第二幕:04



 私につけられた女官さん達は全員で四人だった。こんなにも必要なのかと謎に思ったが、うち二人は見習いらしい。成程ね。実質正式な女官の人数は二人というわけだ。これなら妥当かな?
 先刻〈恭爺〉さんに掛けられた言葉を思い出すと再び一瞬で瞋恚の炎が燃え上がってしまうが、確かに、側に同性の人間がいることは重要である。まず精神的に落ち着く。それに現実問題、とても男性には相談できないような事柄だって抱えているのだから。
 あのような年頃の娘に対して失礼の限りを尽くしきっている台詞の後では女官をつけてくれたことに関して〈恭爺〉さんに感謝の念など湧こうはずもなかった。けれど「いついかなる時にも周りの人間への感謝は忘れてはならない」というのが私のポリシーである。感謝の対象を〈恭爺〉さんからお姫様へと急遽変更し、私は心の中で懇切丁寧にお礼の言葉を述べた。ありがとうお姫様、助かった。感謝感激なのだ。
 湯殿には私の他には誰もいなかった。ほっとしてもいられない、今回はたまたま運が良かっただけなのだから。
「光お嬢様、そちらのお荷物は何ですの?」
 今私たち五人は脱衣所らしき広い空間にいた。壁際には大きな棚が備え付けられている。
 私に不思議そうな表情を浮かべて質問を投げかけてきたこの少女は、黒梅(くろうめ)という。かなり渋い名前だが可愛らしい、しかもスタイルの良い美人さんである。それに彼女は「黒」と名前についてはいるが髪も肌も心もどこもかしこも全く黒くはない。くるくると波打った癖の強い長い髪は真っ白で、艶がある。ぱっちりとした大きな瞳は深い青色を乗せていて、強いて言えばこの瞳だけが光加減によっては黒に見えるかもしれない。でも、私はなんとなく夜空の色だと思った。満点の星空を抱いた瞳。きらきらしていて、宝石の欠片を鏤めたみたいに綺麗だ。
 因みにこの黒梅が四人のまとめ役だったりする。
 黒梅が言うお荷物とは、私が〈蓮華〉の飲食店で店員さんにお譲りして頂いた服と高校の制服とが入っているトートバッグ的袋のことである。今の私の腕時計以外での唯一の手荷物だ。
「ええと、着替えの服が入ってるんだけれど……」
 私はちょっと照れつつ返答した。敬語を使わずに人と話すのが随分久しいことに思えたのだ。つい先刻〈恭爺〉さんに怖い顔で忠告されたばかりだったので、敬語なんてやめて欲しいっていう本音は隠して、かわりに自分が気さくな喋り方をすることにした。良いよね、これくらいは。それに記憶喪失の設定なのだから、喋り方は貴族っぽくない方が逆に怪しまれないような気もする。……貴族っぽい喋り方っていうのもよく分からないけれど、昔の日本ではかなりややこしい敬語を使っていたよね。身分が高い人が低い人に対して敬語を使ったりもするし……。ここは日本じゃないから、まあいいやと諦めておいた。細かいことは気にしちゃいけない。それくらいの気持ちでないと、とても精神が持たない。
「服、でございますか?」
 黒梅が僅かに目を見張った。そうか、そうだよね。手荷物が着替えの服だけなんて事態、普通は吃驚するだろう。
「えへ……服しか持ってないとか、ヘンだよねぇ」
 気色の悪い愛想笑いを浮かべてしまう。私も何故こんなことになっているのか……いや、どうもこの現実は自分の妙ちくりんな体質が招き寄せたらしいという事実は先ほど発覚したんだけれども。み、認めたくない。大体そこに私の意志は介在していないし、不本意過ぎるのだ。
 などと胸の内で言い訳していると、黒梅が真剣な表情で首を横にぶんぶんと振った。ど、どうしたんだ?
「そんなことはございませんわ。変だなんて、とんでもない。様々な御苦労がありましたでしょうに。よくぞ耐えられましたわ」
 私は激しく感動した。実際にはぽかんとした情けない顔になっていたと思うけれど、内心では滂沱と感涙を流していた。それこそ滝のように、涙の湖を一つや二つ作るくらいの勢いで。
 ――黒梅、なんていい人なんだ!
 今までに味わったことのない類の感動で胸がうち震えている。ついでにそのスタイルの良さを一割ほど分けてくれたら漏れなく神として信仰するぞっと私は余計な考えを抱いた。うん、本当に余計だった。先ほどまでの感激の情がふつっと途切れてしまったではないか。
 私はトートバッグ(ええい、この際そういうことにしてしまえ。事実を都合の良いように偽造工作だっ)の持ち手を両手でちょこりと掴んだ姿勢のまましばし考え込んだ。
「……光お嬢様?」
 ちらりと黒梅に視線を遣り、心を決める。よっしゃ。
 私は左腕に装着していた腕時計を外し、トートバッグの中に入れたあと、徐に黒梅に差し出した。
「…………」
 黒梅が私の差し出したトートバッグを凝視し、次いで私の顔を食い入るように見つめてきた。
 もうっ、そんなに見つめられたら照れるじゃないか。
 私は不気味にへらりと笑いつつ黒梅にバッグを押し付けた。中にはとても大切なものが入っている。彼女に預かっていて欲しいのだ。
「ちょっと、預かってて欲しいなと。駄目?」
 黒梅がさらに目を見開く。ちょ、目の表面が乾いていくが、大丈夫か? これでコンタクトだったりしたら悲惨な事態に……いや、それはないか。
 黒梅は一度ゆっくりと瞬いた。
 そして、きりっとした凛々しい表情になると格好良く私を見据えた。一体彼女の中でナニが起こったのだろうか。
「はい、確かに承りました。この黒梅、命に換えても光お嬢様のお荷物を守り抜いてみせますわ!」
 ……ん?
 命?
 って、何を言っているのだ!?
 仰天してしまう。い、命に換えてもって。
 私はわたわたと焦りつつ付け加えた。
「いやあの、別にそんな重大な物とかじゃないからさ……、個人的に大切なだけで。そんな事態になるとは思いたくないけど、君の命か私の荷物かどちらか一方を選ばなくちゃいけないような事態にもしなったらさ、それ捨ててくれて全然構わないからね?」
 いやほんと、うん、腕時計と服などのために命を擲っては絶対にいかん。私、償っても償いきれないよ。
 その前にそんな事態が一体どうすれば起こり得るのか、誰か教えて欲しい。


 銭湯に行ったことはないが、小学校や中学校の旅行行事の中でなら大きな共同浴場を使う機会があった。この湯殿はその雰囲気に似通っており、異世界にいるっていう現実をしばしの間忘れさせてくれた。余談だがシャワーは備え付けられていない。水道の蛇口も何処にも見当たらない。ただ湯船の縁には桶がずらりと並べられていたが。
 二日ぶりのお風呂万歳、と思わず口内で呟いてしまう程度には嬉しい時間だった。私は潔癖症ってほどでもないが、出来る限り身嗜みは整えておきたいと思う方だ。
 心身ともにリフレッシュした私が意気揚々と脱衣所に戻ると、女官四人衆がそれぞれの両手に大きめの布を携えて待ち受けていた。
 今となってはすっかりご定番の、嫌な予感到来の時間である。やあ久しぶりだね元気だった? と私は壊れかけた。
「じ、自分で出来っああ!?」
 抵抗の声も空しく私はばふっばふっと四方からタオルの猛襲に遭った。裸を見られるだけでも恥ずかしいのに、こんなのってない。奇声を上げずにはいられないってものだ。
「光お嬢様、お召しものはいかがなさいますか」
「えっ、何? 何て言ったの?」
 見習い女官の一人が何か問いかけてきたが、こんな状態で何を尋ねられても答えられないし、まず耳元でタオルをはたく音によって遮られて聞こえやしない。
 私は何とか小柄な見習いの二人を押しのけ、残る二人には懇願という形で拭くのを止めてもらった。ぜえぜえと何故かこんな場面で息を荒げつつ、私は四人にはっきりと言っておいた。今後はお風呂は一人で大丈夫だから、出来れば脱衣所の外で待機していて欲しい、と。
 見習いの二人は顔を見合せて困惑していた。今の発言って、この子たちのマニュアルから大きく逸脱したものである、とかだろうか。
 明瞭な困惑を示さなかったのは、やはり黒梅だ。以後気を付けます、と軽く頭を下げた後、例のトートバッグを手渡してきた。
「あ、ありがと」
「えっ? ……はあ、いえ」
 何故か私のお礼には困惑する黒梅。謎だ。
 私はバッグの中からいそいそと着替えを取り出した。この世界の下着らしきものも実は頂いている。あのお店、是非ともまた訪れてお礼の品を渡したいのだが、現時点での私の持ち物って以下略。うう、ひもじい。貴族なんて設定だが実はとってもひもじい。
「……んん? どうなってるの、これ」
 私が選んだのは湯殿に入る前まで着ていた例の誰かの瞳の色を彷彿とさせる緑系色の衣なわけだが、帯の結び方が思い出せなくて悩んだ。着付け(と言っていいのか謎だが)の殆どを手際良く女性店員さんが済ませてくれたので、実際は覚える暇もなかった。というのは自分の記憶力の悪さを棚に上げた不遜な言い訳でしかない。
 それよりも帯が、一体どうなっているのやらだ。
 悩んでいると、横からすっと枝のように細い手が伸びてきて、手早く帯を整えてくれた。この手の持ち主は黒梅ではない。
 ええと、確か。
「ありがとう、瑞枝(みずえ)」
「…………」
 なんとか笑顔を作ってお礼を言ったけれど、無言・無表情で見つめ返された。瑞枝はかなり無口なのだ。……うん、私も人のことをとやかく言える程お喋りではない。
 瑞枝は頭の後ろでびしっとお団子縛りを決めている、いかにも神経質そうな雰囲気の堅物な人物である、と思う。多分。まともに会話を交わした回数が皆無なので勝手な思い込みの割合の方が大きい。髪色は赤茶で、瞳も同系色だ。背が高くてひょろりと手足が長い。年齢は私や黒梅よりも確実に上なはず、なんだけれど……、うーん、〈御殿〉には年功序列の概念がないのかな? 年配の瑞枝の方が黒梅の下についているのだ。この辺りの仕組みはよくわからないな。そのうち訊いてみよう。
 参考までに他の見習い女官二人も紹介しておくと、どこか怯えたような潤んだ瞳を常にしている榛色の髪の子が浅葱(あさぎ)で、狐のような顔立ちをした桃色おかっぱ頭の子が篠(しの)という。二人はお互いをかなり気にかけているようで、よく目で会話をしていることがある。よく、といっても私とは出会って間もないのだが。
 黒梅が少し離れた場所から真剣な表情で私の全身を眺めたあと、満足げに頷いた。
「ふふ、光様にはこのお着物の色がとてもよく似合っていらっしゃいますわ」
「そ、そう?」
 黒梅に誉められると「いえいえそんな」と否定するのも忘れてひたすら照れてしまう。黒梅って変に捻くれたところや毒っ気がない。何を喋っても相手を絶対に不快にさせない才能みたいなものがある。
「あ、そうだ。黒梅、これ、持っていてくれてありがとう。重くなかった?」
 と私が尋ねると、彼女はにっこりと底の知れない笑顔を浮かべて答えた。
「いいえ? 私は鍛えておりますので」
 き、鍛えている??
 黒梅、やはり只者ではないな。実はくの一なんですとカミングアウトされても即座に納得して受け入れてしまえる自信がある。


 湯殿堂を出て私がこれから生活する部屋へと案内してもらった。とにかく、遠くて。一応人の案内がなくても大丈夫なように道を覚えようと試みたのだが、途中で頭がパンクしそうになった。迷路のような造りになっているのには訳がある。お姫様を暗殺しようとする不届き者がすぐには彼女の元へと辿りつけないようにする為だ。さらには暗殺者を待ち伏せ出来るようにと異様に曲がり角が多かったりする。一つ目右、二つ目左、三つ目左、四つ目右……、というように曲がる回数と方向とで覚えようとしたのだが、無理だった。大体、どの道も何ら特徴がなく似通っているので同じ道を行き来しているかのような錯覚を起こす。そのため周りの置物や天井の模様などで覚えるという技も使えない。もうどうすればいいのだ。つい自暴自棄になりかけた私だが、明日から〈御殿〉施設見学ツアーを催してくれるとの話を黒梅から伺った。是非是非そちらに期待しようではないか。何でも自力でこなそうとするのは良い心がけだが、時には妥協も必要である。
 ようやく到着した頃に時間を確認すると八時二十分だった。私はまずそこで食事をとらされた。いや、「とらされた」なんて表現は良くない。とらせてもらった。
 食事が終わると、女官は本来主人が必要とする時にのみ仕事をするってことが判明した。皆私を残してさっさと出て行こうとしたのだ。
「えぇ、そんなぁ。話し相手になってくれたりは?」
 と私が情けない声で呼び止めたら、黒梅だけが部屋に残ってくれた。後の三人は隣の女官用部屋で待機しているらしい。
 この長方形の部屋、十畳ぐらいだろうか。驚愕の広さでなかったことに心底安心している。部屋にある調度品は衣裳棚と寝台と卓ぐらいで、結構がらんとしているかもしれない。そういえば私のあっちの世界での自室には何があったかな、と考えてみた。まずベッド。勉強机に椅子、本棚が大小二点。うーん、実はベッドと本棚だけで殆どの空間が埋ってる感じなんだよね。中学時代の教科書がまだ片付いていない。あとは箪笥と、衣装ケースが段々と積まれている。日本って四季がはっきりとしているからどうしても服の種類は豊富になってくるよね、と言い訳してみる。箪笥の中身は服ばかりだ。
 さて、この部屋。縁側があり、そちらから外に出られるようになっているのだが、庭園風景が圧巻なのだ。今日は暗いので明日探索する予定になっている。
 それから黒梅と一時間ぐらいお喋りして、別れた。といってもすぐ隣の部屋で控えてくれているのだが。
 黒梅は十六歳だということが判明した。私も今年で十六になるわけだから、同い年なのかもしれない。暦の基準がわからないのでその辺りは不明である。
 おやすみなさいと挨拶して別れたは良いが、眠くない。寧ろ神経は高ぶって興奮している。今日一日で色々なことがあり過ぎた。今日だけで何人の人と知り合っただろう? 朝影さんに梧桐さんに七瀬さん、〈恭爺〉さんに、……直接会話はしていないし顔も見ていないけれど、お姫様。それから女官の四人。
 疲れは感じているが、中々緊張が解ける気配がない。
 私は寝台に寝転がってぎゅっと目を閉じた。既に服は寝間着なるものに着替えている。肌触りのいい薄っぺらい生地で出来た裾と袖の長い服だ。これも前合わせなのだが、若干ドレスじみたものを感じる。
 寝てしまえば良い。いや、きっとそうしなければならない。でなければくよくよと余計なことを考えて悩み、また泣いてしまう。
 私は目を閉じたまま眉根を寄せた。眠りたい。
 ……駄目だ。
 ちゃんと一人で考える必要があるんじゃないのか。検討しなければならない事項は幾らでもある。あり過ぎて山積みになる程に。
 落ち着いて、冷静に考えよう。
 ということで私は思い直し、身を起こして寝台の上にぺたんと座った。腕を組んで思考を巡らせる。
 まず一番真剣に考えなければならないことは、これからお姫様がなそうとしていることが正しいのかどうかっていう問題だろう。目先だけ捉えれば私は彼女の事業に協力し、そしてその見返りとして元の世界に返してもらうという、一見なんら問題のない綺麗な関係図が出来上がっているように見える。でも、絶対に流されちゃいけない。〈魔羅〉っていう化け物が関係しているのだ。結界を破壊したら、〈魔羅〉が流出する事態になるはず。〈恭爺〉さんの話では〈魔羅〉は元々この地に棲みついている所謂ネイティブな化け物だ。急に大幅な移動はしないだろうと思う。古来よりこの地に蔓延っていた彼らの勢力範囲が徐々に広がっていったことで恐れを抱いた時の帝が、〈紅蓮〉ごと封印してしまうような事態になったわけだ。ということで〈魔羅〉の拠点はたとえ〈紅蓮〉の結界が無くなったとしても、結局はここということになるのだろう。では結界を壊すメリットとは、そもそも何なのか。それが分からない。
 ……あぁ、待って。メリットならある。
 外の世界と上手く関係を結ぶことが出来れば世界各地から霊術師を集めて共同戦線を張り、〈魔羅〉の一斉討伐も可能になるはずだ。それに、途絶えていた外交が戻れば〈紅蓮〉は今より豊かになれる可能性が出てくる。経済の発展、学問の振興。メリットは幾らでもある――そう、こちら側には。
 それに、菩提さんのお母さんの言葉。この頃は物騒だからっていう。そのことも気がかりなのだ。もしかして最近になって急に〈魔羅〉の動きが活発になってきた、とかだったりするのだろうかと。よく考えてみればここ、結界の張られた限りある空間の中なのだ。〈魔羅〉がどんどん勢力を増していってその数に圧倒的に霊術師の数が追い付かないような事態になったら一巻の終わりじゃないか。なんてったって逃げ場がない。食うか食われるかの厳しい世界だ。自国の民が化け物達に次々と殺されていくのを黙って見過ごしそしてそのまま滅べとは、とても言えない。
 それに、他にも気がかりなことがある。
 〈魔羅〉って血を浴びることで強くなるらしいけれど、それって生物の「捕食」とは異なるんじゃないだろうか。その上〈魔羅〉が他の動物の餌になるとは考えにくい。ということは彼らは生態系を狂わす存在でもあるのだ。こんな話を聞いたことがある。ある島に本来存在しなかった生物が人の手によって持ち込まれた。元々その島に生息していたある生物が、その新生物の餌食となり、滅んでしまったという話だ。その新生物の天敵となる生物がその島にはいなかったため、数が異常に増えてしまったのである。生態系って絶妙なサイクルで出来ている。〈魔羅〉がそのサイクルに入ってしまえば狂うに違いないのだ。だって〈魔羅〉は滅ぼす一方で、例えば餌として他の生命の助けとなることがない。それも、〈魔羅〉が無差別に全種類の生命の命を奪うのなら少し話は別だが、それはないと思う。だってもし目の前に〈白狼〉と鼠がいたら、〈白狼〉より鼠を選ぶに違いないもの。ということは力を持たない弱い動物たちから順に減っていくという計算になる。家畜も襲うって話だから、結構直接的に人間も被害を蒙ることになる。
 だからなのだろうか。結界を破壊するのは、危険から逃げるのに十分な土地を確保するため?
 疑問が残る。仮に結界を破壊することに成功したとして、三百年間も閉ざされ続けてきた所謂「化け物の巣窟」たるこの国を、外の人間が受け入れてくれるのだろうか? ましてや協力なんて可能なのか。そう考えるとメリットはデメリットに変わる。
 ううむ。こう考えてみてもなぁ。結局は第三者なのだし……。
 出来ることならお姫様と直接、対談したいんだけれどな。
 その心のうちが聞きたい。目的とか理由とかじゃなくて、何を思ってそうするのか、もっと個人的なことを知りたい。そうしたらもしかすると私の心が動いて、例え良いことばかりが待ち受けているわけではないのだとしても協力するって決意出来るかもしれないのに。
 そうなのだ、お姫様が何者なのかよく分からないために素直に協力するって気になれないってのも実は、大きいんだよねえ……。
 〈恭爺〉さんは「国の内情に首を突っ込むな」って私の前ではっきりと示したけれど、お姫様の方がどうなのかはまだ分からない。
 ――そうだ、明日からお仕事が始まる。
 その時、手を触れなきゃいけないんだよね? ということはかなり距離が近いし、〈恭爺〉さんは言っていなかったけれどそれってつまり、「対面する」ってことなんじゃないかな。
 訊かなくちゃ。彼女とちゃんとお話ししたい。向き合いたい。
 そこまで考えたところでようやく眠気が襲ってきた。私は寝台の傍らにある小卓の上の灯りを消してから、寝転んだ。
 柔らかい布団に埋もれて目を閉じたら、唐突に誰かの柔らかな笑顔が鮮やかに蘇ってきた。困ってしまう。この瞬間まで考えないようにしていたのに、気が緩んだ所為なのだろうか。
 思わず自嘲が零れた。私って結構寂しがり屋なんだなぁと。
 菩提さん、もう会えないのかな。
 あの笑顔をもう一度見たい。彼が笑っていると無償に安心する。瑠璃さんは強い人だけど、何故だか瑠璃さんに「大丈夫」って言われるよりも菩提さんに「大丈夫」って言われた方が落ち着く感じなのだ。あの底なしの優しさにまた触れたい。あぁ、これって甘えなのかな? 少し違うような気がする。でも違うって、具体的にどこがどう違うのか……。
 そういえば、菩提さんは大抵笑っていたけれど、寂しげな表情を見せたこともあった。あれはいつ、どんな会話をしていた時だったっけ? 思い出そうとするけれど、前後の記憶の方が強烈で思い出したい肝心な部分の輪郭が曖昧になってしまっている。なんだっけ、〈魔羅〉の話だったかな。いや、近いけれど違う。なんだったっけ、霊力が……どうって話だったような……。
 そんなことをつらつらと考えているうちに、私は眠りへと落ちて行った。


 一体それからどれくらい時間が経ったのか、同日の夜の出来事だ。
『あれ、寝てしまっているな』
 私はどこかで聞いた覚えのある男性の声で目を覚ました。夜はまだ明けていない。外も部屋の中も真っ暗で、何も見えなかった。
 誰かがごく近くにいると気配で感じた私はがばっと身を起こし、大急ぎで燭台に灯りを燈した。火打ち石、使い慣れていない。せめてマッチとかないのかこの野郎っと焦るあまり胸中で悪態をついてしまった。
 あっ、点いた。
「誰?」
 短く尋ねつつ燭台を掲げて少し動かしてみると、何故か照らし出される鳥獣の顔。
 鷹なのか鷲なのか知らないが、猛禽類であることは確かだ。えらく鋭い爪に嘴をお持ちなのだ。
「……えっ?」
 一羽の鷹が、小卓の上で羽を休めている。それは何とか理解出来た。
 でも、さっぱり、全く、訳が分からない。
「何っ? 何なの?」
 混乱していると、どこからか冷たい夜風がひゅうと吹き込んできた。目を凝らし、縁側へと続く硝子戸が開いていることに気付く。そこから侵入したということだろう。
 ん? でも待って、先ほどの声って確か。
 完全に寝起きなため脳が上手く働かないが、確か、ええと。
『ごめんよ。起こしてしまったね』
 あ――。
 私はぎりぎりのところで隣の部屋で黒梅達が寝ているってことを思い出し、叫びそうになった自らの口を手で押さえた。
 鼠君!
 間違いない、何故か白い鷹の姿をしているが、この声は〈繚華ノ町〉で囚人生活をしている最中に出逢ったポッチャリ系白鼠君なのだ。
 何故? どうしてここに、というかその前に何故鷹なの??
 困惑する私を、鷹は優しげな目で見つめていた。その金色の瞳は闇の中でも強い輝きを放って、私を引き付けた。
『良かった、元気そうだね』
「う、うん」
 私は慌てて何度も頷いた。鼠君が会いに来てくれたのが嬉しくて、余計に元気だ。
『僕の言った通り、〈御殿〉に来れただろう?』
「うん。うんっ」
 私はまたも激しく頷いた。危ない、頭の振り過ぎで一瞬くらっときた。しかし、あまりに室内に研ぎ澄まされた静寂が満ちているために、下手に声を発しては隣の女官達を起こしてしまいそうで怖かったのだ。
『君に渡したいものがあるんだ』
「えっ?」
 鷹が、じゃなくて鼠君がそう言って小卓から床に降りると、何かを銜えて寝台の上に降り立った。
 細くて長い、黒いもの。
「か、傘っ? なんで!?」
 つい叫んでしまった。慌てて口元を押さえ、隣の気配を窺う。多分大丈夫、だと思う。
 鼠君の私に渡したいものって、あの運命を狂わせた雨の日に差していた、黒い、どでかい、私の(正確には父の)傘のことだった。
 両手で丁重に賜り、全体を確認する。一本骨が折れているみたいだけれど、間違いなくあの日に私が持っていた傘だ。
 どうして鼠君が持っているの?
 疑問が宙に漏れたのか、小卓に戻った鼠君がこう言った。
『ある人物からの届け物なんだ。全く人遣いの荒い……、あ、いや、こっちの話ね』
 ある人物?
 唐突に、薄れていた記憶が鮮明に目の前に現れた気がした。
「ねえ、それってもしかして、物凄く背が高い人?」
『え? あぁ、うん。まあね。……覚えていたのか』
 最後のは独り言なんだろうけれど、何故かバツの悪そうな響きがあった。
 不思議に思って見つめていると、鼠君がそわそわと身を揺らし、硝子戸の方へ顔を向けた。
 ……まさか、と例の嫌な予感がした。
『それじゃあ僕はこれで』
「ええっ」
 つい大きな声を出してしまう。
「待ってよ、私、君ともっと話したいことがっ」
『ごめんよ』
 慌てて声を潜めたけれど、なんとも釣れない言葉を返されてしまう。
「そんなあ」
 涙が出そうになったが、彼は待ってはくれなかった。ふわりと羽を広げると、硝子戸の仕切り付近に降り立った。
『おやすみ。温かくして寝るんだよ。ちゃんと休めるときに休んでね』
 なんだその、うちのおばあちゃんのような台詞は! と私は今度は憤慨した。だって怒ってなければ泣いてしまう。
「傘なんかどうでもいいの!」
『ごめん』
「待ってよ! 心が狭いっ!」
 私は寝台から転げ落ちるようにして降り、硝子戸に駆け寄った。
「教えて欲しいこととか、いっぱいあるんだよ! なんで鷹になってるの、とかっ」
 庭園の手前の、白い石が敷き詰められた場所に降り立った鼠君に向かって叫ぶと、彼がふっと笑ったような気がした。
『この姿は鷹ではなくて鷲だよ。君は間違いが多いね。前も玄米を麦と間違えていたし』
「煩いっ。そんなのどうでもいいでしょっ」
『訊いたのは君じゃないか。どっちなんだい?』
 鼠君が首を傾げて私を見遣った。
『なに、嫌でもまた会えるさ』
 彼は軽い調子でそう言い残し、翼を羽ばたかせる。
「あっ、ちょっと――」
 白い影は呆気なく、漆黒の夜空へと溶けていった。



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