第二幕:05



「何事ですか!」
「おわあああっ」
 鼠君を泣く泣く見送っていたところ突如横から鋭い声をかけられ、私は情けない悲鳴を上げつつ声がした方を振り向いた。
 闇に紛れて黒装束の人物が立っていた。緊急事態だったために裸足で出てきてしまった上、燭台は部屋に置きっぱなしである。それなのに鼠君にしてもこの黒装束の人物にしても、私の肉眼にははっきりと姿が見えていた。半分寝ぼけていたし驚いてどきどきしていたしで、その時の私がその異様な現象に気付く余裕はなかったのだけれど。
 だ、誰だろう? と私は身構えた。例によって頭部全般、その他諸々がきっちりと隠されているので誰なのか判別がつかないのだ。
「どうされました、このような時間に」
 黒装束の人物が先程と変わらぬ厳しい声を発しつつ歩み寄って来た。思わずそっちこそ、と内心で突っ込んだ私の全身を素早く確認すると、漸く声音を和らげる。
「ご無事なようですね。良かった」
「……ん?」
 聞き覚えがあるような、ないような声だ。
「あ」
 ふっと声の主の姿が脳裏に閃いた。金髪のストレート。先程までの張り詰めたような鋭い声はまるで別人のようだったが、多分そうだ。
「もしかして、梧桐さん?」
「…………ええ、よくぞ気付かれましたね」
 若干引き攣ったような声で言われた。だって気付いてしまったのだから仕方がない。
「梧桐さんは、どうしてここに?」
「……見回りです」
 どこか不機嫌そうに返された。聞いちゃ不味かったのだろうか。
「あれ? でも、お一人で、ですか? 他の方々は」
「風邪を召されますよ」
 うっ、私、何やら邪険にされている!?
 がーんとショックを受けて肩を落としていると、梧桐さんがじっと見つめてきた。顔に何かついているのかもしれない。だって私の部屋、鏡が無いのだ。これは一乙女としてちょっと不満だったりする。
「……私の、勝手な判断で」
「ん?」
「ですから、見回りです。私の独断で、勝手にしていることで……」
 困惑しながら言い募る梧桐さんがいた。ああ、さっきの話の続きか。
「大変ですね」
 私は感心し、彼を労ってみた。けれど梧桐さんはなんとなく気まずそうな、そして微妙に陰鬱な気配を漂わせた。どうしたんだろう?
 今の発言が不味かったのかぁと私が一人悩み始めた頃、梧桐さんが口が開いた。
「……もっと、大変な任は幾らでもあります」
 あれ?
 私は奇妙に感じた。なんというか、ギャップがある。先程駆け寄ってきてくれた時にはもっとキリッとしたいかにも頼りがいのある雰囲気があったのに、今の彼はなんだか、危なっかしい。まるで崖っぷちに立たされているかのようだ。
 大丈夫かなぁと他人事ながら心配になる。時間も時間だし、睡眠はちゃんととっているのかな。
「ですが、私は毎回外されるのです」
「んん?」
 若干寝惚け気味の私は素っ頓狂な声を出してしまった。頭が上手く回らず、彼の話の終着点が見えない。
「にも関わらず私の給金は他の者と変わりない。私たち〈影〉の者は何事も連帯責任で、与えられる報酬も全て等しく配られる。例えその者が任務に不参加であっても」
 ええと。
 梧桐さんは要するに、他の人たちに申し訳なくて自主的に見回りをしている、ということだろうか。
 この黒装束を纏った人達の呼び名も分かった。〈影〉の者。やはり忍者じみたものを感じる集団名だ。
「せめてもの罪滅ぼしに。こんなことでもしなければ、頭領に合わす顔もございません……」
 頭領って、お頭……じゃなくて、朝影さんか。朝影さんって面倒見が良さそうだ。だからこそお世話になっている側としてはこの人の役に立ちたいって気持ちが余計に強まるのかもしれない。
 梧桐さんは深く項垂れているご様子だった。表情は見えないけれど、雰囲気だけで相当落ち込んでいるんだということが知り合って間もない私にもわかる。
 あぁ、そういえば。
 梧桐さんにはご恩があったということにふと思い至った。牛車の中で渋る朝影さんを説得してくれたのだ。おかげで私は三人の名前を知ることが出来たし、その上御顔まで拝見させてもらった。
「梧桐さん」
 私は彼に笑い掛けてみた。慣れないことで、少し引き攣ってしまったような気もする。
「さっきの梧桐さんは、結構いい線いってたと思います」
「は……、線?」
 訳が分からないという顔をされる。私は彼が意味を掴んでくれるのを待ったが、結局今の一言では理解出来ないみたいだった。
 ううむ、仕方ない。もう少し言葉を紡いでみよう。
「さっきの梧桐さんは、格好良かったですよ」
「…………え?」
 梧桐さんがぴきりと変な姿勢で固まった。私を振り向きかける途中の、微妙な体勢。首が痛そう。
 毎回任務から外されるだか何だか知らないが、第三者から見ればそんなものだ。駆け付けてきてくれた時の彼は、梧桐さんだって私が気付かないほどに凛々しかったワケで。ああでも、彼が求めているのはそんな言葉じゃないのかも。私は実力もあるんじゃないかなって思う。ただ、ほんの些細な部分に不安要素があるから、任務から外されたりしてるんじゃないかなぁとか……。違うかな。それをどう伝えたら良いのか、上手い言葉が思いつかない。何せ寝惚けているので。
 まぁでも、逆に寝惚けているからこそ出会って間もない人を相手にあんな大胆な発言が出来たとも言える。
「それに、ええと、牛車の中で、私の味方してくれたじゃないですか。あれ、嬉しかったです。お頭が相手だったし、勇気の要ることだったんじゃないかなぁと」
 妙な沈黙が訪れる。
 あれ、あれ、もしかして今の私の言葉って余計なオセワってやつ?
 気まずくなってきた辺りで、梧桐さんが何やらはっと肩を強張らせた。
「光様、お体に障ります。そろそろ部屋に戻られた方が良いでしょう」
 と促され、私は縁側に上がった。もしかしてスルーされたのだろうかと少し落ち込んだ。
「梧桐さん」
「は、はい」
「見回り、まだするんですか?」
 縁側に上がった私と地面に立っている彼の目線の高さは同じになっただけで私の方が高くなるということがない、という衝撃の新事実にさらに落ち込みつつ、尋ねてみた。
「ええ、そうですが……」
「どの辺りを?」
「……どの辺りを?」
 鸚鵡返しして、梧桐さんが私をまじまじと見つめてくる。
「そのようなことを知って、いかがなさるおつもりですか」
 むむ、警戒されてしまったようだ。それに今日は同じようなことを〈恭爺〉さんからも言われた覚えがある。
 私は慌てて首を横に振った。ついでに両手もぶんぶんと振り翳して身の潔白を証明しようと試みる。
「いえ、特に深い意味はなくて。ただちょっとお話出来ないかなぁと」
「お話、ですか?」
 梧桐さんが困惑したような気配を滲ませ、しばし思案したようだった。
 まぁ多分無茶な話だろうな、とは思った。こんな怪しげな時間に二人きりで居て、もし誰かに見つかりでもしたら良からぬ誤解を招くのが目に見えている。しかも私が子供だと認識されてしまった折には梧桐さんにあらぬ嫌疑がかかる可能性も――
「良いでしょう。お望みとあらば」
 良いの!?
 私が目を見開きさらには身を引いて大仰に驚いていると、梧桐さんが首を傾げた。その仕草と黒づくめの怪しげな見た目とのギャップがちょっと可愛かった……と言っては失礼か。
「何かご不満でも?」
 とんでもないっと私は頭を何度も大きく横に振り、振り過ぎて失神しかけた。


 先程梧桐さんが私を部屋に戻るよう促した時、実は女官用部屋の中で人の気配が動いたらしい。ということで私は一旦部屋に入って隣の様子を窺った。さすがに勝手に覗くのは気が引けたので、隣の部屋に続く戸の前で耳を欹ててみた。人が起きているような気配は感じられないんだけど……。
 私はふむ、と少し考えた後、部屋の寝台に細工を施した。人が寝て見えるよう簡単に膨らみを作ってみたのだが、どうだろう。中々の出来映えではないか?
 燭台を持ち、念には念を入れ硝子戸にカーテンっぽい布を引いて中から外が見えないようにした。これで完了だ。
 縁側に戻ると梧桐さんに何か上に羽織るようしつこく注意されたので、寒くないのになぁ、と私は内心文句を垂れつつしぶしぶ紺のニットベストを寝巻きの上に着てから戻った。その際梧桐さんに奇妙な目で凝視されたのは言うまでもない。
「ご相談でしたら〈恭爺〉様に直接された方が得策かと思いますが……」
 縁側に二人並んで腰を落ち着けると、梧桐さんがまずそう口火を切ったので、「そんな、相談って程のことでもないんですけど」と私は即座に否定した。というか、〈恭爺〉さんには言えないから彼に言おうとしている、というのが本当のところなんだが。
「では、何でしょう。何か私に質問したいことでも?」
 梧桐さん、察しが良い! と私は感心した。同じ言語を使っていても時々全く話の通じない人っているからね。
 私はうーん、と少しの間考え込んだ。隣の燭台の灯りが頼りなげに揺れている。しまった、風除けの付いていないタイプを持ってきてしまったな、と頭の片隅でちらりと思う。
「……〈魔羅〉、って、この辺りにもいたりしますか?」
 悩んだ末の私の質問に、梧桐さんは迷いなく頷いた。
「ええ、無論。どころかこの辺りが奴らの本拠地であることは有名でしょう?」
 私の心臓がいやに跳ね上がる。勿論トキメキなどとは程遠い、寿命が縮む類の動悸である。
 どこから突っ込めばいいのだろう。
「あの、私、そういうこと、よく分からなくて」
「え? ……あぁ、失礼しました。貴方は記憶を失われているのでしたね」
 梧桐さんのその台詞に、あれっと私は目を丸くする。梧桐さんは私が異世界から来たってことを知らない? 〈影〉が〈恭爺〉さんの直轄の組織っぽいからてっきりそういった事情も知らされているものとばかり。忍者系の機密組織ではないということだろうか?
 じゃなくて、話に集中しよう。
「けれどもご心配は無用です。〈御殿〉と〈蓮華ノ町〉は精鋭揃いの第一師団が守護しておりますので」
「第一師団……」
 やたらと目付きの鋭いあの人は、確か第二師団だったよね。
「あ……、梧桐さん達〈影〉の人って守護軍ではないんですか?」
「ええ、そうです。私達はとても守護軍に入るには霊力の足らない者たちばかりです」
「えと……どういうことですか?」
「守護軍を志望したが霊力が足らずに落第した、という者の中から、特に身体能力の優れた者が〈影〉に選抜されるのです」
「…………」
 それって、凄いことだよね。やっぱ梧桐さんって凄いんじゃないか。
 私の沈黙を別の意味に受け取ったらしい梧桐さんが説明を加える。
「〈影〉を指揮しているのは〈恭爺〉様です。守護軍の指揮は本来姫がとるのですが、現〈穢れ姫〉様はそれも〈恭爺〉様に一任してしまっている状態で、実質〈恭爺〉様が全ての指揮をなさっていると言えるでしょう」
 ……ん? お姫様、サボリ症なのか?
「えっと、じゃあ、〈影〉のお仕事って」
「はい、守護軍が〈魔羅〉討伐を主たる役としているのに対し、〈影〉の者は人間絡みの任を専門に請け負っております」
 あれ、やっぱり忍者で間違いないのか?
「貴族の役はご存知でしょうか」
「あ、いえ」
 忘れかけていたが私、一応貴族って設定なんだった。
「貴族とは一族で〈御殿〉に仕えている者を指して言う言葉です。貴方の一族は代々〈紅蓮〉の政の根幹を司るような高官を輩出してきた名門なのですよ」
 貴族イコール公務員、ということだろうか?
「では、どうして失脚してしまったんですか」
 何気なく訊いてしまってから、私は顔を引き攣らせた。こんなことを知りたがるなんて変人だと思われるんじゃ。
 予想通り梧桐さんは固まった。何を言い出すんだコイツは、という内心の困惑が滲み出るようである。
「…………いえ、そうですね、貴方は当事者とも言える。しかし、お教えして良いものか……」
 すみません、実は当事者じゃないんです。と心の中で謝罪しておいた。
 梧桐さんは迷った末、語ってくれることに決めたらしい。
「貴方の一族が優秀な人材を輩出出来たのは、実は一昔前までの話なのです。徐々に名ばかりの一族と噂されるようになっていきました。ついには第一の地位から第四の地位まで落ち、中流貴族に。この事態に姫が背を向けたとして彼らは謀反を企てました。そこで我ら〈影〉の者がそれを鎮圧したというわけです」
 ドロドロじゃないか。というかそれって、所謂内乱というものなんじゃないか? 〈紅蓮〉って平和そうに見えるのに、化け物がいたり権力争いが盛んだったりと結構波乱に満ちていて驚く。
「因みに、初めは女性陣が〈恭爺〉様に取り入ろうとしていた模様ですね。けれども〈恭爺〉様が色仕掛けにかかるはずがございません。それが彼らの矜持を傷付け、謀反の引き金になったとも言えます」
 要らぬ付加説明を有難う梧桐さん……と私は遠い目をした。他人事ながら虚しい。相手が〈恭爺〉さんという見知った相手であるから余計に。
 ついでに貴族というものについて詳しく話を窺うと、下流と中流と上流の三種があるということがわかった。第一位と呼ばれる位階が上流貴族で、第二位から第四位までが中流貴族、第五位と第六位が下流貴族らしい。ということは中流と言っても第四位では下流一歩手前なのだな。第一位からのその転落ぶりは相当応えただろう、と密かに思いを馳せてみる。私自身は中流だろうが上流だろうがどちらでも良いといったかなり他人事じみた心境なのだが。
 一つ引っ掛かることがあった。じゃあ、私の役割って一体、ということである。私自身は霊力の受け皿としての役目があると分かっているからいいが、周りの人間には何だと思われているのだろうか? だって一族最後の生き残りなわけで、近親者の誰かに養ってもらうということは出来ないのだ。
 それも梧桐さんに尋ねてみようかと思ったが、それよりも気になることがあったので私は質問を変更することにした。あまり長々とこうしているわけにもいかないし、必要な情報は出来るだけ手に入れておきたい。ほら、もう空の色は漆黒から藍青へと変わりつつある。
「梧桐さん、〈魔羅〉ってどれくらいの頻度で出現するんですか?」
 私の突然の話題変換に一瞬戸惑ったように固まった後、梧桐さんが首を捻る。
「そうですね、出現、という言い方では……、毎日。そう、四六時中」
「…………え」
 耳を疑った。それじゃあ息つく暇もないじゃないか。
「じゃあ、今も? 今もどこかで守護軍の人と〈魔羅〉が戦っているってことですか?」
 恐る恐る尋ねると、梧桐さんがゆるゆると首を横に振った。あれ? どういうことだ。
「そういうわけではありません。〈魔羅〉はどこにでも存在しているので、四六時中、と申しましたが、四六時中絶え間なく湧いてきて常に斃す必要があるということではないのですよ。ただ、そうですね――今は、その可能性が高いでしょう」
 震えてしまった。梧桐さんは慣れているのか何気なく言ったけれど、私にとっては大いなる脅威だ。
「〈魔羅〉の主な活動時間は、夜なのです」
「ううっ、怖いよぅ」
「光様?」
 怯えた内心の声を吐露したら、梧桐さんが驚いたような声で呼んできた。どうでもいいけど、様付けとは恐れ多い。
「ご安心を。本拠地とは言いましたが、第一師団によって被害は最小限に抑えられます」
「でも、出るんでしょ?」
「それは諦めて下さい」
「ううう、酷いっ」
「えぇ? そんな……」
 〈魔羅〉って怖い。残酷だし、妙に無邪気だし、喋るし、うにょうにょと形が変わるし、うう、しかも生き物にとり憑いて操るし! こんな不気味で厄介な化け物がいていいわけ? 〈白狼〉、ほんと可哀想だった。ちゃんと成仏出来たかな? 化けて出て、瑠璃さんを苦しめたりしていないと良いな。
 梧桐さんが一瞬思案するように沈黙した後、こう問いかけてきた。
「光様は、〈魔羅〉に襲われたことがおありなのですか」
「ある」
 即座に肯定すると、少し驚かれた。
「それは……、恐ろしかったことでしょうね。しかし、一体どこで?」
「森の中で」
「森? どこのですか」
「〈南鐐ノ森〉っていう、〈淡紅桜花ノ郷〉にある森です」
「〈淡紅桜花〉、ですか……」
 余程奇怪な発言だったのか、梧桐さんはそれきり黙り込むと、深く思考に沈んでしまったようだった。
 〈魔羅〉について尋ねたのには、実は鼠君が関係していたりする。鼠の姿だったり鷹……じゃなくて鷲の姿だったりして、もしかしてこんなことが出来るのは〈魔羅〉だからなんじゃないか、なんて疑ってしまったのだ。今もその疑いは晴れていない。勿論鼠君が殺伐行為に及ぶ姿なんて想像出来ないし、彼を信じたいって気持ちは強い。でも、鼠君が質問させてくれる前に去ってしまったから、余計にそんな疑いを持ってしまう。態々傘を届けてくれた彼を信じたいんだけど、でも。
「あぁ、光様。そろそろ戻られた方がよろしいのでは」
 梧桐さんの言葉に顔を上げる。見ると、東の空が既に白んできていた。これはさすがに不味いかも。
 私はもはや意味をなしていない燭台の灯りを消して、立ち上がった。
「梧桐さん、無理矢理付き合わせてしまってごめんなさい」
「いえ、そんな。お気になさらずに」
 梧桐さんも立ち上がって私を見た。
 私は息を吸い込む。
「あの、一つお願いがあるんですけど」
「……何ですか?」
「今日のことは〈恭爺〉さんには黙っていてくれませんか?」
 これは意外な頼みだったらしく、梧桐さんが目を見張った。明るくなってきたために目元だけは窺えるようになった。
 だって今日(あぁ、もう昨日ってことになるのかな)、この国の内情について詮索はするなと〈恭爺〉さんに睨まれたばかりなのに、思い切り破ってしまった。私の働きに応じて云々とは言っていたけれど、私は今すぐに情報が欲しいわけで。実は元から自分で勝手に情報収集するってことは決めていたから、罪悪感は綺麗さっぱり全く無かったりする。……けれど、もしバレた場合に何を言われるか。よりによって彼が指揮する組織の人間だ。だからこそ確かな情報が得られるんじゃないかって期待が大きかったため躊躇なく引き止めにかかってしまったが、今となっては今後の私の命運は彼に握られていると言っても過言ではない。でもでも、梧桐さんは話しやすい雰囲気で、味方になってくれそうって勘が働いちゃったのだ。なんて言い訳を〈恭爺〉さんにしたら、単純すぎて馬鹿馬鹿しいと笑われるかもしれないけれど。
 梧桐さんは何やら深く思案しているようだった。しばしの沈黙を経て、彼は正面から私を見据える。
「では、取り引きをしましょう」
「えっ?」
 取り引き?
 その言葉の持つ響きに、私はつい「梧桐さんが〈恭爺〉さん二号に成り下がった!?」と狂いかけた。
 でも、梧桐さんの持ち出した交換条件は、このようなものだった。
「私の名を、他の者がいる前では呼ばないようにして下さいませんか? 同僚の〈影〉の者達の前でも出来るだけ控えていただきたい」
 理由はわからないけれど、それぐらいならお安い御用だ。私はものの二秒で頷き、その条件を呑んだ。
「有難うございます」
 何故お礼を? と私は不思議に思い、彼を見つめた。すると梧桐さんの目元が微かに和らいだ気がした。
 今、笑ってくれたと思う、多分。
 小さな幸せを手に入れたような気持ちになった。
「では、私はこれで」
 その時の彼の笑みの意味を知るのは、もう少し後の話。


 結構ギリギリだったみたい。
 私が部屋に戻り、硝子戸を閉め、もう時間もないしこのまま起きてしまおうと着替えを終えた瞬間、隣の女官用部屋へと続く戸が荒々しく開かれ黒梅達がまろぶように出てきた。
 一体どうしたの? と内心焦りつつ尋ねると、「硝子戸の開く音がしたのでもしや不届き者が光お嬢様のお部屋に侵入したのではないかと思いまして」、という返事が返ってきた。黒梅にぺたぺたと全身を触られて確認される。それでそんなに焦っていたのか、と私は納得し、昨日は暗くてよく見えなかったから、ちょっと外を見てみたくなって開けたと言い訳してみた。一応、信じてくれたみたいだった。……瑞枝以外は。
「随分お早いお目覚めですこと」
 瑞枝は明らかに私を疑っている胡乱な目で眺め回した後、ぼそりと低い声でそう言った。
 これって、デジャヴだ。
 思い出すのは〈繚華ノ町〉で捕縛された日のこと。今なら疑われた理由が何となく分かる。通行証を持っていない、どこから来たのかと問えば森から来たなどとぬかす奇怪な衣装に身を包んだ少女は、客観的に見て、確かに不審だっただろう。〈紅蓮〉には〈魔羅〉がいる。特にあの〈南鐐ノ森〉には〈白狼〉のような危険な獣も潜んでいるわけで、そこを無傷で進んできたとなれば普通の人間ではないと思われて当然だ。
 今もそう。疑われて当然といえば当然な気もする。記憶喪失で、生き残りで……って、勘の鋭い人ならすぐに気付くだろう。不審な点が多い上に都合が良すぎる話だと。
 郷に入りては郷に従えではないけれど、〈紅蓮〉の一般的な服装を纏うことで私に向けられる好奇や怪訝の眼差しは幾分和らいできたかのように思う。けれど、所詮は余所者なのだということをふとした瞬間に思い知らされる。そんな時には淋しさと同時に、「帰りたい!」って願いが改めて湧くのだ。
「さぁ、光お嬢様。参りましょう」
 食事を終え、諸々の支度を済ますと、黒梅が心なしか楽しげな声でそう告げた。
 こうして〈御殿〉施設見学ツアーが始まった。



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