第二幕:06



 今日の私の格好は薄桃色の上衣に深紅の下衣を合わせたものだ。袖口が広くて襞みたいになっている。両手を広げたら蝶々みたいになるんじゃないのかな。ちょっと可愛らし過ぎるデザインかもしれない、と私は冷や汗をかいた。実は私、子供に見られるのが嫌で、普段から服装にはかなり気を遣っている。元々全然オシャレな方ではなかったのだが、高校の入学式の朝、偶然通りかかった近所のお兄さんに「あれっ、光ちゃんってもう中学生になるの」って言われたのがきっかけだ。これが近所のおばさんに言われたんだったら立ち直りも早かっただろうけれど、それ程歳の変わらない男性に言われたので大打撃となった。誤解を解き、その男性が立ち去った後も一分間ぐらいその場に立ち尽くしてしまったんだよね。それが自らを省みるいい機会にもなったわけだけれど……。
 意識を逸らしたくて、私はそんな取り留めのないことを考えていた。
 陽が完全に落ちたところで〈御殿〉施設見学ツアーの続きはまた明日、という運びになり、私は比較的小さな一室に通された。かと思うと、そのまま黒梅達は女官待機部屋へと戻っていってしまい、そこで私は別の人物に引き渡された。〈影〉の人達である。例によって口を開いてくれるまで誰が誰だか分からないという事態が起こったが、まぁ、良いのだ。それはそれである。
 それより何より、現在の状況。
 私は一人いや独りっきりで、仄暗い部屋の中央に正座し、お姫様のご登場を待っていた。
 怖い。なんだこの異様な空気は。先程から嫌な汗が止まらないぞ。
 部屋の床は木板で出来ていて、中央に魔法円もどきといった風情の直径二メートル大の文様が描かれている。大きな円の中に二つの円が並べて描かれており、私はその片方の円の中に座っている状態だった。霊力って一体どうやって受け取るんだろう……怪しさ満点な光景に空恐ろしい想像が止まらない(冷や汗も止まらない)。大体、四方を囲んでいる赤い蝋燭の群れが不気味すぎる。何故よりにもよって赤なのだ? それも固まった血のような濃い濁った赤だ。一体誰の趣味なのか、と憤りすら湧く。多分〈恭爺〉さん辺りだろうな。アノ人、腹黒そうだし。と私は緊張を紛らわすため、彼に対して些か失礼な解釈をしてみた。
 極度の緊張を通り越して眠気に襲われ始めた頃、前触れなく部屋の戸が開いた。うわわ、ついに来た、まだ心の準備が! と一人焦っていたら、入って来たのは憮然とした表情の〈恭爺〉さんただ一人だった。
 彼はそのまま私の目の前までやって来ると、正座した。
 ――まさか。
 ある一つの可能性が私の脳内で膨れ上がる。
「もしかして〈恭爺〉さんが〈穢れ」
「私は男です。〈穢れ姫〉たる者は代々女性と決まっています」
 私の言葉を遮るように否定し、〈恭爺〉さんが不機嫌な顔で私を見た。というより睨んだ。なんだ、穏やかではないな。
 何だか八つ当たりっぽくない? と私は少々立腹したが堪えた。この人の手前、細かいことで一喜一憂するのはナンセンスだということは承知済みである。
 私は気が抜けて正座するのを止めた。一瞬〈恭爺〉さんの目が厳しくなったような気もするが、無視しておこう。だって〈恭爺〉さんは私が本物の貴族でないことも、この世界の正式な住人ではないことも知っているのだ。
 なんとはなしに彼の不思議な色合いの髪を眺めた後、私は徐に口を開いた。
「あの、お姫様は? 儀式は中止とかですか」
「儀式? いいえ、姫様はご多忙の身ですからね。少し予定よりもこちらに来られるのが遅れそうなのでそれを伝えに。姫様がみえるまで話し相手になって差し上げましょう」
 成程。
 お姫様ってどんな仕事をしているんだろうかと疑問が過った。〈紅蓮〉でいう「姫」という言葉は貴族のご令嬢って意味でも国王の娘って意味でもないんだろう。身分を表わしているというよりは役職名のようだ。
「じゃあ質問させて下さい」
「……モノによりますね。というよりも光さん貴方、随分と態度がふてぶてしくなった様に感じるのは私の気の所為ですか?」
「気の所為ですよ」
「…………」
 うわあ、〈恭爺〉さんが全然目の笑っていない笑顔を浮かべている。
「えっと、〈恭爺〉さんって何歳なんですか?」
 無邪気を装って尋ねたら、睨まれた。笑顔で睨まれるだなんて生まれて初めての体験だった。
「知ってどうするつもりですか」
「別にどうもしませんけど……。何ですか、知りたがっちゃいけませんか」
 あれ、このやり取りってちょっと記憶に新しい気がする。
「そういう貴方は何歳なんです?」
「あっ、質問に質問で返すのはずるいんですよ。でも、じゃあ、私が教えたら教えて下さいますか?」
「良いでしょう」
「教えて下さるんですね、約束ですよ。私、十五歳です。といっても今年で十六に……」
「十五?」
「……聞いてますか〈恭爺〉さん」
「十五」
「ちょっと、十五って数字がそんなに問題なんですか? 高一っていったら義務教育も終わって自分に責任を持たなきゃいけないような年齢ですよ」
「十五ねぇ」
 〈恭爺〉さんは私の冷たい眼差しなどモノともせず、それからしばらくの間「十五」を連呼した。世にも奇妙な単語を聞いたとでも言いたげに。
 十五歳には見えないということなんだろう。それは分かる。分かるが、若干心が折れそうになった。
「……。それで、〈恭爺〉さんは何歳なんですか」
「あぁ、失礼。『姫様より一回り上』です」
「えぇ?」
 私は思わず情けない声を上げてしまった。お姫様の年齢を知らないのに分かるわけがないじゃないか。
「じゃあお姫様の年齢を教えて下さい」
「教えるはずがないでしょう」
「……〈恭爺〉さん、卑怯ですよ」
「それはそれは。卑怯でなければこの地位、とても維持してはいけませんからね。名誉なお言葉を頂きました」
 駄目だ、〈恭爺〉さんには何を言っても応えない。
 私は訳もなく視線を天井に巡らせた。黒い焼け跡みたいなのが見えるのは気の所為だろうか。もしかしてここって元々炊事場だったとか?
 ええと、じゃなくて。
「……もう一つ重要な質問があるんですけど」
「どうぞ。答えられる範囲内でしたらお答えしましょう」
 視線を〈恭爺〉さんに戻す。一見、人の良さそうな笑みを浮かべているんだけれどなぁ。これが厄介だって知ってしまった後では、呑気に格好いいだなんて感想は浮かんでこないというものだ。
「私のここでの役割は、〈器〉としてお姫様の霊力を受け取ること、なんですよね」
「ええ」
 宙に視線を彷徨わせつつ思考を巡らせる。自分の考えたことを整理するために。
「それで……、ええと、結界を壊す術を発動するのに必要な霊力が私の中に溜まるまで、どれくらいかかるんでしょうか?」
 結界とか、術とか、霊力とか。自分の口で発した単語の数々にイマイチ現実味を感じない。揺らめく蝋燭の火を長いこと見つめていた所為か、頭の中がどこかぼんやりとして、やっぱりこれは夢なんじゃないかなんて未だに未練がましい思いを抱いたりもした。単に私の中の願望がそう錯覚させているだけなんだろうけれど。
 再び視線を〈恭爺〉さんに戻すと、何とも言えない複雑な表情を浮かべていた。また訊いては不味いことだったのか?
「……それは、今日の受け渡しの様子を見てからでないと何とも言えませんが」
 今の微妙な間は何?
「姫様の話では、術を発動するのに必要な霊力は、大雑把に言うと姫様五人分なのだそうです」
「つまり、五日?」
「いいえ」
 うっ、ぬか喜びしてしまったではないか。紛らわしい言い方はやめて欲しい。
「まず、持っている霊力を全て一度に渡すということは出来ないのです。そんなことをすれば忽ちのうちに姫様は病に伏せってしまわれるでしょう」
「……ええと、どういうことですか?」
「姫様の霊力は姫様の命に深く絡まっているのです」
「命に絡まる……?」
「生命力と言った方が分かりやすいでしょうか。姫様の生命力と霊力は謂わば二つで一つ。どちらか一方が欠けては姫様は生きていけません」
 ってことは、お姫様、今回のことは捨て身なの……?
 そうまでして〈紅蓮〉を覆う結界を壊したい、ということなのか。
「己が霊力をより巧みに操るために必要となってくるのが精神力です。これは可能性としてはほぼ皆無に等しいと先に断っておきますが、万が一ということもあります」
 はい? 何ですと。
 私は〈恭爺〉さんの言葉によって思考の海からざばっと上がった。あぁ、少し落ち着いて考えたかったのに、お姫様のこと。
「姫様にもし心の乱れがあった場合、貴方に霊力を受け渡すのは難しいという意味です」
 あぁそうか。電流と抵抗の関係みたいな感じなのかな。だから単純計算で五日、というわけにはいかないのか。
 私は〈恭爺〉さんにばれないようそっと吐息を落とす。溜め息を吐くと幸せが逃げるって諺が常に念頭にあったので、小さく小さく、不安を外へ押し出すための深呼吸だ。
 やっぱりすぐには帰れない、って事実が、中々とれない肩凝りみたいに私に憑依した。


 それから小一時間は経った気がする。
 気がする、と言ったのは、本日は部屋にうっかり腕時計を置いてきてしまったためだ。学校に行く時ぐらいしか携帯する習慣がない上に普段は制服のポケットの中に入れっぱなしなのだ。明日からは忘れないよう枕元に置いておこう。
 他にすることもないので〈恭爺〉さんと延々とお話していた。他愛もない話だ。〈恭爺〉さんは自分に都合の悪い話になると途端に口が重くなったけれど、私の些細なお願い事などについては快く聞き入れてくれた。部屋に鏡が欲しい、とかね。そういうところは寛大で助かる……けれど、その分余計に譲れない一点に関して執拗なまでに頑なである事実が目に付く。何故? と直接問い掛けるのは憚られる。愚問だし無粋だし何より失礼だ。人間の心はどんなアポリアよりも複雑である。完全に理解することは元より不可能であるしそうしたいと望むこと自体がどうしようもなく愚かしいのだけれど、それでも真理に触れたくて手を伸ばしてしまうのを止められない。幾つかのピースを紛失してしまった永遠に完成しえないパズルに挑戦するぐらい、あるいは地球滅亡の日を計算で弾き出そうとするぐらい途方に暮れることだって分かっていても尚、だ。
 うう駄目だ。
 思考が端からするするとほつれていくのを感じる。自分でも今何を考えているのか、あるいは真に考えるべきことは何なのかが分からない。退屈は人類の最たる敵だな。だって考え過ぎて馬鹿になりそうだもの。空回りだってするし、何より時間の浪費だよね。
 眠ってしまいそうだったので、私は物凄くどうでも良い発言をする。
「お姫様はまだかー」
 と。因みに二回目。
 私はだらりと部屋の壁に凭れて座っていた。正座をする必要性を最早露ほども感じない。
「光さん、はしたないですよ。お下品な言葉遣いは止しなさい」
「だって……」
 待ち惚け状態だし、一緒にいるのがアノ〈恭爺〉さんだし、さらに言うとお腹も空いてきたのだ。
「失礼な人ですね」
 なにっ、私の心を見透かしたのか?
 私が獣のごとく喉の奥で唸れば、彼はそれを面白そうに見つめて笑みを浮かべる。しばしの不毛な睨み合いの結果、私ははぁと嘆息して負けを認めた。〈恭爺〉さんは一人、ほくそ笑む。いや、これは勝利の微笑みってヤツかな。
 誠に不本意ながら〈恭爺〉さんとは随分打ち解けてしまった気がする。
 欠伸を噛み殺し、何時ぐらいなんだろうなぁと考えてみた。夜の気配が既に色濃く、気温も心なしか落ちたと思う。……というか絶対、この部屋が寒いのだ。何だろうコレ、冷気? いや霊気??
 二の腕を擦っていたら、〈恭爺〉さんが視線を向けてきた。
「上着を貸しましょうか?」
 おっと。
 私は殆ど閉じかけていた目をいっぱいに開いて驚きを示した。目尻が痛いぐらいに。
「いえ、いいです、結構です。遠慮しておきます」
「そうですか」
 吃驚した、幻聴かと思った。〈恭爺〉さんにもそんな気遣いが出来るんだな。あぁいや、寧ろ彼は駆け引きに長けているだろうし、人のご機嫌を取るのはお手の物であるはずだ。
 その後、〈影〉の人がお姫様の到着を伝えに来るまでの間、私は相変わらず壁にだらしなく寄り掛かり、ぼうっと過ごした。ぼうっと、というか実は微睡み状態だったんだけれど。
 ここだけの話、少し離れた場所にいる〈恭爺〉さんも片膝を立てた姿勢で虚ろな目を床に向けていた。何やらお疲れらしかった。……というのは後になって気付くことなのだけれど。
 穏やかな時間はいつだって唐突に、跡形も名残も素っ気もなく終わりを迎え、二度と戻って来なくなる。
 何の前触れもない。
 〈恭爺〉さんがふっと夢から覚めたかのような顔つきになり、その場に立ち上がった。
 彼の視線は戸の方に向いている。
 何だろう? と私は少し姿勢を変えたけれど、相変わらず呑気に座ったままの状態で彼の様子を見守った。
「姫がじきいらせられます。ご準備を」
 と、これは〈恭爺〉さんの台詞ではない。
 聞き取りにくい低い声が戸の向こう側でそう言ったのだ。おそらく〈影〉の誰かなのだろう。
 足音とか全っ然聞こえなかったんだけど、何故〈恭爺〉さんは気付いたんだろうか。昨日もこんなことがあった気がする、と私は回想した。
「光さん」
 〈恭爺〉さんが私を振り向いた。私は内心ちょっと驚いた。その時の彼は強張った笑顔を浮かべている、ように見えたから。
 うーん。私ってどうも嘘が吐けない体質らしいんだよね。お母さんにも言われたことがあるけれどさ。
 そのぎこちない笑顔に、私は驚きを示してしまったらしいのだ。
 それで、多分間違いなく〈恭爺〉さんは鏡で見なくても自分が今どういった顔をしているのかが分かってしまった、と。
 別に、それの何が悪いというわけではない。
 ただ少し、次に彼が浮かべた完璧な微笑が怖かった。
「聴こえましたね」
 何が、とはさすがに問うまい。間抜けすぎるので。
「〈恭爺〉さん」
「大丈夫」
 私、傍目にも分かるほど怯えきっていたのだろうか。
「大丈夫ですよ」
 〈恭爺〉さんのゆったりとした、あやすような声に悲しくなってしまうのは何故なんだろう。
「呪術円の中に戻って下さい」
 命令口調ではなくそう言われ、私は変にのろのろとした動きで最初に居た片方の円の中に戻り、正座した。ちょっとふらついてしまったが、自分、大丈夫だろうか。その、精神的にね。
 緊迫しているのはこの空気か、それとも私自身なのか。鼓動が速まって息苦しくなる。息の詰まる感じ。
 切実な「何故」が浮かぶ。
 なんで、私だけでなく〈恭爺〉さんまでもが緊張しているの?
 軽口の叩けない雰囲気に唇を噛み締めてじっとしている私のごく傍らに、彼は寄って来た。屈んで、懐から何かを取り出す。折り畳まれた紙? 不思議に思って見つめる私の側で、彼はその紙をかさりと開いていった。何かが包まれていたみたいだ。
 出てきたのは、小さな丸い粒。色は、光沢のある黒。
 私は虚ろな笑みを彼に向ける。ほら、やっぱりね。来ると思ってたらほんとに来たよ、情け容赦なく最早恒例行事と化した嫌な予感の到来サ。
「何デスカ、これ」
 この場合片言で無邪気に尋ねるのは間違ったアクションではないよね、うん。と私は拭いきれない不安と悲しみの中、納得する。
「薬です」
「見ればわかりますって。だからその、一体何の」
「眠りへと誘う」
「あああ犯罪ですよ!」
 自分でも悲痛と思える声で叫んだら、〈恭爺〉さんが淡く微笑んだ。騙されるものか。
「何のつもりですか一体。こんな話、聞いてませんけど?」
「覚醒時に霊力を受け渡すのは危険かもしれませんので、配慮ですよ」
「何だそれ! ……危険って具体的にどんなですか」
「拒絶反応を起こすかもしれません」
「臓器移植!?」
「?」
「いやいやいや。いやいやいや、いや! 落ち着け自分!」
「とりあえず落ち着きたいのでしたらその煩いお口を閉じるべきかと」
「貴方も黙っていて下さい」
 私は白い紙の上でやけに映える漆黒のそれを凝視した。
 訳が分からない。何だこの展開は。私、もしかしてここの人達に騙されているのか?
 ああ急に菩提さん達に会いたくなってきたし! なんか、帰りたい。自宅じゃなくてもいいから菩提さん達の町に戻りたい。平和に暮らしたい。
 だってこれ、これ!
「手を出して下さい」
「うう」
 〈恭爺〉さんがその黒い粒の薬を嫌がる私の掌の上に落とした。
 犯罪の匂いがする。寧ろ犯罪の匂いしかしない。
「さあ飲んで」
 嫌だーーーー!! と内心泣き叫んだ。そして掌の上でテカっているそれを投げ飛ばしたい衝動に駆られ、必死で耐えた。
 そうだ、落ち着け。落ち着け。
 ちゃんと自分の役目を果たさなきゃ帰れない。
 よく考えてみれば至極当然の道理じゃないか。無償の愛なんてモノは家族間にしか存在しえないもの。つまりそれ以外の他人との関係には常に有償が付き物であると、これは誰もが知っていて否定しない人間根本の原理である。だから私は我が儘言ってないでちゃっちゃと役目を果たすべく、この黒い物体を嚥下する必要がある。どうしようもなくある。
 で・も! だ。
 私は隣の、結構近い距離にある〈恭爺〉さんの整った顔を睨みつけた。不可思議なワインレッドと視線が絡む。が、彼は痛くも痒くもないという具合で軽く受け流してきた。私は頭を掻き毟りたいほど不満なのだが。
 詐欺に遭った気分。
 「眠らされる=無意識状態のうちに儀式(?)完了」ってことはつまりさ、お姫様との対面は叶わないわけじゃないか。どころか、面と向かってお話をするだなんて遠い夢のハナシになる。
 予定が大いに狂ってしまった、悔しくてやり切れない。お姫様に訊きたいことが沢山あった。だって彼女が私をこの世界に喚んだ張本人であるわけで。
 〈恭爺〉さんから視線を逸らし、ぐっと下唇を噛んで掌の上のモノを睨んだ。
 あぁホント、これからどうしようか。お姫様の真意が聞けないというのにこのまま利用される私って一体? と甚だ疑問に思ってしまう。
「光さん」
 静かに、けれど急かすような響きを持った低音に頭ががんがんとする。このイラツキの源泉はどこなのか? あぁ、この現実が不満なんだ私は。当初の思い通りにいかなかったから。それって子供みたいな理由だよね。
 もういい加減、覚悟を決めてしまおうか。
「飲めば良いんですね」
「ええ。お願いします」
 お願いされたらされたで反発したくなるが。
 私は深呼吸ののち、断腸の思いで(というと大袈裟だけれど)眠り薬を飲み込んだ。
 あぁ飲んでしまった。とさっそく後悔の念が押し寄せてきた。
「大丈夫ですからね」
 もう、それは効力の無い魔法だよ、〈恭爺〉さん……と私は内心すっとぼけた突っ込みを入れる。まだ眠気は遠い。即効性の眠り薬程危険なものもないと思うので、これには少し安心した。副作用とか無さそうだ。うーん、なんとなくね。
「〈恭爺〉さん」
「はい。何ですか?」
 けれど今飲まされたのが睡眠薬ではなく毒薬である可能性も否めないという考えが唐突に湧き、私はしっかり隣の人物の瞳を見ておこうと思い立った。毒薬だったら、これで見納めになるかもしれない。私はどうもこの世界の住人たちの瞳を覗き込むのが趣味になりつつある。だって誰も彼も個性的な色を乗せていて、目を奪われるのだ。今のところ一番のお気に入りは黒梅の星空を彷彿とさせる瞳。……でも、今心から見たいと願うのは今見ているワインレッドの、限りなく反対色を抱いた瞳だった。あの淡い色。ちょっと残念だなあと思う。〈恭爺〉さんの瞳の色も十分魅力的だけれどね。
 じわりと睡魔が忍び寄って来たのを感じた。でもこれだけは言っておかないとと奮い立つ。
「約束、守って下さいね」
「約束……?」
 ええい惚けるんじゃない、こっちはもうあと少しの命、いや覚醒時間なのだ。
「私の働きに応じて云々、という件について、ですよ……」
 ぐらりと体が傾いたのが分かった。私に対して垂直になる床の面。眠り薬で眠りに付くのは、後頭部から無理矢理に引き摺り落とされるような錯覚を起こすのだと初めて知った。
 意識を失う寸前、〈恭爺〉さんの「ああ」と納得したような表情を見て私はほっと安堵した。思わず口元が緩んでしまうぐらいに。
 約束をちゃんと覚えていてくれたということ。
 もう一つ、どうやら私には目覚めが約束されているらしいということによってだ。


 ひたすらに暗くて、どこまでもどこまでも落ちていく感覚だけがあった。
 嘔吐感を誘う浮遊感がしばらく続いて、そのうちに気付くと両足はちゃんと地面に付いていた。いや語弊がある。足をつけることの出来る何かが不意に現れたと言った方が多分、正しい。多分。感覚的な問題であるので自信がない。何せ辺りは真っ暗で、何も……それこそ自分の足元も、顔の前に持ってきた掌ですら見えない状態だったのだから。
 それよりも、私は何故こんなことを思っているのか。夢の中であるはずなのに。
 と、首を捻った私の前に、唐突に世界が開けた。
 夜の闇を切り裂いて、昼の光が視界いっぱいに溢れ返る。
 あまりの眩しさに私は腕を翳して目を庇った。目を眇めて無理矢理に見てみれば、そこは見知った空間だった。虚を突かれた私は茫然と腕を降ろす。もう眩しさは感じなくなっていた。私の桿体細胞は順応性に優れているんだろうか、なんて意識の片隅で感心したのはどうでもいい話である。
 私が立っていたのは、他でもない、〈御殿〉の庭園だった。案内してもらったばかりであるので見間違えるはずがない。
 敷き詰められた白色の丸石は確かに庭園にあったそれである。さらには念のため振り向いた際に視界に飛び込んできた巨大な建物は、間違いなく主殿、それだった。
 ううむ、これは果たして夢なんだろうか……と冷静に考える自分が謎だ。
 しかし、私は急に違和感を覚える。
 建物の外壁の色が、少し私が知っているものとは違う。どこまでも純粋な白ではなく、仄かに黄色みを帯びた生成り色とでも表すに相応しい色合いだったのだ。
 でもこのリアリティーも一概には否定できないんだよね。だとしたらこれは一体何なのか。
 夢ではないとしたら、一体。いや夢なのか?
 おそらくこの現状に最も有効であろう方法を思いつく。悩んでいないで、歩いてみればいい。
 ということで、私は一人歩き始めた。この辺りの造りは覚えている。
 建物に沿って歩き、角に差し掛かった。その時、あどけない高域の声が私の耳に届いた。だから私は踏み出してしまっていたら誤魔化しの利かなかったであろう一歩を、寸でのところで止(とど)めた。
『姉上!』
 うん? 姉弟なのかな。いずれにしても子供だ。珍しい。
 私は傍から見たら不審であることは百も承知で、こっそりと影から様子を窺った。
 髪の長い少女が駆け寄って来た少年を振り返る。私はちょっと驚いた。これはあくまでも予測……だが、限りなく確定に近い予測だ。二人とも貴族なんだと思う。纏っている着物が絢爛豪華なのだ。殊に少女に関しては華美、華麗の二文字に尽きる。濃い赤色の長い髪を一部分だけ結わえているのだけれど、その紐が豪奢な金色で、昼の太陽の光を浴びて輝いて見えた。凄く可愛らしい子だ。いや、断っておくけど私、ロリコンじゃないからね。と誰に対してなのか胸中で弁明を試みてしまった。
『姉上』
 少年がもう一度、今度は少女の目の前まで来てそう呼びかける。何歳ぐらいだろうか。五、六歳? 少女より頭一つ分ぐらい背が低い。少年の髪色はあまり赤みを帯びていない茶色だった。こう言っちゃなんだが、然程似ていない姉弟である。少女の方はやたらと落ち着き払った雰囲気を纏ってはいるけれど、多分まだ十一、二歳といったところだと思う。背は私と同じぐらい……って自分で例えて悲しくなったが、まあいいや。忘れよう。うん。
 それにしても。
 少女は物凄く美人だったが、吃驚するほど無表情だった。何を考えているのかよく分からない眼差しで弟らしき少年を見下ろす。彼の二度の呼び掛けに対しての返事は結局、無かった。
 少年は息を整え、一生懸命少女に話しかける。
『お体に障りますから、戻られるようにと、父上が……』
 ん? 今何て言った……?
 お父さん、娘に対してめちゃ敬語を使っている!! と私は驚愕を通り越して唖然とした。だってコレってアレだ、いや何がアレでコレなのか意味不明だがともかく、日本の古典文学とかによく出てくるパターンじゃないか。自分の子供に敬語使ったりするやつ。って何が言いたいのかさっぱりだな。要するにこうして間近で見て、私は大いに驚いたということである。
 少女は少年の言葉には従わず、返事をすることもなく、ふらりと主殿とは反対方向へ向かって歩き出した。
 おいおい大丈夫か、と他人事ながら心配になった。私が助け船を出すべきかとも思ったが、今出ていくのはちょっとお節介が過ぎる気がする。もう少し様子を見て……。
『姉上!』
『煩い』
 低く感情の籠らない、けれども少女らしいソプラノの声が、弟の呼び掛けをそう一蹴した。
 えっ、と、傍で見ている私まで「グサリ」となったのは、気のせいだろうか。
 少年は必死に後を追って、少女の前に立ちはだかった。その健気な様子に鼻の奥がつんと痛くなる。いつかの自分の姿が重なったのだ。私には兄弟はいない。けれど、年の離れた従兄がいる。彼は無愛想で、あまり構ってくれない人だった。でも理由もなく私は彼に懐いていた。構って欲しくて、鬱陶しいくらい、余計に疎まれるんじゃないかといった程度には、しつこく追いかけ回し、遊んでと強請った。初めの頃はちょっと逃げる素振りを見せたりうろたえた表情を浮かべるだけで決定的な拒絶は無かったのだけれど、ある時彼が友人と居る所に近寄って行ったらとんでもなく虐められた。特に友人の方に。それがトラウマになって、私は以来彼に近付かなくなった。寧ろ避けるようになったぐらいだ。今はもう彼は完全なる社会人で、大人で、結婚もしていて、私と会うと穏やかに接してくれるけれど、私は彼に優しくされるほどに昔を思い出しては切なくなるのだ。要するに彼は過去の、淡い片想いの相手だった。
『姉上』
『煩い』
『姉上っ』
 二人の声ではっと余計な意識を遮断する。見れば少女が引き止めようと袖を掴んできた少年にぶちギレる瞬間だった。
『気易く触れるな、汚らわしい!』
 また、「グサリ」。
 でも真に傷付いたのは私ではなく直接その言葉を食らった弟君に決まっている。
 言い過ぎですよ、お姉さん……と私は内心少女を咎めた。汚らわしいって、ねえ。
『あ、ご、ごめんなさい……』
 謝るな少年よ、君は悪くないっ!! と今度は内心少年を激励する。傍観者ってなんて楽で身勝手な立ち位置なんだろうか。申し訳ないぐらいだ。
『良いか、よく聞け。父上は私を案じてなどいない』
『そんなことは』
『黙らぬか、誰が口を開いてよいと言った?』
『ごめんなさい』
『お前も私に関わるな』
『え……』
『お前も、彼奴等と同じだ。微塵も案じてなどいないくせにそのような顔をしよって。まったく気に食わぬ溝鼠めが!』
 どうしたのだ、何があったのだこの少女に。私はかなり心配になった。
 普通なら散々邪険にされて悲しみに打ち拉がれてもおかしくないところを、少年はめげなかった。どころか強い瞳で少女を見上げ、確固たる様子で言葉を紡いだ。
『貴女を案じております。いつも、どんな時でも』
 ちょっと告白っぽい、なんて第三者の私は呑気に思ったりしたが、そういえば姉弟なんだった。
 少女の反応が気になった。これだけ一途に慕われていると知って、少しは気が変わったりしないだろうかと。
 他人ながら期待を抱いて様子を見守った。けれど、その期待が適うことは結局無かった。
『お前の言葉など信じるものか。帰れ』
 少女が少年を突っ撥ね、庭園の奥へと消えて行く。尻もちをついた少年はしばらく目を見開いたまま、その場で呆然としていた。余程ショックを受けているのか、瞬きすら出来ないようだった。
 そして、漸く人間らしく瞬きが出来た瞬間。
 ぽたりと、透明な雫が彼の大きな瞳から零れ落ちた。
 あ、と思った。
 そうだ、あれだけ首尾一貫と拒絶されて、傷付かない方がどうかしている。
 私は残酷にもその瞬間までは完全に傍観を決め込んでいたのだ。その事実に慄然もしたが、何よりも。
 途端に少年の悲しみが乗り移ったかのように胸を締め付けてきた。息が出来ない、何かが溢れ返る。
 おかしかった。それは単なる夢ではなかった。
 本当に、その時の少年の感情がそのままに、私の感情となった。
 悲しい。孤独ではない。寂しさでもない。愛が伝わらないことが、何よりも辛い。傷つけられたという事実から生ずる自分本位な感情などではなく、ただひたすらに姉へ寄り添いたがる心が泣いている。だって、違うのだ。自分なんてどうでも良い。溝鼠でも、その存在を認めてもらえたならそれだけで幸せだった。貶められても我慢するし、姉以外の人間に邪険に扱われることはもう慣れっこだ。だから、だから、本当に自分は姉が好きで、大切で。この気持ちは微塵も嘘じゃない。なのに微塵も信じて貰えない、それが悲しい。
 悲しいと千回叫んでもまだ新たな「悲しい」が生まれる。無限に生まれる「悲しい」が全部全部覆い尽くして、自分自身をも飲み込もうと大きく口を開く。山積みになった「悲しい」は、歪んだ絶望の顔をしていた。
『姉上』
 自分がそう呟いたのか、それとも少年がそう呟いたのか、判別が付かないほどに私と彼の心は同一だった。



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