第一幕:10



「怪我はないか?」
 魂を手放しかけて固まる私に、瑠璃さんが気遣わしげな声をかけてきた。
 今まで聞いたこともないくらい優しい声根だったのに、私は目を見開いて硬直するばかり。返事が出来ない。
 この人、怖い。
 違う。もう何に対する恐れかわからない。
 瑠璃さんが長身を折り、至近距離で私の表情を窺った。
「大丈夫か、光」
 皮肉にも初めて名前で呼ばれたのはその時だった。
 瑠璃さんの手が私の顔に触れる。というか、汗で張り付いた髪を払ってくれたみたいだった。
 何なのだ、そんな風に優しくされても全然、全然、嬉しくない。
 じゃあどうして欲しいのか、そんなことはわからない。
 混乱する。じわりと目の縁に熱いものが溜まった。目の奥が痛む。
 二秒後、私は盛大に泣き出した。
「おいっ、どうしたんだ」
 どうしたもこうしたも。自分でも何故泣いているのかわからない。しかも人前では泣かないっていうのが密かに私の信条でもあったのに、思い切り破ってしまった。
 菩提さんがダッシュで駆け寄ってきた。
「ああ光可哀想に、怖かったね」
 うう、激しく子供扱いされている。やめろ、頭を撫でるんじゃないっ。
 嗚咽を漏らしながら、必死に言い返した。
「違う、そうじゃないっ」
「何が違う。怖かったのだろうが」
 瑠璃さんが呆れた声を出した。あれ、さっきの優しげな雰囲気はいずこへ?
「怖かったでしょう光。霊符が利かなかった時なんて絶望したはずだよ」
 うううう、と泣き続ける私の頭を抱き寄せつつ、菩提さんが声をかけてくる。確かにあの時は絶望的だった。
「妙だな。何故発動しなかったのか。菩提、お前のものは発動したな?」
「辛うじて」
「殆ど無きに等しい霊力の所為で大した足止めにもならなかったようだが」
 何の話だ、二人とも。
 ひうっと喉の奥で引きつったような呼吸をしてしまう。瑠璃さんと会話していた菩提さんが私に向きなおり、よしよしと改めて頭を撫でてきた。なんか……、もういいや。
「光、霊符にはな、俺のような術師が込めた霊力が宿っている。菩提は詳しく説明していなかったが、霊符は扱う者の霊力に比例してより強い効果を発揮するのだ」
 それって相乗効果ってこと?
「菩提には殆ど霊力が備わってはおらぬからな、霊符を使ってもあの程度だ。見ただろう、呪縛符が発動した瞬間を。足止めにもなっていなかったな?」
 私は菩提さんに渡された柔らかい紙のようなもので遠慮なく鼻をかみつつ、瑠璃さんの言葉にうんうんと頷いた。霊符って普通に紙で出来ている。多分この世界で紙はそれ程希少ではないのだと勝手に推測した。一般庶民の菩提さんが持っているくらいだし、などと言い訳してみる。
「だが、光。先ほども言った通り、霊符には術と、それを発動するのに必要な霊力が予め仕込まれているのだ。発動しないなどということは、本来あり得ぬ」
 それを私に言われてもなぁ。
「不良品だったのでは」
 菩提さんが私の頭を撫でながら、瑠璃さんの方を見向きもせずにそう言った。
「真澄(ますみ)の作ったものを疑うのか貴様」
「真澄って誰だよ」
「同僚だ」
「あれ、友人じゃないんだ? てっきり庇ったから深い関係なのかと」
「いや、友人でもある」
「ああやっぱりそうなんだ? 良かったね、ついに瑠璃にも僕以外の友人が出来たんだね。万歳。帰ったらお祝いしなくちゃ」
「空恐ろしいことを言うな」
 最後の涙を拭いつつ、おかしい、と思った。
 だっておかしいじゃないか二人とも、普段通りで。
 私はぼうっと視線を巡らせた。一点で止まる。
 血まみれの、〈白狼〉の亡骸。
 〈白狼〉の群れが一つの町を滅ぼしたっていう瑠璃さんの話と、〈魔羅〉の話が同時に思い出される。
 町を滅ぼした〈白狼〉の話、瑠璃さんは他人事のように話していたけれど、大きく関わりがあったんじゃないか。
 虐殺したの? ……ううん。
 その前に町の人々が被害に遭っているわけで。
 じゃあ、守護軍が群れを滅ぼしたのは、復讐?
 私的な感情を抜きにしても、結果的にそういうことになるんじゃないか。
 それに重なる、群れの頭である〈白狼〉の復讐。
 子供を瑠璃さんが――って。
 わからなかった。〈魔羅〉の話を信用して良いものか。少なくとも瑠璃さんと過ごした時間の方が長くて、でも、彼が心から信頼できる仲間であるかと問われたら肯けないものがある。初対面の時に彼に対して抱いた恐怖は未だに私を蝕んでいるし、そもそも私と彼の関係って明らかに対等な仲間などではないだろう。私は守られている。だからってわけじゃないけれど、瑠璃さんに対しても菩提さんに対しても、私はどうしても遠慮してしまう節がある。多分それはこの関係が続く限り、ずっと変わらない姿勢なのだ。
 頭が痛い。ああ泣いた所為か。
「光?」
 なんでこんなことになったんだろう。
 私は考えた。「何が悪い」のか。
 〈白狼〉を唆した〈魔羅〉だろうか。ううん、一口にそうは言えない気がする。
 ああ、可哀想だ。こんなのって酷い。
 そうだよ、菩提さん。可哀想なのは怖かった私なんかじゃなくて、〈白狼〉なんだ。
 でも私の涙の意味、説明するわけにはいかない。だってそれって、言外に瑠璃さんの行為を非難することにも繋がるのだ。それは私には許されない領域であるように思える。そんなの身勝手で、嫌だ。出来ない。他人の行動を正面切って否定できる勇気も根拠も、私は持ってはいなかった。
「あぁ、こんなに冷たくなって」
 菩提さんが私の両手を包み込んだ。奇妙に思えるくらい、彼の手は温かかった。
 見上げると、曇りのない微笑が返ってくる。
 ……なんだろう、この気持ち。
「光は向こうで休んでおいで」
 私は不満なんだろうか、彼のこの態度が。
 何故? 菩提さんは何か悪いことをしたんだろうか。いや、していない。
 でも。
「後始末があるから。君は見ない方がいい」
 でも、やっぱり、この笑顔に心が塞ぎ込むのだ。


 私は言われた通り、少し離れた場所にある木の根元に腰を降ろして二人の作業が済むのを待った。
 後始末。まるで「お片付け」って言うみたいに簡単に口にしたけれど、菩提さん、自分が何を言っているのか分かっているだろうか? 大丈夫かな。
 あぁ、駄目駄目。
 私はぶんぶんと首を横に振った。一人で何をしているんだろう。誰か傍らで見ている人がいたら不審に思うに違いない。
 私には二人の行動全て、否定することが出来ない。何故なら無力だから。ただ見ていることしか出来ない私が偉そうなことを言うのは生意気を通り越して勘違いも甚だしいというもの。大体こうして今も、何もせずにただぼうっと座っているのだから。
 でも、〈白狼〉の無残な姿が瞼の裏に蘇ると、内側から針で刺されるみたいに胸が痛む。目頭が熱くなり、涙が出そうになってしまう。
 今回のことで私が泣くというのも見当違いな気がする。だって私、この国……というか〈紅蓮〉の諸事情について、殆ど知識を持っていないもの。よくも分からずただ目の前で一つの命が息絶えたというだけで幼子のように泣きじゃくるのはおかしい。
 いや、おかしいのだろうか?
 一つの命が散った。そのことを悲しむこと自体が、おかしいのかどうかといえば、違うだろう。
 でも。
「くっそう……」
 納得できない! って気持ちがぐんぐんと盛り上がってきて、それに比例するように再び涙が盛り上がってくるので私は狼狽した。
 言えないのが悔しい。変な意地が邪魔して瑠璃さんに食ってかかれない。感情のままに動くのが許される本当の子供であったのなら良かった!
 私はようやく気付いた。自分の心の声。
 本当は感情の赴くままに瑠璃さん達を謗りたい。
 でも、それは出来ないのだ。何故ならあの時瑠璃さんが〈白狼〉を仕留めていなかったら、それはすなわち瑠璃さんの死を意味する。それにあの狡猾な〈魔羅〉は菩提さんが教えてくれた「〈魔羅〉は血を浴びることで力を増す」って言葉通り、血が浴びたいと言っていた。ということは瑠璃さんが倒れた後は、まず間違いなく私や菩提さんが餌食になっていたのだ。
 だから、否定できない。
 あぁ、何だっけ、こういうの。犠牲の上に成り立つ幸福? ……当たらずも遠からずって気がする。
 頭痛い。
 思い切り泣いた所為っていうのも勿論あるんだろうけれど、精神的なものも含めて私は疲労を感じ始めていた。頭痛い。ずきずきっていうかがんがんっていうか。横になって休みたい感じ。
 もう寝てしまいたい。目に映るもの全て、心に滑り込むもの全て、闇で閉ざしてしまいたい。
「……光?」
 文字通り頭を抱えていたら、頭上で声がした。菩提さんだ。
 終わったのかな。
 ゆるゆると顔を上げると、彼がその場に屈みこみ、心配そうな顔で見つめてきた。
「大丈夫? どこか悪いの?」
 時々菩提さんの優しさに疑問を感じてしまう。それって私が腹黒い所為だろうか? でも、だって、彼は私の護衛で。家族じゃないのだ。護衛の仕事に優しさって必要なんだろうかって考えてしまう。現に瑠璃さんは優しくないし。
「……平気です」
 うわあ、私ってマジで可愛くないな! と痛感してしまうような低い、素っ気ない声が出た。
 でも菩提さんは優しく微笑んで、私の頭を撫でる。
「なんですかっ」
 今の私は気が高ぶっていて、普段の冷静の欠片もない状態だった。子供みたいに菩提さんの手を振り払い、睨む。
「血が流れたから、匂いを嗅ぎつけた他の獣達が寄ってくる。ここは危ない。もう少し、歩けるかな?」
「…………」
 菩提さんは全く表情を変えなかった。声のトーンも。
 呆然と彼の薄抹茶の瞳を見返していると、瑠璃さんがやって来た。
 あぁ、瑠璃さん、よく見れば酷い有様じゃないか。そこら中服が破れているし、怪我もしている。結構深く裂けているように見える肩なんて、相当痛むだろう。なのに彼は平然とした表情で立って、私を見下ろしているのだ。
「歩けるか?」
「……はい」
 私は静かに頷き、立ち上がった。


 瑠璃さんに応急処置を施した後、二時間近く歩いた。腕時計に目をやると、丁度十時を指している。
 途中、幾度か獣の群れに襲われた。
 でもやっぱり〈白狼〉が特別に強敵だったらしくて、それ以降襲ってきた獣たちは群れの数は多くても個体の大きさは大型犬よりも断然小さいぐらいだった。それでも私は彼らのぎらぎらとした飢えた眼に怯えたが、瑠璃さんは恐るるに足らずって感じで、抜刀することすらなかった。菩提さんも特に焦った様子はなかった。瑠璃さんが腰帯にぶら下げていた小さな袋の中から威嚇玉とかいう道具を取り出して地面に投げつけると、大きな爆ぜる音が鳴り響き、獣の群れはそれだけで怯んで一目散に逃げ出して行った。呆気なさに驚いたが、助かった。何より良かったと安堵してしまうのは自分達が怪我せずに済んだってことじゃなくて瑠璃さんが彼らを傷付けずに済んだってことに対してだった。他人を傷付けることに怯えるのって自分が傷付きたくないってことの裏返しに思える。私ってもしかして凄く自分本位な人間なのかもしれない。他者を大切に思う分、自分にも同等かそれ以上の価値を置いているのだと思う。
 十時か。すっかり夜半ばだ。細い月は夜空高くに昇りつめて、煌々とした光を放っている。
 そうだ、今まで触れていなかった話題だけど、トイレについて。ここ〈南鐐ノ森〉は瑠璃さんのように〈御殿〉に仕える人々が通る公道がある。そして、なんと所々にトイレも設置されているのだ。
 ぎょっとして瑠璃さんに理由を尋ねたら納得した。この森には凶暴な獣が多く棲んでいる。用を足している最中に襲われたら一巻の終わりだろう、って。なんというか確かにそれは生命としての終わりは勿論、他の意味でも終わりな気がするな。ちなみにトイレは外から見ると木造の小屋といった風情で、現代日本にもあっておかしくないような造りになっていた。肝心の便器は和式……というか、下に穴が開いているだけなんだけど。それでも森の中でするよりはずっとずっとマシだ。人通りのある森で良かったと思う。
 もう一つ、これは菩提さんに聞いた話だ。〈紅蓮〉は正式には〈紅蓮国〉っていうらしい。じゃあどうして「国」を省いて呼ぶことが多いのかというと、理由はすぐに見つかった。この国、国交というものが全く、完全に、ぱったりと途絶えてしまっている。つまり他国と同列に並べるような機会がないため、わざわざ〈紅蓮国〉と言う必要がないのだ。〈紅蓮〉はあくまでも〈紅蓮〉であってそれ以下でもそれ以上でもないって感じだろうか。
 〈紅蓮〉って不思議だ。外国との貿易がなくて経済の方は大丈夫なのかって心配になったけれど、どうもこの国の九割以上は自給自足で賄われているらしいのだ。かといって農民が原始的な生活を送っているかといえばそういうわけでもない。紙が普及しているようだし、衣料も結構皆しっかりとしたものを着ている。お金についてはどうなっているのかというと、硬貨というものが一応あるにはあるが、大概物々交換で済ましてしまうとのことだった。ただ〈御殿〉では通貨が重宝されているみたいだ。〈御殿〉で物々交換っていうわけにはいかないらしくて、そんなことを提案すれば田舎者だと認識されてしまうのだとか。
 この国ってある意味理想的かも、と思い掛けたところではっと顔を強張らせた。駄目だ、化け物とか凶暴な野獣がのさばっているんだった、ここ。
 そういえば私、初めてこの〈南鐐ノ森〉を見た時に凄く陰鬱で怪しい気配が漂っているって思ったことがあったけれど、あれは大方間違いでもなかったのだな。想像通り恐ろしい場所だったのだ。


 就寝間際になり、私は見張り番について二人と言い争った。
 というか、主に瑠璃さんとだ。
「お前は本当に奇怪な娘だな。やはり貴人とは思えぬ。自らの身を守る手段に疎いかと思えばただ守られているのは不服だと言う。ではどうしたい?」
 意地悪な声で言われてしまったが、私は必死に睨み返した。
 だって瑠璃さんは傷だらけ、なんだもの。
 これでもし瑠璃さんが負傷していなくて元気モリモリだったなら私も大人しく引いたと思う。でもそうじゃない。
「瑠璃さんは要するに怪我人なわけですよ」
「それがどうした」
「どうしたって、そんなんで咄嗟の事態に対応出来るんですか」
「出来るとも」
「嘘」
「何っ?」
 その時、菩提さんが瑠璃さんと私の肩を同時にぽんっと叩いた。
「まぁまぁ。僕が見張りをするから、二人とも休んでおいで」
 瑠璃さんが恐ろしい形相で菩提さんを振り返ったが、菩提さんは笑顔で一蹴してしまう。
「光の言う通りだよ。瑠璃は怪我が痛むだろう?」
 瑠璃さんは何か言いたげに口を開きかけたが、結局閉じた。ううん、かなり不承不承って顔してる。それにしても菩提さん、瑠璃さんにもその笑顔なんだな……って、何を不満に思う必要があるんだろう。二人は古くからの知り合いなんだから親しくて当然なのに。
「光も。大分疲れているように見えるよ」
 視線が自分の方に向き、私はうっと息を詰まらせた。
 情けないけど私、もうふらふらだ。〈魔羅〉との一件以来急激に疲労が襲ってきたのだ。
 時計に目をやると十時半を回っていた。いつも通り家にいたら、そろそろお風呂に入っている時間だ。
 切なくなる前に考えた。お風呂ってどうなんだろう? 牢の囚人は十日に一度湯浴みが出来るって話だったけれど。
 瑠璃さんが珍しく静かになったので、本当に怪我が辛いのかもしれないと思い直し、私は菩提さんに見張りをお任せすることにして就寝の準備をした。
 ちょっと開けた地面の上に菩提さんに手渡された敷物をよいしょっと広げた。
「おやすみ」
 少し離れた場所にある木に背中を預けている菩提さんがにこりと笑いかけてきた。あ、はい、よろしくお願いしますと返したあと視線を巡らせると、瑠璃さんが菩提さんと同じように木の根元に座り込んでいるのを発見した。
「瑠璃さん、寝るんじゃなかったんですか」
 思わず呆れたような声が出てしまう。
 瑠璃さんは一瞬ちらりと私を見たけれど、すぐにつんっと顔を背けた。何故だか今、睨まれた時よりも胸にぐさりとナニかが深く突き刺さった気がする。
 そういえば菩提さんは大きく膨らんだ荷を所持しているが、瑠璃さんは随分身軽なのだった。お弁当しか持っていないんじゃないかと疑ってしまいたくなるくらいだ。「くらい」というか、もしかしたら本当にそうなのかもしれない。敷物も持っていないということだろうか。
 尚もじーっと見つめていたら、既に目を閉じていた瑠璃さんがぼそっと口を開いた。
「俺のことは放っておけ、慣れている」
 それもそうか。
 納得し、ころりと敷物の上に寝転がると、地面の固い感触が返ってきた。この微妙に出っ張ってる硬い所、石かな。ふと小学校の遠足を思い出した。ピクニックシート、敷くのは良いけれど感触はそのまんま地面なんだよね。懐かしいような感慨深いような心地になる。
 目を閉じると瞼の裏に朱色の炎がちらついた。


 ――翌日。
 昨日と同様、黙々と森の道を進んだ。昼頃になると急激に変化が訪れた。
「な、なんか……っ、歩きづらいんですけどっ」
 途中で歩きやすい公道が途絶えてしまい、道なき道に突入したのである。
 つい文句を垂れてしまったが、これって。
 行きと同じ?
 〈繚華ノ町〉を出発し、〈南鐐ノ森〉に入ってすぐもこんな具合だった。
 木の根っこに足を捕らわれ菩提さんに救出されている私を瑠璃さんが振り返り、小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。これもデジャヴだ。
「成長しない奴だな、お前も」
「…………」
 無言で睨み返す。こんな短期間で著しく成長出来たら誰も苦労しないだろう。
 喧嘩する元気はなかったので、私は買い言葉を素早く無難な質問へとすり変えた。
「あとどれくらいで着きますか?」
 瑠璃さんはしばし考え込むように虚空に視線を投げかけた。
「……そうだな。宵の口には着くだろう」
 それって、今日中ってことだよね。
 よし。
 一人喜んでにやにやと笑っていたらしい。瑠璃さんがわざとらしい溜息をついた。
「お前が途中で潰れなければという話だ」
 潰れるって。
 日々運動不足の自覚があったので、私は乾いた笑顔を返す他なかった。
「森を抜ければ歩きやすくなる。大丈夫だよ」
 菩提さんがさりげなくフォローしてくれた。よし、頑張ろう。
 本当は〈御殿〉に近付くにつれて喜びよりも不安が募ってきているのだが、それはあえて無視しようではないか。



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