第二幕:07



 目覚めは最悪だ。
 何せ自分の発した呻き声によって覚醒を促されたのだから。
 でも、まあ……、いつかのように暗い絶望感が芽生えなかったことは幸いなのかもしれない。いつかっていうのは言わずもがな。牢で迎えた朝のことである。
 むくりと上半身を起こした私は、寝台の上で幾度か瞬いた。頭がぼうっとする。眠いというより全身が重い感じ。風邪の引き始めみたいに気怠くて。
 えっと、何だっけ。
 私は完全に寝惚けていた。何だったっけ、という疑問ばかりが浮かんで一向に要領を得ない。要するに自問に自答するだけの意識がまだ、覚醒しきっていないんだよね。
 しばらくはそんな具合に虚ろな目で座っていたのだけれど、ふと目元がひりひりすることに気付いて小首を傾げた。何だろう? まるで泣いた後みたいだ。
 泣いた……?
「あ」
 私は小さく声を発した。意識を失う以前の記憶が蘇ったのだ。と同時に、今の意識も明瞭なものとなる。
 ここは主殿で、私に割り当てられた部屋の中だと認識する。
 あの後、私は一体どうなったんだろう。あの後というのは例の、霊力を受け渡す云々って話の後だ。この部屋までは〈恭爺〉さんが運んでくれたんだろうか? と思いかけ、そんなワケないやと思い直す。多分彼の部下の誰かが運んで下さったに違いない。〈恭爺〉さんが自らの手を煩わす姿って想像できないし。
 ううん、というかあの後、いやにリアルな夢を見ていた気がする。長い、夢を。どこか切ない。
 まあ、所詮は夢! なんだけれどね。深く考えちゃいけないだろう。それよりも私は全身に汗をかいていて気持ち悪いぞ。お風呂に入りたいのだ。
 といっても私はまだ一人で気楽に歩き回れるほど〈御殿〉の構造を把握してはいないので、どうしようかと考えた時だった。タイミング良く、と言って良いのか……、女官部屋へと続く戸が開いたのである。
「あ、黒梅」
 丁度良いところに、と私が中途半端に寝台から降り掛けた姿勢で言うと、今日は何故だか真っ白なふわふわの髪を後ろで高い位置に結っている彼女が大きく目を見開き、まじまじと私を見つめ返した。どうしたんだろう?
「光お嬢様、お目覚めになったのですね」
 たっぷりと十秒間私を凝視した後、黒梅が安堵の息をついて歩み寄って来た。
 ……何だろうかこの違和感。
「光お嬢様?」
 私はじっと黒梅を見つめた。髪を結わえている彼女。服装は以前と変わりないが、袂を紐で縛り上げている。つまり、動きやすい格好であるということだ。
 黒梅、何か忙しく動き回るような作業をしていたのか?
 いや、確かにそれも気になるのだ、けれどもその前に。
 私は今度は黒梅からガラス戸付近へと視線を動かした。鮮やかな橙色の日差しが、今が夕方であることを知らせている。
 毎度のことだが、嫌な予感がしてしまうよ。
「あの、そのですね。黒梅」
「はい」
「私、どれくらい寝てた?」
 寝てたのか気絶していたのかは悩むところである。何せ薬で無理矢理、なので。
 黒梅は私の質問に、ぐっと何かを堪えるような表情になった。眉根を寄せ、唇を噛み締める。ってちょっと待ってよ、どういうことなの? ねえ。
「光、お嬢様」
「ん? う、うん」
「…………」
 重く沈黙してしまった彼女に私が内心だらだらと冷や汗を流していると。
「光お嬢様っ!」
「ひえっ!?」
 黒梅にがばりと抱き着かれた。なんだか微妙にマッチョな気がする彼女の身体によって現在その表情は隠されて見えない、が、私は確かに見た。見てしまったのだ。抱き着く寸前、顔を上げた彼女の頬につうっと涙が伝ったのを!
 これは遺憾な事態である。私は相当彼女を心配させたらしい、ということだけが激しくよく分かった。
「もう、もうわたくし、心配で心配で……!」
「う、その、ごめんね……」
「謝罪など求めてはおりませんわ!」
「ひいっ、そうですか」
 そうですか! ごめん黒梅、私不謹慎すぎるよね。なんだか君から良いにおいがするしなんだか胸板が硬いしでどきどきして、というかほんとに硬いな黒梅の身体は! でも違うよね私の思い違いだよね、だって胸、一応「あるように見える」んだもの、ね! ああ混乱してきた。
 とりあえず何はともあれ落ち着くべきだろう。
「黒梅、落ち着いて」
 いや、むしろ私自身がね。
 言った相手は黒梅だったけれど、自分自身に言い聞かせるようにしてそう言葉を紡いだ。しくしくと泣いていた黒梅も私がしばらく複雑な思いでその広い背中を撫でてあやしていると徐々に落ち着いてきたらしく、鼻を啜りつつも私を解放してくれた。その際ふわりと甘い香りが漂った。黒梅、何かつけているのかな?
 ずず、と黒梅がまた鼻を啜り、目元を擦った。微妙な空気になったところで私は恐る恐る声をかける。
「えっと、……その、大丈夫?」
「はい」
 まるで私が泣かせたようだ、じゃない、事実私が要因!? と一人悟って衝撃を受ける。私の所為か、そうなのか。
 意識が飛びかけたが、現実に返ろう。
 私は黒梅を見上げて一瞬思案した後、自分が腰掛けている(←ほらさっき立ち上がりかけていたんだけれど黒梅に押し戻されたんだよね)寝台の縁の隣を叩いた。きょとっと目を丸くした彼女にぎこちなく笑いかけてみる。
「黒梅も座って」
「え、でも……」
「まあまあ。いいから、ね?」
 どんな理由だ、と内心自分で突っ込みつつ、戸惑いがちに腰を下ろす黒梅を見つめた。背、高いよね。というか背筋がやけに真っ直ぐで、……。いや、だからもう考えちゃいけないってソコは。多少男らしい身体付きをしていたって彼女は多分変わらず美女なのだ! ふふ、多分と付けてしまう自分がひどく恨めしいが、まあ置いといて。
「あの、さっきの話の続きなんだけれど」
「はい。あっ、そうでしたね。ごめんなさい」
「ううんいいよ。私、どれくらい寝てたの?」
「それが、三日程」
「…………」
 私はフリーズした。瞬くことすら忘れて凝固する私を心配してか、黒梅が顔の前でひらひらと手を振ったのがわかった。
「……えええ!」
 そして叫んでしまう。
 三日だと? と何故だか男勝りになってしまう私である。三日? ちょ、マジで三日? スリーデイズ?
「な、何故に?」
 引き攣ったまま尋ねると、黒梅が一つ頷き、答えてくれた。
「真澄様のお話では薬が効き過ぎたためであろうとのことで」
 ……うん? 「真澄」?
 どこかで聞いたなそれ、と私が一人引っ掛かっているのには気付かず、黒梅が言葉を続ける。いつ耳にしたのだったっけ。
「光お嬢様が飲まれた眠り薬は成人用のものでしたので、おそらくは用量と身体の大きさが合わなかったのではないかと」
 身体の大きさが……ってまたソレなの!? ええどうせ私はチビですよ!
 私が微妙に不貞腐れたのに気配に敏感な黒梅は気付いたらしい。慌てて付け加える。
「いえ、光お嬢様は何も悪くなどないのですよ。悪いのは分量を間違えた〈薬師(くすりし)〉で」
 〈薬師〉? それって個人名なのかそういう店の名前なのか良くわからないな。
 いい加減慣れていたので(だって〈紅蓮〉には長身の人が多い)、私の立ち直りは早いものだった。「ね、黒梅」と呼びかけると、おろおろとした様子で私を慰めるための言葉を探し続けていた彼女は一旦口を閉ざす。
「真澄さんって誰? 私、どこかで聞いた覚えがあるんだけど」
「ええ、彼はですね、」
 と黒梅が特に何の気負いもなく私の質問に答えかけた時だった。乱暴に戸が開かれる音で彼女の言葉が遮られた。
 驚いて顔を上げる。
 開かれたのは女官部屋に続く戸ではなくて回廊へと続く戸の方。黒梅もはっと肩を揺らし、視線をそちらに遣った。
「え、あ、〈恭爺〉さん?」
 私は入ってきた人物に虚を突かれた。思わず間抜けな声が出てしまったではないか、というかノックして欲しい。一応これでも異性なんですよっ! という抗議の言葉が喉元まで出かかったが、私は寸前で飲み込んだ。だって〈恭爺〉さんの表情がかなり険しかったのだ。
 黒梅が慌ててその場に立ち上がった。あれ、二人は面識があるのかな?
 呆気に取られている私には目もくれず、〈恭爺〉さんはまず黒梅を見た。口角が上がり笑みが形作られるが、それを笑顔と称して良いのかどうか私にはわからなかった。否、まず間違いなく「笑顔」なんていう可愛いものではなかった。ただひたすら空恐ろしいものを感じるだけなのだ。実際、その笑みを見た途端私の背筋は凍りついたし。
「黒梅」
 という、〈恭爺〉さんの低いお声に青褪めたのは無論呼ばれた当人だけではない。
「は、い」
「光様が目覚めたら即報せるようにと、私は言ったはずですが?」
 怖いよーっ〈恭爺〉さん! と私は怒りの矛先を現在進行形で向けられている黒梅に内心同情しつつ、大いに慄いた。まさか、風の噂で聞いていた美人の睨みとやらがこれ程までに大迫力だとは……! 可哀想に黒梅、恐怖のあまり声が出ないのかかくかくと必死に首を振って頷いている。
 その時ふと気付いた。〈恭爺〉さんの後ろに誰か控えている。多分黒装束集団〈影〉の誰かなんだろうけれど、回廊が暗くてよく見えんな……。この微妙な時間帯、まだ灯りが燈されていないようなのだ。
 〈恭爺〉さんがこちらに近付いてきた。黒梅と私はほぼ同時にびくっと肩を揺らす。というか、近付くの早っ! 足が長いためかあっという間に私達の目の前までやって来てしまった。くそ、それは短足である私へのあてつけなのか? お前は足だけじゃなく全身が短いんじゃ、というツッコミは不要だ。ほっといてくれ、もう。
「お前は下がりなさい」
「は、いえ、しかしですね……」
「何ですか、異論があるのならはっきりとおっしゃい。口答えなら聞きませんが」
 と黒梅と〈恭爺〉さんの二人が不穏な会話をしている一瞬の間、私は自由に視線を動かすことが出来た。なんだか今日の〈恭爺〉さんは怖いので、一度視線が合った後だったらもう駄目だっただろうと思う。それこそ蛇に睨まれた蛙状態で、さ。……嫌な喩えだな。
 私は〈恭爺〉さんに続いてやって来た二人を見て、瞠目した。一瞬で隣の〈恭爺〉さん達の会話が聴こえなくなる。
 多分これが今日一番の驚きだ。
 開いた口が、塞がらない。
 金髪のストレート、同系色の瞳。派手な容姿に反して割と大人しい性格である彼。一人は梧桐さん、その人だった。
 そして、もう一人は。
 眉を顰めて〈恭爺〉さんの背中を睨みつける、やたらと目付きの悪い極悪人じみた彼は。
 口元を覆った。なんだかその名前を口に出してはいけないような気がして。
 ――瑠璃さん。
 どうしてここにいるの?


「ご、……」
 思わず「梧桐さん」、と言いそうになった私は慌てて口を手のひらで押さえる。因みに瑠璃さんではなく彼を呼ぼうとしたのは条件反射だ。どちらが話しかけやすいかといったら、決まっている。
『私の名を、他の者がいる前では呼ばないようにして下さいませんか? 同僚の〈影〉の者達の前でも出来るだけ控えていただきたい』
 それがどういう意味なのか、今も私には分からない。でも、約束したもんね。それに破ったら私も〈恭爺〉さんに告げ口される羽目になるのだ。それだけは絶対に避けたい。警戒されて、今後の私の境遇が悪くならぬとも言い切れないので。
 私は口を押さえたまま、少し離れた場所に控えている梧桐さんの姿を上から下まで見遣った。何故だか黒装束じゃない。前に菩提さんが着ていた牢看守の服装に似てる。作務衣っぽいあれだ。色は清潔そうな白で、腰に巻いた擬似エプロン的な丹色の布がよく映えてる。白も似合う、なんて思った。それにゆるくだけれど髪を結ってる。なんか、雰囲気が全然違っていて戸惑う、というかど、動悸が! その根源が例のごとく嫌な予感なのかトキメキなのかは知らないが。いや、知らない振りをしておこうと思う。
 黒梅にしても梧桐さんにしても今日は一体どうしたというのだろう?
 じろじろと無遠慮に眺めていたため、当然のごとく梧桐さんと視線が絡んだ。彼は私が送信した何故何故コールを受信したらしく、ふっと口元に小さく笑みを浮かべた後、唇に人差し指を当ててみせた。えっと、私には何が「内緒」なのかよくわかりませんけど黙っていろってことですね。うう、その仕草を見た途端なんだか激しく心臓が跳ねてしまったぞ。何故ここにはこうも美人ばかりが勢ぞろいしているのだ? 謎過ぎる。
 私は若干挙動不審になりつつ、視線を隣の瑠璃さんに移動した。
「…………」
 あれ? あれれ? 折角の再会なのにえらく不機嫌ですね。
 瑠璃さんは梧桐さんと同じ格好をしていた。腰布だけは漆黒だったけれど。
 いや、というか。
 その両手で抱えた大量のミニ木箱の数々は何なのでしょうか。
 ええ? まさかね。まさか……。
 でも、どうしても、何も持っていない梧桐さんに対して大量の荷物を抱えたその姿、は。
 ああもしかしてこれが原因で不機嫌なんだろうか。
 パシリだ。どうしても瑠璃さんがパシリに見えてしまう。
 ――瑠璃さんがパシリ!?
 そんな馬鹿な。私は必死に笑いそうになるのを堪えた。いやいや全然そんな場面でないことぐらい分かっているのだ、空気ぐらい読めるとも。隣では未だ黒梅が〈恭爺〉さんにお説教されている。が、しかし……。
 誰か助けて! と私が堪えかねて内心救いを求めた時だ。〈恭爺〉さんの話がようやく終わったらしく、黒梅がなんだか悲しげに私を振り返りつつ、「それではわたくしはこれで……」と部屋から出て行った。その捨てられた子犬のような目を見た瞬間私の良心が激しく痛んだ。あぁ梧桐さん達に見とれていないで庇ってあげるべきだった。
 いや、でもさ。
 裸見られてるからね……?
 ふっと虚ろな笑みを浮かべて黒梅を見送っていた私に〈恭爺〉さんが視線を向けてきた。私も気付いて彼を見上げる。思っていた程ご機嫌斜めでもないらしく、静かな目で見つめられた。やっぱり不思議な色の目だ。ワインレッド。
「気分は?」
 そう尋ねつつ、彼が腰を折って私の額に手のひらを押し当てた。意外と硬い感触に驚く。剣だこでもあるのか? その際彼の首元で纏められていた不可思議な色の髪束が肩を滑って正面に流れ、毛先が私の首筋に当たった。くすぐったい、というかちくちくと痛痒いぞ。変な気分になる。
「普通ですけど」
 さり気なく身を引きつつ答えたが、彼は眉間に皺を寄せた。なんで?
「熱がありますね」
「え?」
 確かに気怠いが、本当だろうか。体温計で測ってみないと分からないぞ、〈恭爺〉さんの体温が特別に低いだけなのかもしれないし。いやでも体温計とかあるんだろうか……。なんて内心で思いつつちらりと〈恭爺〉さんの背後に控える二人を見遣ってみる。梧桐さんは相変わらず「しー」の指示を出してくるし、瑠璃さんは不機嫌そうな雰囲気を醸しつつ顔を横に背けて私と目を合わせてはくれなかった。それにしても瑠璃さん、面白いくらいに白が似合わない。なんて正直に言ったら氷点下の眼差しに貫かれそうだ。想像しただけで寒気に襲われた。
 〈恭爺〉さんが鬱陶しそうに髪を払った後、後ろの梧桐さんを振り返った。お、何か指示を出すみたいだぞ、と私は耳を欹てる。
「真澄、後はお前に任せる。私は少し眠るから」
 その台詞に、私の脳内が疑問符で埋め尽くされた。真澄って誰、そして貴方はもう眠るんですか? まだ夕暮れ時ですけど。
 驚いて再び〈恭爺〉さんを見上げたところで私はようやく気付いた。あれ、目の下に隈が。〈恭爺〉さんもしかしてものすごーくお疲れ?
 あれ……?
 私は意識を失う以前の記憶を掘り起こしてみた。〈恭爺〉さん、あの時も体調が悪そうだったような。
 急に不安を覚えた。余程赤裸様に不安げな顔をしていたのだろうか、〈恭爺〉さんが私の視線に気付いて苦々しげに笑う。
「この三日間、立て込んでいたのですよ」
 うん? だから、何がだ?
「知ってどうするおつもりです」
 またそれか!
 思わずむっとすると、〈恭爺〉さんが自然な感じで私の頭をぽんぽんと軽く叩いた。……一瞬ざああああっと血の気が引いたのは怒りが臨界点を突破してしまったためだろうか。決して殺意ではないということにしておこう、精神衛生のために。くそぅ、子ども扱いに拍車がかかっていないか?
「ああ、貴方はどうしましょうか」
 梧桐さんと瑠璃さんの間を通り抜けたところで〈恭爺〉さんがそう振り返った。話しかけた相手は瑠璃さんのようだ。
「…………」
 瑠璃さんが無言でぶすっとした視線を返している。あれ、なんだろうちょっと可愛いかもしれない。
 しばしの交錯。私はどうなるんだろうと胸中どきどき……じゃなくて、はらはらと事の成り行きを見守った。
「……まあ、いいでしょう。好きにしなさい」
 と、〈恭爺〉さんは小さく息を落とすと一人部屋を出て行った。
 〈恭爺〉さんてば随分とアバウトだな。というか、本当に疲れていて一刻も早く寝たいってな彼の願望が見え隠れしていたような気もする。そうか。彼も人間だしね!
 うんうんそうだと納得していると、不意に視界が翳った。まさか一瞬で夜になったわけではないだろう。
 ん? と無邪気に疑問に思っていると、景色が一転した。
 えっと、は? え? 何コレ。
「阿呆娘」
 それどこかで聞いた……。


 私は呆然と自分を押し倒した人物を見上げた。くそっ、何だというのだ! 意味不明ここに極まれりだぞ。
 正確には押し倒されたわけではない。いや、押し倒されたのか? 額を情容赦なく小突かれ、無防備だった私はそのまま寝台に仰向けに倒れてしまったのである。あ、やっぱこれ押し倒されてるや。でも瑠璃さん自身は寝台の縁に座って私を見下ろしている状態で、倒れてはいない。要するに深い意味は無い。決して断じて全く一切、何も無い。
「何なんですか、いきなりっ!」
 私はちょっと涙目になりつつ抗議した。幾ら寝台が柔らかい布で覆われているからって、現代日本にあるような高性能のベッドのごとくスプリングが入っているわけでも、ましてやウォーターベッドのように中に水が入っているわけでもないのだぞ、いきなり倒されたら痛い。
 しかも何さ、阿呆娘って! 感動の再会はどこへやらだ。実は黙っていたけれど私、ちょっと喜んでいたのだぞ、どうしてくれる。あの感動を今すぐ返して欲しい。
 というか、内心かなりどきまぎしていた。けれどすぐ近くには梧桐さんもいるし、いや居なかったからといって別段何が変わるわけでもないのだが! うむ。
「ふん」
 いつかのごとくつーんとそっぽを向く瑠璃さん。どうしたいんだこの人は。私、泣けばいいの? と混乱のあまり狂いかけた。
 いきなりの惨い仕打ちに心が折れそうになりつつも身を起こそうとした。が、阻止される。両肩を掴まれ、倒されるというよりは寝台に押し付けられる感じで。
 今度は咄嗟に起き上がろうと抵抗した。けれど間近で見た淡紫の両目に心臓が止まりそうになり、自然と力が抜けてしまう。こんなに、こんなに澄んでいたっけ? なんだか本気で泣きたくなってきた。
「寝ていろ」
「う、……はい」
 吐息が触れる程の至近距離で言われて何故か従順に頷いてしまった私である(←なんたる失態!)。だって否応なしに見せられた瑠璃さんの顔のどアップが意外と綺麗で息が詰まって、いやいやじゃなくてその前に梧桐さん貴方って人は! 何故彼の暴走を止めないのだ! 今気付いたけれど瑠璃さんの暴走を止められるのはもしかしてもしかすると、この世で菩提さんただ一人だったりするのか?
 まったくもう! と不平不満の矛先を同席している梧桐さんに変更しつつちょっとマジで泣きかけていると、瑠璃さんという名の嵐がようやく身を離してくれた。この数分で心臓に寿命が来るかと思った。
「ううう」
「光様、泣かないで」
 梧桐さんが何やら屈んで瑠璃さんが運んできたミニ木箱を漁りつつそう宥めてきた。慰めは要らないから助けたらどうなのだ! と私は内心叫び、実際には情けなく泣きながら恨めしげに梧桐さんを見た。困ったように笑う様子からは全く反省の色が窺えない。もうっ、菩提さんだったらきっと助けてくれるのに!
 ……というか。
「うう、瑠璃さん、質問していいですか」
 梧桐さんと一緒になってミニ木箱を漁っていた瑠璃さんが顔も上げずに言う。
「泣きながら喋るな」
 誰の所為だと思っているのだ、誰の! 言っておくがこれは極度の驚きのために出る涙であって決してその、先程の瑠璃さんが怖かったわけではないのだぞ。説得力ないけれどさ。
 私は構わずに続けた。
「菩提さんはいないんですか?」
「…………」
 こら、無視するんじゃない。
「ねえ瑠璃さんっ、菩提さんは? 〈繚華ノ町〉に帰ったの?」
 あ、最早敬語ですらない。瑠璃さんがあんまり横暴だから、つい。
 じいっと見つめていると、無言で作業をしていた瑠璃さんが不意に顔を上げ、ぎろりとこちらを睨んできた。そんな目をしたって駄目だもの。
「お前はあれに懐き過ぎなのだ」
 ……はい?
 私は目を点にした。「なつく」って何、訳がわからない。そして「あれ」とはまさか、菩提さんのことか?
 ふふふっとこの場に全くそぐわぬ笑い声が響く。梧桐さんだ。
「やきもちですか、瑠璃」
「ほざけ」
「それにしても『懐く』とは、貴方も偉くなったもので。何様のつもりです?」
「瑠璃様だろう、それは」
「……言っておきますが誰も呼びませんよ。あぁ、いえ。白百合様はいつも貴方をそう呼んでいましたか」
「言うな! あれは令嬢などではない、悪夢だ。悪夢の具現だそうに違いない」
「ふふ」
 一体何の会話なのか私にはさっぱりだ。
 でも、――あぁ、やっぱり良かった。
 瑠璃さんとは微妙な雰囲気になってしまったけれど、顔を見たらなんだか、腰が抜けるくらい安心した。
 それにしても菩提さんは今、どこにいるんだろう……?



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