一要因なのかもしれない。
「……瑠璃さん?」
 そのまま部屋に戻ろうとして戸を引いたけれど、背後で動く気配がしないので不思議に思って振り返った。
 窓無き回廊は灯りの燈される夜よりも返って朝の方が薄暗かったりする。私が中途半端に開けた戸の隙間から回廊へと朝日が零れて光の道を作った。その丁度延長上に彼は立っていた。明るく照らされた色素の薄い髪が今は殆ど白に近くて、朝陽に溶け込んで見える。一瞬見とれかけ、いやいやそんな場合ではないだろうと視線をやや下に移動すると、淡い色の両目に無言で見つめ返された。……どこを見ているんだろう? 私を通して他の誰かを見ているような、単にぼうっとしているだけのような、或いは考え事でもしているのか、そのどれでもない何かが原因なのか。考えても分からないのは、私に彼を理解しようとする努力が足りない所為? 私は自意識過剰な割に他人に対しては無頓着だったりする。要するに、鈍感。
 私は混乱しつつも、いや寧ろ混乱のあまりなのか……、ほぼ無意識のうちに指先でついっと彼の服の袂を摘んでいた。特に驚くでもなく静かに見つめ返され、言葉に詰まる。な、何なのだろう一体。本当にこんなのって以下略。
「いや、あの……部屋、入りません、か?」
 自らの愚行を悔やみつつも摘んだ衣の端が離せない。思考に伴って身体までもが硬直状態なのだ。
 ややあって、彼はゆっくりと瞬いた。
「ああ、邪魔する」
 ほんと、調子狂うよ。



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