第二幕:03



 牛車を降りると、既に辺りは薄暗くなっていた。西の空には微かに夕暮れの気配が残っている。鮮やかな橙色が徐々に濃紺の闇に閉ざされつつある時間帯。夕闇時といえば良いだろうか。
 そうだ、時間といえば。
 私は左腕の袖を捲って腕時計で正確な時間を確認した。六時十一分。
 ……ん?
 急にとてつもない違和感が、というか不穏な予感が身を襲った。
 昨日〈南鐐ノ森〉内で夕暮れ時に時間を確認した際には五時半ぐらいだったような覚えがあるのだが、覚え違いだろうか? 昨日と今日とで日の入りの時間が四十分も違うのはおかしい。私の時計が壊れてしまったのか、それともやはりこの世界と向こうの世界とでは時間の巡り方が根本的に異なっているのか。あるいはこの〈紅蓮〉では、場所によって激しく日照時間が異なるのか。
 それって一体どんな世界なんだろう、とこれまでの十五年間のうちで学んできた科学的地理的知識を総動員し、ありとあらゆる可能性を真剣に検討してみたが、結果得られたモノは頭痛だけだった。残念だが自力で答えを求めるのは諦めよう。私の知力と想像力とではとても手に負えない。
「光様、こちらです」
 朝影さんが振り返ったので、私は慌てて袖の中に腕時計を隠した。多分見つかっても没収されたりはしないだろうが、なんとなくだ。
 それにしても、ここ。
 ああ、私。
 ――なんて所に来てしまったんだ!
 目眩がして、足元がふらつく。自分がちゃんとこの世界に生きていて、立っているっていう事実に今更ながら強く胸を打たれた。
 凄く凄く巨大な、半端ない規模の建物が視線の先に堂々と構えている。
 全体の形は長方形だ。簡単に言ってしまえば。
 でもこんなの、見たこともない。想像を絶するものがあるというか、その他色々と凌駕してしまっている。私のなんとなくのイメージはやっぱり日本の戦国時代のお城だった。それとは果てしなく掛け離れたものであるのはまず間違いなく断っておく。第一、この建物の長方形っていうのは縦に長いのではなく横になのだ。
 どう表現したら良いのか分からないが、ともかく大規模な建物だった。荘厳な装飾の施された屋根は重厚な雰囲気を生み出している。屋根の色も壁の色も階段も柱も全て真っ白で、人が生活する場所っていうよりは神殿に近いものを感じる。曲線よりも直線が多い辺りは和風なんだけれど、この規模は、ちょっと、日本には存在しないと思う。
「どうされました」
 朝影さんが微かに首を傾げつつ、目を白黒させている私を見つめてきた。
 どうしたもこうしたもない……私、本当にここに居て良いのだろうかという実に簡潔で素朴な疑問が浮かんでしまった。その疑問に反して目の前では私が動くのを待っている黒づくめ集団がいるわけだが、どうも現実味がない。単純に寝起きだからという理由ではなくて菩提さん達と別れてからというもの、私は何やら頭がぼんやりとしているのだ。
 ふらふらと覚束ない足取りで私は歩きだした。
 ――帰るんだ。
 そのためにはまずこの建物の中に入らねばならない。そして〈穢れ姫〉とやらに会うのだ。
 とても周囲を見渡して景観を楽しむ余裕などはなかった。「はぐれたら確実に迷子になる=いつかのように不審人物扱いされた挙句に牢屋行き」という図式が頭の中で完成していた。ここでは履物を脱ぐのだというしきたりにも反応してはいられない。
 階段を上がって建物内部に入った。直線の回廊をあっちへ曲がったりこっちへ曲がったりとしているうちにいつの間にか黒装束集団の人数が減っていた。やはり忍者なのだろうか? 全然気付かなかったけれど、私が鈍いだけなのか。
 今の私の傍らにはお頭……じゃなかった、朝影さんと、他部下二名がいるだけだった。朝影さんは話しかけてくるからなんとか声で判断できるが、他の二名は黙りこくって淡々と進むのみなので誰なのか分からないという事態が起こっている。多分梧桐さんと七瀬さんだとは思うけれど、違っていたら怖いので話しかけれない。いやその前に、話しかける用事がないのだが。
「あの、あとどれぐらいで着きますか?」
 沈黙に堪えかねて誰にともなくそう訊いた。実際、かなり歩いたと思う。見た目通りか、それ以上に広い気がする。
「そこの角を曲がればすぐです」
 答えてくれたのは、ええと、多分、七瀬さんだ。会話という程の会話も交わしていない人物を声だけで見分けるのは難しい。
 木製の廊下の床は時折きしりと音を立てた。結構年期が入っていたりするのだろうか? 外観からは真新しそうに見えたが、それって整備が行き届いているためなのか。
 この建物を日々齷齪と掃除している人々に仄かな尊敬の念を抱いていると、私の少し前を行っていた朝影さんが立ち止まった。目の前には金属製の両開きの引き戸がある。重そうだ。どうやって開けるんだこれ、なんてことを気にするのは現実逃避なのだろうか。
 つ、着いたのか? 着いてしまったのか?
「入れ」
 朝影さんが戸をノックしたり何か言葉を発するより早く、部屋の中から男性の声がした。そのことに驚いているのは私だけだった。
 もう本当、いい加減訳が分からない。どういうこと? やっぱここの人達ってエスパーだ、そうでなくとも何らかの能力者には違いない。
「失礼致します」
 朝影さんが一言そう断りつつ戸に描かれていた文様じみた円の中心に片手を置くと、なんと、独りでに戸が開いた。しかも音もなくすうっと、である。ポルターガイストか!?
 些か混迷している私と黒装束集団の三人は連れだって部屋の中に入った。なんて広いのだ、私だったら落ち着いて生活できないぞ。いや待て、ここが居住空間であるとはまだ決まっていない。そう、謁見の間みたいな所だ、きっとそうだ。床は木の板で出来ている。そして天井が高い。調度品の数々と絨毯を取り払えば体育館に早変わり出来そうな空間だった。
 呆けている場合ではない。
 姫はドコなのだ、と緊張しつつ視線を巡らせると、正面の一番奥に奇妙な一画を発見した。何だろう、あの大きな正方形部分だけ一段床が高くなっている。そして四つの角には細く長い柱が立っており、白い帳が張られていた。
 ……あ。
 よくよく目を凝らして見続けていると、帳の中に人影のようなものが見えた気がした。ほんのすこーし透けているだけではっきりとは見えない。あれがお姫様? まさかアレだろうか、顔を見ることは許されないってヤツだろうか。
 と、私が困惑しているうちに黒装束三人衆はその場に膝をつき、帳の中の人物に向かって深く頭を垂れていた。私もこうすべきなのか一瞬迷った。
「ご苦労。下がってよい」
 その声で私ははっとし、視線を部屋で待機していたらしき男性に向けた。この人は黒づくめじゃない。……当たり前だが。
 朝影さん達は「は」と短く答えると、素早く、静かに、物音一つ立てずに部屋を出て行った。戸はまたしても独りでに開いていた。まさか自動ドアではないだろうな。
 部屋にしん、とした静寂が訪れる。
 初対面の男性プラス顔も分からぬお姫様と取り残された私は、途端に心細くなる。緊張で震えてきそうだ。いや、実際足はがくがくだったが。
「はじめまして、光さん」
 あれっと私は目と耳を疑う。この男性、多分お姫様のすぐ側に仕えているのだから相当身分が高いのだろうし、先ほども慣れた様子で黒装束集団に命令を下していたが、今の挨拶はかなりフレンドリーだった。……いや、光さんって、この人も私の名を知っているのか。
 床に敷いた柔らかそうな敷物の上にその人は正座していた。
「どうぞ、そちらに」
「あ、はい。失礼します」
 敷物を勧められたので私もその人を見習って腰を落ち着けた。勿論、正座だ。日本人なのだ。
 びくびくと緊張しつつもその人の様子を窺った。凄い髪の色と瞳の色をしている。赤紫色というか、ワインレッド色というか……。長さがあるその髪を後ろで一つに括っているみたいだった。肌は私よりは白いが異様なほどではなく、日本人にもこれぐらいならいそうな感じ。服装は例の剣道着に近いモノを着ているが、その上に橙の地に絢爛な刺繍が施された長衣を羽織っている。因みに疑似剣道着の方も長衣と同系色に染められていた。もはや剣道着とは言えない。
 何歳ぐらいなんだろう。若々しい印象だが、笑うと目尻に少し皺が出来る。三十代にはなっているんじゃないだろうか。
「私のことは〈恭爺〉と呼んで下さいね」
 この人が「〈恭爺〉様」……?
 〈恭爺〉さんは柔和な笑みを浮かべて私を見据えた。あれ、よく見るとこの人格好いいかもしれないなんて頭の片隅で思った。
「さっそくで申し訳ありませんが、本題に入りましょう」
「は、はい」
 緊張の余り目の前がちかちかしてきたぞ。堪えるんだ光、卒倒するのはまだ早すぎる。
「貴方を呼び出したのは他でもない、あちらにおわする〈穢れ姫〉様です」
 私は奥の仕切りの方へ目を遣った。やっぱりよく見えない。誰かがちょこんと行儀よく座っているのだけは辛うじて見て取れる。
 というか、姫と直接対談するわけではないのだろうか。
「貴方は姫様の願いを叶えるためにここに呼ばれました。その内容について私からお話しします」
 お姫様ってまさか声も発しちゃいけなかったりするのか……?
 待って、願い? どこかで聞いたようなニュアンスだ。
『我らが悲願を――』
 ふっと赤髪の超長身人物の台詞が蘇ったが、そのことに気を取られている場合では全然なく、〈恭爺〉さんのお話が始まった。
 彼の話はこんな風に幕を開けた。
 光さんには姫様が長年探し求めてきた〈器〉としての素質があります、と。


 〈器〉とは一体どういうことなのか。
 簡単に言えば外部から霊力を受け取ることの出来る体質の持ち主、であるらしい。
 霊力というのはそもそも内側から生まれる力であり、人から人へぽんぽんと手軽に渡すことなど普通は出来ないのだが、それが私には出来るのだという。ただしそれが本人の意志で出来るか否かはまた別で、ある程度訓練を積む必要があるのだとか。
「今姫様が成し遂げようとしていることには、光さんの〈器〉としての力がどうしても必要なんです」
 一体全体、何がどういうことなのでしょうか。
 疑問符を目一杯飛ばして見つめ返すと、〈恭爺〉さんは厳かに頷いた。私、謝るべきだろうか? エスパーじゃないために説明の手間をおかけして申し訳ありません、と。いやいや、私はフツウだ。ここで殊勝になっては終わりなのだ。
「それに関してまずは〈紅蓮国〉の秘密をお話ししましょう。貴方には知る権利がある。と、姫様がおっしゃっていました」
「はあ……」
 姫様ってどういう人なのかな。
「実は、〈紅蓮〉は元々は一つの国内部の一区域でしかありませんでした」
「……ん?」
「古来より物の怪が棲みつくこの〈紅蓮〉という区域を人々は忌み嫌い、邪険にしていました。時の帝の命により厳しい封鎖対策が執られましたが、物の怪は次から次へと溢れ返り、その勢力を増すばかり。そこで帝は優秀な霊術師達を各地から集め、〈紅蓮〉へと派遣し、物の怪の討伐を大々的に開始したのです。さて討伐が始まって間もなく、時の帝が病で亡くなり、新しい帝が誕生しました。この帝が恐ろしい人でした。多くの霊術師達が〈紅蓮〉で戦う最中、裏切り者の霊術師十人に命じて〈紅蓮〉全体を覆う巨大な結界を張らせたのです。それが今から三百年ほど前の話になります。つまり、今〈紅蓮〉に住まう全ての者はかつて帝の命により閉じ込められた霊術師達の子孫に当たるわけです」
 んんん??
 そこで私の意識は一瞬、遠のいた。寸前で気力によって耐える。話はまだ終わっていない。いや、実は〈恭爺〉さんの説明の内容、半分以上は理解出来ていないのだが、訊き返せる雰囲気ではない気がする。
「姫様はその結界を壊そうとしているのですよ」
「そうなんですか……って、え?」
 あまりににこやかに彼が言うので普通に頷きかけたが、ちょっと待て。
 こ、壊すってアナタ。
 先程の彼の話、つい童話を聞くような感覚で聞いてしまったが、〈紅蓮〉では現実に起こった話で、しかも現在に続く事実を孕んでいる。
 頭がついて行けない。
 待って、でもそれじゃあ化け物が溢れ返って――。
「……あの、何故今になってそのようなことを?」
 かなり弱々しい声で尋ねていた。自分に意見する資格が果たしてあるのか疑問だったためだ。
「今になって、ではありません。かつて幾度も優秀な霊術師達が試みてきたことなのです。が、結界というのはそもそもが内側からは破れぬ仕組みになっているもの。遥か古の時代には人を守るための術として行使されていたようですが、今で言う結界や三百年前で言う結界は、物の怪を閉じ込める術全般を指します。
 現〈穢れ姫〉様は特別な方です。その類まれなる呪術を持ってすれば〈紅蓮〉を覆う忌々しき結界を破ることなど容易い。ただし、それには霊力の絶対量が足りません。そこで貴方の力が必要なのです」
 私は額に強く掌を押し当て、冷静になろうと試みた。
 ええと、つまり姫様はもしかして、こんなチャンスもう二度と訪れないっていう切羽詰まった状況なのだろうか。
 でも、疑問が残る。
「待って下さい。何故、その必要が? 今こうしてこの国は繁栄しているのではないのですか」
 早口に言い募った途端、〈恭爺〉さんから表情が抜け落ちた。地雷を踏んでしまったのだと気付いても時既に遅しってヤツだ。
「貴方に何が分かる。……貴方は役目さえ果たせば元の世界に帰れるのですよ。口答えせず、従いなさい」
 私は目を剥いた。
 これ、「お願い」なんて可愛いものじゃない。命令だ。
 一つの事実がことりと目の前に落ちてきた。私は簡単には帰してもらえない。
「これは姫様のお言葉ではありませんが、言っておきましょう。――光さんに拒否権はありません」
 ああ、目眩が。気が、遠くなって。
「ねえ、光さん。帰りたくはありませんか?」
 甘やかすような小馬鹿にするような声音で〈恭爺〉さんが尋ねてくる。
「……それは、勿論。帰りたいですけど」
「ではこの任、果たしていただけますね?」
 あくまでもにこやかに、営業スマイルで脅しをかけてくる。
 私は顔を歪め、唇を強く噛んだ。
 自分、結構大変なことに巻き込まれているんじゃないだろうか。世界の救世主になれとか王様の妃になれとかいった類の「お願い」とは全く違った意味合いで。
 役目を終えれば、帰れる。
 でも。
 でも、これって、正しいことなのか。
 今から自分が参加しようとしている計画。その計画のためにもし被害に遭う人がこの先にいるのだとしたら――それは、あんまりだ。
 そんなの駄目だと思う。
 いや、保身か。罪悪に塗れて生きていく強さがないから、こんなことを思うのだろうか。
 分からない、混乱する。
「帰りたい……」
「帰れますとも。貴方がこの国での役目を終えた暁にはね」
 違う、今すぐに帰りたいのだ。
「光さん。帰りたいのならばそれ相応の役目を果たさねばなりません」
「何、それ」
 帰りたい。
「良いですね、貴方には姫様の霊力の受け皿となっていただきます」
 分からない、そんなの。帰りたい。
「痛みは一切ありませんのでご安心を。日に一度、姫様との接触によって霊力を受け取る、貴方の役割はたったそれだけです。それ以外の時間は自由にしていただいて構いません」
 くそぅ。
 奥歯を噛み締め、私は拳を強く握った。乱れそうになる心を鎮めるために。
 そして、勇気を振り絞り、一気に叫んだ。
「壊すって何、壊すって! 一体何のために!? せめて目的を教えてくれなきゃ言うこと聞いたりなんかしませんからねっ!」
 私、かなり根性出したな。自画自賛の域なのだ。
 いかな流されやすい私でも、訳も分からずに利用されるのには抵抗があって当然! と内心威張ってみる。交換条件でとはいえ帰していただけるのは有り難いが、手放しで喜べない事情が目の前にあるのだ。無視できるほど能天気ではないつもり。
 〈恭爺〉さんがぽかんと呆気にとられた表情を浮かべたあと、まじまじと私を見上げてきた。私はたった今、叫んだ勢いのままその場に立ち上がっていたのだ。……実は足が痺れてきたためという情けない理由も含まれていたりするのだけれど、それは内緒だ。
 〈恭爺〉さんが瞬いたあと、ふっと笑った。自然と漏れた感じの笑みだ。
「おかしな人ですね。そんなことを知ってどうすると言うのですか?」
 やれやれって感じの声音だった。呆れられている。しかも、頭が痛いとでもいうように片方の手で額を押さえながらも、容赦のない鋭い視線を送ってきている。普段の私ならここで怖じ気づき、すみませんでした今のはナシでと前言撤回に走るのだろう。だが、半ばパニックに陥っている今の私はただひたすらに怒りを覚えた。無謀にも「知りたがっちゃ悪いのか?」という胡乱な眼差しをお返ししたのだ。
「別にどうもしませんけど、自分が関与することについて詳しい情報を求めるのは当然じゃないですか?」
「……それもそうですね」
 とは言うが、彼が納得してくれたようにはとても見えない。笑いの気配が消えていないのだ。寧ろ濃くなっている。理解不能だ。
「ですが、今貴方が知りたがっているのはこの国の過去と未来なのですよ? そのどちらも貴方には関係な」
「あります!」
 再び叫ぶと、〈恭爺〉さんが目を丸くした後、くすくすと笑った。
「どのように?」
「せ、責任問題ですから、要するに」
「ほう?」
 くそ、絶対面白がられている、話をするだけ無駄なのかもしれないが、どうしても諦めきれない。こうなったら意地だ。言葉が通じるなら説得だって可能なはずだ! ……私にもっとディベート能力が備わっていればという条件付きで。
「目的もわからずに力を貸すなんて無責任なこと、出来ません。こ、こんなの、労働者の権利侵害っていうか、とにかく難しいことはよくわかんないけどっ! それぐらい知る権利、あるんじゃないですか!?」
 ぜえぜえと息を荒くしつつなんとか言い切ると、〈恭爺〉さんが考え込むような素振りを見せた。顎に手を遣り、目を伏せる。
「……そうですね。ではこうしましょう。この先の貴方の働き具合に応じて情報を提供すると」
 その気もないくせに思わせぶりな仕草を見せやがって! と一人勝手にやさぐれていた私は次の彼の言葉に激しく目を瞬かせた。どういうことなの?
「全ては貴方の働きにかかっているということで。私や姫様に物申すのは、それからにして下さい」
 どうやら多少、私の訴えを聞き入れてくれたということらしい。良かった、何を言っても鉄壁の笑顔で撥ねつけられるような予感があったのだが、譲歩というものを心得ている人だったみたいだ。
 いずれにしても、今すぐに与えてもらえる情報は何も無いってことになる。
 でもこれ以上無理を言っては帰してもらえなくなる可能性があったので、私は無理矢理納得し、小さく頷いておいた。
 頷いた私を見た〈恭爺〉さんがようやく面白がるような気配を引っ込め、小さく吐息を落とした。
「ひとまず今日のところは休むように。これは姫様のご命令です」
 えっ、休んで良いの? と私が目を見開くと、〈恭爺〉さんが何故だか深く項垂れるような仕草を見せた。演技だと思う。
「ええ、私は無論、今からすぐにでも任に就いていただきたいところなのですよ、けれどお優しい姫様がどうしても休ませてやって欲しいとおっしゃるので、仕方なくですね」
 こ、この人、鬼だ。優男の面を被った鬼だ! そうに違いない。きっとあの長い衣の下に金棒とか隠し持ってるんだ。
 身を引いて怯えていたら、〈恭爺〉さんがくすくすと笑い出した。何だというのだ。こんな反応を返してくる人間に逢ったのは生まれて初めてだぞ。「スリーテンポぐらい遅れてる」とか「トロい」とか「キモい」とかその他様々なキャラ付けを勝手に体験させられてきた私だが、これはない。私の何が面白いのかさっぱりだ。
「まあ、それはともかく」
 それって、どれのことだ。色々あり過ぎて何を指して言ったのかわからない。
 〈恭爺〉さんが温和な笑顔を浮かべた。
「疲れているでしょう? 本当に、今日はちゃんと休まなければ駄目ですよ」
 ん? 話し方が微妙に変わったような気が。
 ぱちぱちと瞬いて見つめていると、〈恭爺〉さんが立ち上がった。背が高い。瑠璃さんより少し低いか、同じぐらいだ。
「さぁ、行きましょうか」
 一体、どこに。
「湯殿に案内します」
「…………え?」
 湯殿?
 って、お風呂!?
 あるんだ、というか使わせてもらえるんだ。
 ちょっと元気を取り戻した私を〈恭爺〉さんがじっと見つめた。
「……光さん」
「は、はい」
 つい身構えてしまったが、予想に反して彼が次の瞬間見せた笑顔には、心がぐらっと揺れるものがあった。いかに不服な役を半ば強引に押し付けられていたとしてもだ、そんなものが帳消しになってしまうぐらいの、何か心の不安を払拭するような作用を秘めた魔性の笑みだった。
「頑張りましょうね」
 こんなの、ズルイ。
 頑張って下さい、ともし言われていたなら確実に不貞腐れていただろうと思う。くそうっ、そういう絶妙な言葉の選び方とかは心憎いな。
 しかし、良い笑顔だった。笑顔って人と打ち解けるのに必要不可欠なものだよね。


 湯殿へ到着するまでの間、〈恭爺〉さんにここでの私の身分についての話を伺った。
 なんとも恐ろしいことこの上がないが……、私は名のある貴族の最後の生き残りという設定にされているらしい。先日守護軍に保護された私は、本日〈御殿〉に連れられてきたと、そんな具合である。
 〈穢れ姫〉との面会(とはいえ実際に言葉を交わしたのは〈恭爺〉さんだが)については機密事項であるので口外は厳禁とのことだ。
 でもさ、こんなのってね。
 絶対ボロが出ますよ、だって私は一般庶民どころかこの世界の人間ではないんですからね、怪しまれるんじゃないですか、という私の後ろ向きな発言に対し、〈恭爺〉さんは「事件の衝撃で記憶を失っているという設定ですから何も問題はありません。というより少し頭が弱いという話を既に実しやかに広めてあって云々」と怪しげな言葉を返してきた。最後の、「少し頭が弱い」という設定は果たして必要なんだろうか? 物凄く抵抗がある。
 でも一体どこの貴族の末裔ってことにしてあるんですか、それこそ存在しないような家名だったら信じてもらいようがないじゃないですか、と私がさらに不安を募らせば、「今〈紅蓮〉では貴族の盛衰が著しいんです。先日丁度滅んだ一族がありましたから、貴方はその生き残りということにしてあります。でも、家名を名乗る必要はありませんよ。姫様に正式な家名を与えられていない中級貴族ですからね」とこれまたこともなげに返答を寄こしてきたのだが、良いのかそれで、と悩まずにはいられない。しかも何をさりげなく「丁度」などとのたまっているのだこの人は。当事者からしたら不謹慎も甚だしい発言だと思う。
 〈紅蓮〉の結界を破壊するという姫様の計画、これは私自身の素性以上に重大な秘密事項だった。もし誰かにばらしでもしたら瞬殺……、はないにしても、それなりの罰が下るのは否めないと脅されている。言われなくともそのような過ちは犯すまい、と私は心に固く誓い、今日のうちに不承ながらも手にしてしまった秘密の数々にしっかりと蓋を閉めておいた。
 この建物、主殿というらしいのだが、石造の神殿のような外観に反して内部は殆どが木材で出来ている。壁だけは灯りの火が燃え移らないよう灰色の土で塗り固められているんだけれど。その壁には直接穴が掘られた部分があって、点々と等間隔で灯りが燈っている。この等間隔の穴が燭台入れというか燭台置きのような役割を果たしているらしい。時間は午後七時を回る頃だったが、廊下はぽつりぽつりと灯された明かりによって昼間程とまではいかないけれど幾分マシな明るさを保っていた。マシっていってもここで蛍光灯の光を引き合いに出してしまえば「なけなし」の部類に入れざるを得ない。蛍光灯ってどういう仕組みだっけ? 確か紫外線とかが関係していたような……。あぁ、もっと勉強しておくんだった。この世界での科学技術の普及事業は無理そうだ。
 半分外に出ているような渡り廊下っぽい道を通って辿り着いた先が湯殿だった。ここは主殿の南側に位置する主殿とは別物の小規模な建物内である。というか、湯殿としての機能しか持っていないみたいで、この建物のことを湯殿堂(ゆどのどう)と呼ぶらしい。
「では光さん、私はここで」
 立ち止まった〈恭爺〉さんが私を振り返った。
「あの、他にも使う方はみえるんですか?」
 要するに共同浴場なのかと訊きたい。
「ええ、ですが今の時間帯に使う者は少ないでしょうね。あと一刻程したら騒がしくなるかとは思いますが」
「一刻?」
「ええ。――あぁ」
 〈恭爺〉さんが何かを悟ったような、納得したような顔つきになった。
「陽読み具の読み方を知らないのでしたか。簡単に言えば、十二刻で一日です」
「あ、あ、分かりました。一刻イコール二時間なんですね」
「……? 今の説明で分かったのですか?」
 〈恭爺〉さんが困惑したような表情で私を見た。……いや、この表情はフェイクだ。目がきらきらしているのだ。この人はまたしても私のことを面白がっているらしい。
 つくづく訳が分からない人だと思う。怖かったり無邪気だったり柔和だったりと、気を許して良いのかすら判別がつかず距離の置き方に困ってしまう。高飛車なのか気まぐれなのか……。ううん、両方かも。
「そのまま、この回廊を突き当たりまで行って、左に曲がって下さい。そちらが女性用湯殿になっています。右側は男性用ですのでくれぐれも近付かないように。……いえ、私はそもそも光さんの性別を知らないのでした。もしかして男性だったりは」
「しません。あり得ません」
 思わず半目になって睨み上げてしまった。説明してくれるのは大変助かるのだが、一言余計なのだ。
 私の視線攻撃などモノともしていないらしき〈恭爺〉さんがにこりとお人よしがする笑顔を浮かべる。
「では、ごゆっくり。貴方につけた女官達が入り口付近で待機していると思いますので、ご不明な点はその者達に尋ねて下さいね」
 にょ、女官? 聞き間違いでなければ彼は確かにそう言った。
「おや。どうかしましたか」
 女官って何なのだ。そんな話は聞いてないぞ。
 咄嗟に掴んでしまった〈恭爺〉さんの衣の袖を慌てて離しつつ、振り向いた彼を見上げた。う、本当に背が高いな。少し分けてはくれないだろうか。
 じゃなくて。
「女官ってどういうことですか」
「だって、必要でしょう?」
「えぇ……? 何故?」
「まず迷子になると思いますし」
「…………」
 それは、確かに自信がない。どちらかといえば迷子になる自信の方は大アリなのだが。
 というか、女官? 侍女とかではなく、「女官」なのか。女官といえば男子禁制の後宮で働いている女性の官僚をイメージするが……、ここでは侍女のことを女官というのだろうか。だって男性、普通にいるようだし。そもそもお姫様の部屋の中に〈恭爺〉さんは居たわけだし。
 職名に関しては日本の歴史で当てはめて考えても駄目そうだ。
「それに言ったでしょう、貴方は名のある貴族の末裔。幾ら記憶を失っているとは言えこの〈御殿〉で寝食するともなれば、それに見合った生活を送っていただきます。これは譲れません」
「んん? でも、私」
「光さん、しっかりとなりきりなさい」
「え」
「他の、正真正銘の貴族の者達に馬鹿にされますよ」
「…………」
 以前に瑠璃さんもそんなようなことを言っていた気がする。なんだっけ、玩具にされるのが落ちとかなんとか。……え? お、玩具って! 今更その意味を理解した。何、この国の貴族の柄が悪いのってもしかして有名なの?
 出来れば会いたくはない、が、同じ建物内で生活していたら嫌でも会う機会があるだろう。その時はどうしようか。とりあえず言葉を発した時点でなんちゃってお嬢サマであることがバレバレなので、口は開かずに、慎ましげな微笑を浮かべつつ足早にその場を去る! よし、これだ。……待てよ、相手にも自分にも少なくとも三人女官がついていたとしよう。その場合は廊下ですれ違うのに道を譲り合ったり等する必要が出てくるんじゃ……。ぎゃー、どうしたら良いのだっ。
 新たに生まれた不安に顔を曇らせ一人でイメージトレーニングをしていると、〈恭爺〉さんが意味深な笑みを浮かべて覗き込んできた。
「それから、もう一つ」
 まだ何かあるの? イメトレで忙しいんだけれど。
 全く別なことに気を取られている無防備な私に災難な言葉が降りかかる。
「光さんは女性ですからね」
「………………はい?」
 まだ男性だと疑っていたのか? と的外れな疑問を抱いた数秒後、彼の言葉に含まれる意味合いを正確に理解する。
 この野郎っ! と憤慨しつつ私は〈恭爺〉さんを睨みつけた。いや、涙目なために全く効力のない睨みだったと思うが。
 ううう、それってつまり、つまり、ううううう。
「あぁ、けれど光さんは女性というよりは寧ろ」
 耳、塞いでおくべきだった。
「幼子ですよね」
 どいつもこいつもガキ扱いしやがって……っ!!
 屈辱過ぎる、どっかで凄腕の呪術師さんと友達になって呪い方を教わり、そして実行に移さねば気が済まぬ。そうでなければ身の内に燃え盛る怒りの炎により私自身が燃え尽き真っ白な灰となる。
 ……あ、でもその前に、背を伸ばす術がないのか確実に問い詰めなければならんな。



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