頭上の細い月が明るく感じられるほどに闇が深くなってきた。瑠璃さんの持っているカンテラの灯りが今は心許なく思える。電球の明るさとは比べ物にならないくらい弱々しくて、気を付けないと足元の小さな石ころに躓いて転んでしまいそうだった。せめて瑠璃さんが真っ白な衣を羽織っていてくれたならもう少しはマシだったのかもしれない。確か白は光を反射するけれど、黒は光を吸収するんだよね。私の一歩前を黙々と歩いている黒い衣を纏った彼の姿は今にも暗闇に溶けてしまいそうだ。 私は顔の前に腕時計をつけている方の腕を持ってきて、目を凝らして文字盤を確認する。八時十二分。 もう大分前から五分に一回は時計を確認している。瑠璃さんの「出来るだけ口を開くな」という発言以来三人とも一言も言葉を発しておらず、なんとなく重い沈黙が続いていた。別に険悪ってわけじゃない。でも、張りつめたような、妙な緊張感があった。〈南鐐ノ森〉は不気味な静寂に包まれていて、時折聴こえる獣の鳴き声や鳥の荒々しい羽ばたきが一層禍々しさを際立たせている。 ただひたすらに歩くという単調な動作と周囲の似たような景色とが相俟って、徐々に緊張感が薄れ、神経が痺れるような錯覚に陥り始めた頃、それは起こった。 まず、瑠璃さんが歩みを止めた。 続いて菩提さんと私も立ち止まる、が。 ただでさえ鈍い私はその急な事態に対応しきれず、彼の背中に顔をぶつけてしまった。けれどその醜態を気にする間はとてもなかった。 不意に、左に広がる林の中から、がさがさっと激しく枝葉が揺れる音がした。風が原因ではない。 音の正体は、こちらへ向かって近付いているようだった。 「下がっていろ」 瑠璃さんが低い声で告げた瞬間――。 本当に、一瞬の出来事だった。 がさがさがさっと音が大きくなったと思った刹那、木々の隙間を埋める漆黒の中から銀色の影が飛び出した。 「!!」 私は飛び出してきたものを見て、目を見開いた。 月明かりに慣れてしまった私の眼はそのものの姿を正確に捉え、はっきりと像を結ぶ。巨大な影の正体は、狼――でも、鋭い耳は異様に長くて狼のそれではなく、手足も熊のように太かった。さらに、顔が醜悪だった。ウツボに毛を生やしたらこんな感じなのかもしれない。何より大きかった。小柄な馬か、それ以上はある。 直感で悟った。この獣がくだんの〈白狼〉であると。 〈白狼〉は灰白色の目で瑠璃さんを見ていた。息が物凄く荒くて、赤紫色の蛇のような舌がだらりと口からはみ出ている。鋭い牙の隙間からはだらだらと滝のように涎が滴っていた。 と、息を止めて硬直する私の手首を菩提さんが掴んだ。即座に走り出す。 それを合図に〈白狼〉が瑠璃さんに飛びかかった。瑠璃さんはいつの間にか既に抜刀していて、長い剣を薙ぐように動かした。 「あ、あっ、やっ」 情けない声を出したのは私だ。十分に距離をとったところで菩提さんは立ち止まり、私を背に庇って槍を構えている。 思わず口を手で覆った。瑠璃さんの剣の切っ先が〈白狼〉の両足の裏を浅く裂き、血が噴き出したのだ。生き物を切ったら血が流れる、そんな当然なことに私は驚愕する。だってこんな場面を見たことがない、ううん、目の前の光景を脳が把握できていない。理解が追い付かない。 それから息つく間もなく恐ろしいことが起こった。前足を傷つけられたはずの〈白狼〉は全く怯まず、そのままの勢いで瑠璃さんに向かって行ったのだ。 〈白狼〉は瑠璃さんの頭を食い千切ろうとしているに違いなかった。瑠璃さんは左腕で顔を庇いながら、右手の剣を握り直して柄で〈白狼〉の側頭部を殴った。 怖かった。現実の光景だと理解したくはない光景だった。 鈍い、とても痛そうな恐ろしい音が響いた。今度こそ大打撃を受けたはずなのに、銀の獣は少しもダメージを受けた気配がなく、一旦地に足を付けて体勢を立て直すと三秒と間を置かずして再び瑠璃さんに飛びかかった。 それから長い、攻防戦が続いた。牙と刃。爪と刀。 瑠璃さんの衣が何箇所か裂けた。怪我も負ったようだった。 「菩提さんっ」 「仲間が待ち伏せしている可能性がある。瑠璃の助太刀には行けない」 言いたいことを言う前に素早く説明され、私は息を呑んだ。 そうだ。仲間。〈白狼〉は群れで行動するんだった。 でも。 「……様子がおかしい」 菩提さんが呟き、目を凝らして瑠璃さんに飛びかかる巨体を見つめた。 実は私も、そう思う。 なんて言えば良いのか。そう、「生き物らしさ」が感じられない。 傷を負っても全く怯まないところもそうだが、何より動きが機械的だった。ロボットみたいに動きがぎこちないという話ではなく、行動があまりに一貫しているのである。先ほどから瑠璃さんに飛びかかっては払い除けられ、また飛びかかっては払い除けられの繰り返し。普通だったら、群れで狩りをするような動物ならなおのこと、少しは学習というものをしないだろうか? それがこの〈白狼〉にはない。それに、この瞳だ。まるで瑠璃さん個人に怨みを抱いているかのような――。とにかく、林の中から飛び出してきた時点から今に至るまで、一切目を逸らしていない。野生動物の心理なんてわからないけれど、瑠璃さんを憎悪しているようにどうしても見えた。 延々と続くかに思われたその戦闘は、次の瞬間ふっと終わりを告げたかのように見えた。 瑠璃さんの剣が正確な角度で、決定的な位置に滑り込んだのだ。 多分……、ううん、確実に、心臓を貫いたと思う。 でも、現実は私の想像通りには動かなかった。〈白狼〉は倒れない。どころか、大量の血を胸から迸らせながらも全身をばねのようにして地面を蹴り、正面から瑠璃さんに飛びかかる。 何かが決定的に間違っているその光景に、言葉が出なかった。 どれくらいの時間、〈白狼〉と瑠璃さんの攻防戦が続いたのだろう。 ううん、攻防戦ではない。瑠璃さんは守る時は守り、攻める時は攻めたが、相手はそうではなかった。ただひたすらそれしか出来ないみたいに、同じ動作を繰り返していた。 不意に〈白狼〉の動きが止まった。 とさりと、糸が切れた操り人形のごとく静かにその場に倒れる。 しばらく、その場に立ち尽くしたままの私も、抜き身の剣を無造作に握る瑠璃さんも、私を庇って槍を構えていてくれた菩提さんも、口を開かなかった。 「――終わったようだね」 菩提さんが無感動に告げたその事実が何故かぐさりと胸に深く突き刺さる。自分が傷付いたのか驚いたのか、判断出来ない。 終わった。 そうか、今目の前で息絶えたのだ、一つの命が。 その事実に戦慄すると同時に、世界に色と時間が戻るような感覚を覚えた。今の今まで、私は震えていたらしい。しかも、無意識のうちに菩提さんの衣の袖を握っていた。 私は自分の手の中にある白い衣の端を呆然と見下ろし、何度か瞬いた後、慌てて離した。菩提さん、気付いていないと良いのだが。 ふと冷たい風を感じた。でもそのすぐ後に風が冷たいわけじゃなくて自分がかいた汗のためにそう感じたのだと気付いた。 ああ、現実味がない。牢に入る瞬間の方がまだ、私は正気だったのではないか。 「いや、まだだ」 瑠璃さんがとんでもなく不吉な台詞をさらりとのたまった。でも瑠璃さんの言葉に反して、もはや血まみれの襤褸切れといった風情の〈白狼〉がその身を起こすという事態は起こらなかった。起こったら今度こそ私、耳を劈くような悲鳴を上げていたと思う。 まだって、どういうことなのか。 菩提さんが肩を竦め、瑠璃さんの方へ歩み寄って行った。 私は恐怖のためというよりは完全に放心状態だったので、その場から動けなかった。人間ってすごいね、意識しなくても立ち続けることが出来るんだ、なんて限りなく現実逃避に近いことをちらと考える。 少し離れた場所にいる私が呆然と見守る中、何やら瑠璃さんが儀式めいたことを始めた。 その屈みこんだ横顔が月明かりでぼうっと青白く浮かび上がって見えた。おかしいな、少し前までカンテラの灯りだけではとても暗くて頼りなく、たった一歩先でさえも目を凝らさなければ判別がつかない程だったはずなのに、目が慣れてしまったのか。それにしては異様に感じた。 異様といえば無論、少し離れた場所で厳かに始められた光景の方が異様だったが。 ……何をしているんだろう。 菩提さんは瑠璃さんに何か手を貸しているというわけではなく、単に瑠璃さんの行為に興味を持って傍観しているだけのようだった。 瑠璃さんはまず懐から取り出した白い清潔そうな布で剣にこびり付いた血糊を丁寧に拭った。その後、剣を地面に突き立てる。丁度〈白狼〉の亡骸の真正面に当たる位置だ。 地面に片膝をついた体勢のまま、瑠璃さんが手を合わせた。片膝をついた姿勢であることを除けば、そのまま、日本式の合掌だった。 だから私はてっきり、瑠璃さんが〈白狼〉を弔っているのかと思ったのだが。 ふと瑠璃さんの唇が動いていることに気付く。聞き取れないほど微かな声で、何かを唱えているようだった。何だろう。お経だろうか。 唐突にぱしんっと手を叩いた。 不謹慎だ、それは初詣の間違いだっと私が一人内心で非難していると、奇妙なことが起こった。 〈白狼〉の亡骸が、動いて――。 違う。 そうではなかった。倒れた血みどろの強大な屍から、何かがずるりと這い出てきたのだ。 うう、こう言うのはどうかと思うが、結構な「量」が出てきた気がする。 どろりとして、粘着質な黒いモノ。それは〈白狼〉の屍骸を完全に離れると大きく蠢いた。 波打つように数回揺れた後、人型を形作る。 黒いけど微妙に透けた人……というか幽霊、いや化け物、みたいな存在が姿を現した。 こういう時まともな女の子だったらきっと甲高い悲鳴を上げたりとかするんだろうな、と私は見当違いな方向に思考を巡らせた。私は悲鳴も上げなかったし、顔を引き攣らせることもなかった。どこかが麻痺しているような感覚の中、私はただひたすら目を凝らしてその光景に見入っていたのだ。案外図太いのかな、私。 菩提さんは少し警戒したような顔つきになったけれど、一方の瑠璃さんは余裕綽綽といった表情を浮かべた。 あ、とその時急に気付く。化け物。 〈魔羅〉。 あれが……? まさか人型を取るとは夢にも思わなかったけれど、多分間違いないだろう。 「運が悪かったなぁ、お前。よりにもよって守護軍の者を襲うとは」 瑠璃さんが例の小馬鹿にしたような笑みを口元に浮かべる。あれ、大丈夫なのかな。無防備に見えるけれど。 というか化け物に話しかけているよこの人、と私は内心密かに引き攣る。怖くはないのか? 「どうした、口も利けぬ程低級なのかお前」 『……態とだよ、態と。あんただから狙ったのさ』 不明瞭な、聞き取りにくい微妙に高域な声。それが〈魔羅〉の発した声であるのはすぐに分かった。だって瑠璃さんも菩提さんもこんな汚い聞くに堪えない声はしていないもの。 それにしても、態とって? まさか瑠璃さん、〈魔羅〉の恨みを買うようなことをしでかしたんじゃないだろうな。 「ふうん。どういった訳で?」 いや、その発言がすでに不躾だぞ。 『白々しいね、あんた。この〈白狼〉、見覚えがないのかい?』 「何?」 『こいつはあんた達〈シュゴグン〉が先日皆殺しにした群れの頭だよ。一頭だけ打ち損ねたのがいたろう? それがこいつさ』 ……「皆殺し」? 待って、どういうことだ。 皆殺しって、〈白狼〉の群れを? 幾ら人に害をなす生き物だからって、それはあまりにも酷いのでは……? 『こいつの子供がな、あんたの手で殺されたのをこいつは見ていたんだ。あんたへのその深い怨みに俺は魅入られた。俺さぁ、力は弱いけどこれでも中級魔なわけ。そろそろ血が浴びたかったから、こいつのこと利用しようと思ってさ、唆したんだ。少し力を与えてやったら、まぁ、困ったことに俺の言うこと聞かなくなりだして。そりゃあ怨みが増すようにちょっとばかり細工はしたけれどもさ、まさか自分の身を顧みずに一人っきりであんたに復讐しに行くとは思わないだろう? 驚いたね、これじゃあ翻弄されてんのは憑いた俺の方さ。なぁあんた、こいつの最後見たか? 止めを刺したのはあんたじゃないんだぜ。俺ももう困っていたんだよ、言うこと聞かないんだからなぁ、こいつ――』 半透明の人型を取った〈魔羅〉は驚くほど饒舌だった。 吐き気を覚えた。 人間のようだと思ったのだ。 人間のようって、私は人間なのだが、人間に似ているだけで実は化け物っていうその存在が、酷く気味悪いものに思えた。 だって、何故人間に似ているのか、その理由って漠然とわかる気がする。 『中々面白かったろ? まあ結局、こいつの復讐は叶わなかったわけだけど』 何が面白いのか。化け物に道徳を説くのは絶対に間違っていると分かるが、一言物申したい気分になった。 『何が楽しくて犬死にしたんだろうなぁ、こいつ』 楽しいわけがないではないか、復讐って言葉の意味を知らないのか? 私は遠くから瑠璃さんの横顔を睨みつけた。一匹の、凶暴とは言え確かに生きていた温かな命を弄んだこの化け物を、早く成敗して欲しかった。 でも、瑠璃さんには先程までの余裕の表情は消えていた。無表情というに相応しい、何を考えているのか分からない横顔。 「瑠璃」 菩提さんが躊躇いがちに彼の名を呼んだ。多分その声には私の内心と同じ催促が籠っていたと思う。 でも、瑠璃さんは動かなかった。聞こえなかったのだろうか。 〈魔羅〉がけたけたと不気味に笑いながら、不意にぐにゃりと姿を変えた。 蛇のように細くなり、瑠璃さんに襲い掛かる。 瑠璃さんがその攻撃を避けたのは良いが、〈魔羅〉はそのままの勢いで瑠璃さんの後ろにいた菩提さんにしゅるっと巻きついた。狡猾そうだから、初めから菩提さんが狙いだったのかもしれない。だって彼は守護軍の人間ではない。 「菩提さん!」 ぞっとして、私は咄嗟に声を張り上げていた。菩提さんが身を守る手段を持っているって事実を忘れていたのだ。 〈魔羅〉に首に巻きつかれた菩提さんは苦しげな顔をしながらも、槍を握り直し、穂先を〈魔羅〉に叩きつけた。 『ぐぎゃっ』 じゅっという何かが焦げるような音とともに〈魔羅〉が奇妙な悲鳴を上げる。槍の穂先についていた黒い霊符が一瞬で燃え尽き、ぽろぽろと剥がれ落ちた。 『おのれおのれおのれ!』 〈魔羅〉が悲痛な声で叫び、今度は再び丸腰の瑠璃さんに襲い掛かった。 と、思ったら、瑠璃さんの首に巻きついた部分を残して〈魔羅〉の体がぶちっとちぎれた。 そしてすごく機敏に〈魔羅〉は私の元に迫って来た。 「!」 悲鳴を上げ損ねた。あまりの恐怖に声なんて出なかったというのもあるが。 「光っ、霊符を!」 菩提さんの慌てたような声。 ええっ、でも、どうしたら良いの!? 激しく混乱しつつ、スカートのポケットから慌てて三枚の霊符を取り出す。もう、確認している余裕なんてなく、全部一緒に丸めて間近に迫っていた〈魔羅〉に投げつけた。 その中の二つは、だって、直接当たらなくても大丈夫っていうモノであるはずだったし。 でも、赤白黒、丸めた三色の紙の塊は運よく〈魔羅〉に直撃するも、ぽすっという何とも手ごたえのない音を発しただけだった。 そう、本当にただそれだけだった。 ――何故!? 混乱が極まってまともな思考なんてとても出来なかった。なんで、なんで、と馬鹿みたいに繰り返す。 〈魔羅〉は大蛇の姿だったけれど、どこか困惑したような気配を滲ませた。そして硬直して目を剥くばかりの私に、ずいっと頭を近付け、匂いを嗅ぐような仕草をする。体は半透明で亡霊のようなのに妙に獣じみた仕草だ。獣にとり憑いていたためなのか。 『……ん、あれ?』 目の前の存在に気を取られていた私は、瑠璃さんが剣を掴んで駆け寄ってきてくれていることに気付かなかったし、何故かその〈魔羅〉も私に気を取られて気付かなかったようだった。 『なんだ? あんたから主の匂いがするぞ』 は? と私が耳を疑った時、〈魔羅〉の首がすぱっと切れた。 『卑怯だぞっ』 切られても痛みはないのか、〈魔羅〉が威勢よく悪態を吐く。 「馬鹿が」 低く罵る声。瑠璃さんの瞳に残酷な色が浮かんだのを私は見つけてしまった。どうしてだろう、滅びゆく化け物よりも瑠璃さんの嘲笑に戦慄が走る。 あぁ、そうか、同じなんだ。 私もこの嘲笑を向けられたことがあるから。だから〈魔羅〉に同情まで湧いてしまったのだ。 瑠璃さんが〈魔羅〉に向けて手を翳し、呪文のようなお経のような歌のような、不可思議な言葉を紡ぐ。 ぼっと〈魔羅〉の半透明の身に青い炎が灯った。 『なんだよう全く、このお嬢さんとすげえ話がしたかったのに殺しやがってぇ!』 私にはもう〈魔羅〉の言葉は届かなかった。ただただ瑠璃さんの冷たい目を見つめる。間近で見る淡紫色の瞳は澄んでいてとても綺麗なのに、この世の全てを嫌悪するかのように細まり、嘲笑を形作っている。歪んだ表情。見ようによっては苦しげだった。 『ああー死んでるよ俺ー、超死んでるー』 〈魔羅〉の呑気な声が響く。さっきは人間みたいだと思ったけれど、やっぱり違う。死ぬ瞬間がいつも苦痛に満ちたものであるとは限らないだろうが、逝きながらこんなことを言う人間は絶対にいないはずだ。 『はい、死にましたっと』 不謹慎な言葉を最後に、〈魔羅〉は燃え尽き、跡形もなく消え去った。 |