第一幕:06



 しばらく歩いて菩提さんの自宅がもう視界にはっきりとは捉えられなくなった頃に、私は一度も振り返らずに歩き続けていた隣の菩提さんを見上げた。
「妹さん達にはお別れを言わなくて良かったんですか?」
「うん、まあ……」
 菩提さんが気まずそうな顔をしたので、申し訳なくなる。よく考えてみたら私、まともにプライベートな話に首を突っ込んでいるんだ。菩提さんは多分寛大なんだろうけれど、だからといって昨日今日会った赤の他人に家庭の事情を詮索されたら好い気はしないだろう。私は私の方から彼のプライベートに足を踏み入れるのはそれきり止めることにした。
 身支度を整えた菩提さんはどことなく凛々しさが増した。髪はお団子ではなく後ろで綺麗に一つに束ねていて、服装は白い衣の下に黒い袴を穿いた純・和風といった形態のものに変わっている。剣道着に近いかもしれない。でも携えているのは日本刀ではなく、私の身長よりも長い槍だった。武器、である。物騒な気配を感じて私は長槍からすぐに視線を逸らした。出来ればこれを使う場面には遭遇したくないけれども……。
 それにしても髪、長いな。お団子にしていた時は分からなかったけれど、腰に近いところまで伸びている。
 睫毛も長いし、色白だし……。
 いやいや。彼を観察することで現状から逃げてどうするのだ、自分。
「妹達には、説明してもよく分からない話だから……」
 菩提さんがもごもごと話の続きを口にした。視線は前方に向けたまま。
 そうか。四歳の双子さんと六歳の子じゃあ、確かにちょっと難しい話なのかもしれない。
「ところで……」
 そういえば、彼に訊かなければならないことがあるのだった。
「ん?」
 菩提さんがこちらを向く。いや、うん、ほんと格好良く見える。顔は女の人みたいにたおやかで優しいのに、不思議だな。
 薄抹茶色の瞳がぱちぱちと怪訝そうに瞬く。いかん、見蕩れている場合ではない。
「もう一人の護衛さんとやらは、どこに?」
「あぁ。早朝書簡が届いたときに僕らは既に話し合って、町の正門前で落ち合う約束をしたのだけれど……。そういえば光は知らないんだったっけ」
「誰なんですか、『瑠璃さん』って」
 女性ですよね、と付け加えると、菩提さんが変な顔で硬直した。そして何故か、答えるのを渋った。
 とてもとても嫌な予感がするのだけれど、杞憂で終わって欲しい。
 じっと見つめ続けていると、菩提さんが観念したように口を開いた。
「まぁその……、非常に言い辛いのだけれど、瑠璃っていうのは紅蓮守護軍第二師団に所属している一つの連隊を率いる長でね。〈淡紅桜花〉の、殊にこの町周辺の警備をしている奴なんだ」
 悪寒がしてきた。
「まさか……いえ、私の思い違いでしょうけど念のため訊いても良いですか、その人に私、もしかしてもしかすると既に会ったことがあったりなんかしますか」
 戦々恐々と尋ねてみれば、困ったように頷く彼。
「うん、まあ……」
「えええ!?」
 思わず素っ頓狂な声で叫んでしまう。普段ならこんな大きい声、絶対出さないのに。
 私の嫌な予感はどうやら的中してしまったようである。
 ショックで魂を飛ばしかけている私に、菩提さんが追い討ちをかけてきた。
「と、いうより、こう言った方がよりわかりやすいのかな。君を牢に連行してきた目付きの悪い奴がいただろう?」
「ひいいっ」
 嫌、その先は絶対に聞きたくないっていうか後の残り僅かな時間だけでもいいから悪足掻きをさせて思い切り逃げさせて目を背けることを許して、現実から!
「――君を連行してきたそいつが、瑠璃なんだ」
 悪夢、再び。


 正門に到着したはいいが、人影がなかった。菩提さんと揃って首を傾げつつ町の外に出る。
 二人の門番さんがちらりとこちらに視線を送る。好奇と不審が半分半分といった目。しかも、そのどちらもが菩提さんではなく明らかに私に向けられていた。「何だこいつ、変な格好して……」という心の声が聴こえてくるようである。または、「なんでこんな奴が俺達の町から出てきたんだ?」といった具合だろうか。落ち込むものか。余談だがこの町の門番さんは交代制で、毎日人が変わるらしい。
 正門から二十歩ぐらいの距離までは乾いた大地が剥き出しになっているが、それ以降はずうっと地平線の向こう側まで花の絨毯が広がっている。見るのはこれで二回目だけれど、やっぱり感嘆して見蕩れてしまう。全体的に桃色の花畑だ。
「綺麗ですね」
「そうかなぁ?」
 私の無意識の呟きに菩提さんが首を捻った。ちょ、これを綺麗と感じられない感性って一体。
「ここは一年中こうなんだよ。確かに綺麗だけど、さすがに見飽きるかな」
 一年中?
「一年中って、冬も?」
 菩提さんが私の方を向き、目元を和ませた。そういえば菩提さんの淡い瞳の色も春を連想させる。
「そっか、光は知らなくて当然だね。そう、冬も。〈淡紅桜花〉は常春の〈郷〉なんだよ」
「……常春?」
「うん」
「え、じゃあ、夏も秋も冬もないの?」
「まあ簡単にいえばそうだけれど……ない、ってことではないかな。一年中温暖だけど、冬には比較的寒くなるし夏には日差しが強くなる」
「えー、それっていいなぁ。羨まし……じゃなくて、それじゃあ、他の〈郷〉はどうなんですか?」
「光は本当に、何も知らないんだね」
「うひ」
「今までどうやって生きてきたの? 瑠璃の話を聞いた時には冗談だと思ったけれど、まさか本当に〈南鐐ノ森〉の中に居た?」
 菩提さんが急に疑いをかけて……いや、好奇心かな。
 〈南鐐ノ森〉って、多分花畑の向こう側にある森のことだろう。
 私も最初はそこから迷い込んで来たのだとばかり思っていた。でも、今は鼠の話の方が有力なのだ。何故かといえば、昨日鼠が予告した通りに私はこうして今、牢を出て〈御殿〉へと向かおうとしているから。
「えーと……、どうして〈南鐐ノ森〉って言うんですか?」
 赤裸様に話を転換した私だけれど、菩提さんはきちんと答えてくれた。
「『南鐐』は何のことだか知っている?」
「いえ、聞いたことありませんけど……」
「南鐐って、上質な銀のことなんだ。この〈郷〉から見て丁度〈御殿〉の向こう側……、つまり〈金襴珠玉(きんらんしゅぎょく)ノ郷〉にある〈金枝ノ森〉に対応させて付けられた名だね」
 〈金襴珠玉ノ郷〉……? なんだか豪華そうな名前だ。
「あぁ……、光は他の〈郷〉についてもよく知らないんだったね。説明しようか?」
 それはもう是非に。
 勢い込んで頷くと、菩提さんは思案するように虚空を見つめた。
「……〈御殿〉の正門たる東門に面したここは、〈淡紅桜花ノ郷〉。それは良いね? 次に、南の〈碧緑青葉(へきりょくあおば)ノ郷〉。ここは〈御殿〉の右手に位置する。そして先程言った、〈金襴珠玉ノ郷〉。この〈郷〉は、〈御殿〉の裏門たる西門に面している。そして最後に〈白妙銀嶺(しろたえぎんれい)ノ郷〉。この〈郷〉は、〈御殿〉の左」
 ううん、頭がこんがらがりそうだ。
 私が小さく唸ったのに気付いたのか、菩提さんが話を区切った。
「とりあえずは名前だけ覚えていれば良いんじゃないかな。これから全部の〈郷〉を回れっていうんなら別だけれどね。まぁ、こう言った知識はしかるべき場でしかるべき方によって教えられるべきなんだと思うよ。〈御殿〉に着けば全て何とかして頂けるはずだから、光は安心しておいで」
 その自信はどこから湧き出てくるんだ、菩提さん。私にも爪の先程でいいから分けて欲しいものだ。
 ふと甲高い鳥の鳴き声のようなものが聴こえて、私は顔を上げた。高い空を鳥が滑るように飛んでいく。鳶かな、鷹かな、隼かな。遠すぎてよく見えないし、見えても多分私には判断できない。
 菩提さんが正門の斜め前に一本だけ生えていた大きな樹の元へ私を誘った。今日は昨日と違って日差しが強い。もしかして夏なのかな? だとしたらこの世界の季節は向こうの世界と連動しているということになる。いや、たまたま今回被ったというだけで、実は全然季節の巡り方が違うのかも。春と秋が長くて夏と冬が短い、とか。
「座らないの?」
 盛り上がった太い木の根っこの上に既に腰をかけている菩提さんが私を見上げる。いや、座ってもいいんだけれど……なんとなく今は心が落ち着かなくて、そんな気になれないのだ。門番さん達も時折思い出したようにこちらを見るし。
「まぁ、お気になさらず……。それより瑠璃さんはどうしたんでしょうか?」
 本当は触れたくない話題だった。でも、もうその本人と実際に対面する時が迫っている。避けては通れぬ道、といったところだろうか。
「本当だね。遅刻なんてする柄じゃないだろうに」
「その、瑠璃さんってどういう人なんですか?」
「気になるの?」
「……気になるというか、怖いんですけど」
「そっか。そうだよね。僕も怖いよ」
「え、菩提さんも? どうしてですか」
「うーん。尊敬は、しているけれどね。彼がこの町の治安を守っているようなものだし」
「虐められてたんですか」
「うぐっ。違う、そんなことないよ、というか僕の方が年上だし!」
「ええ!? 菩提さんって何歳なんですか!」
「二十歳だけど……」
「嘘ぉ!!」
「ちょっと、光! それってどういう意味!?」
「違いますよ、菩提さんは見た目通りの年齢で問題ないんですけど、瑠璃さんが十代っていうのが信じられないんです!」
「あぁ、そっちか……。ええ? そうかな? 瑠璃も見た目通りな気がするけれど……」
「ちょっ、菩提さん貴方の目はフシアナですか。あの人なんかすげぇ邪悪なオーラを纏ってるじゃないですか、悪の大魔王みたいな!」
「……おーら? ねぇ光、邪悪に見えるのと年齢とは関係ないんじゃない?」
「ありますよ! なんかこう、荒んでて! 悪徳商法とかに手を染めた中年みたいなオーラが出てたもの!」
「おーらって何?」
 と、こんな具合に平和的なのか何なのか、少々脱線した話をしていた時である。
 菩提さんが不意に私の背後に目を遣った。
 ……何この状況。デジャヴ?
「誰が邪悪だ」
 という、身の毛も弥立つ低いお声を聞いた私は、瞬時に頭の天辺から足の爪先に至るまで完全に氷結する。いつからそこに!?
 そして先程彼を「怖い」と言っていたはずの菩提さんは気楽に話しかけた。
「遅かったじゃないか」
「ふん。誰の所為だと思っている」
 私は不自然にゆっくりと背後を振り返った。
 昨日私に剣を向け、捕縛し、そして牢獄へと連行した男性がこちらに向かって歩いてくる。どこか憮然とした表情を浮かべて。
 怖い怖すぎる助けてくれ殺される、と半ばパニック気味に慄きつつもしっかりと彼の全身を確認してしまう。何故か菩提さんと同じような格好をしているのだ。濃紺の袴に白の上衣。違うのは、その上に漆黒の長衣を無造作に羽織っていることだろうか。意外に柔らかそうな薄茶の髪が風に揺れている。
 私は瑠璃さんが至近距離にやってくる前に立ち上がった菩提さんの背中に隠れた。
「……なんだ、どうしたんだそれは」
 瑠璃さんが不審げに言う。「それ」って何、「それ」って!
「ん、何でもないよ。気にしないで」
 菩提さん、後は任せた。
「霊符の残りが僅かだったので調達していたのだ」
「あぁ、そうか。それは仕方がないね」
「これがお前の分だ。黒が呪縛符、白が守護符、赤が退魔符。よいな、忘れるなよ」
「うん、助かるよ」
 ……何の話だろう?
 気になって恐る恐る顔を出したら、額に衝撃が走った。
「!?」
 ――何が起こったのか。
 すぐには理解できずに混乱する。菩提さんも呆気にとられた様子で私を見ていた。
 瑠璃さんだけが相変わらずの憮然とした顔で……いや、口元が笑っている。
 でも、昨日見たような嘲笑とはかけ離れたものだった。どちらかといえば単純に面白がっている感じ。
 こんな顔もするんだ、と私は一瞬胸を打たれかけたが、額の痛みで現実に返る。
 どうやら瑠璃さんにデコピンされたらしい……のだが、意味不明過ぎる。
 何なの、この人!?
「瑠璃……、一体、何を」
 菩提さんが呆れている。怖いと言ったのはもしかして私に合わせてくれただけなのかも、という可能性が浮上してきた。
 私が目を白黒させながら見上げると、瑠璃さんが平然と言い切った。
「特に意味はない。強いて言えばその娘が虐げたくなるような顔をしているためだな」
 ひぐ、と私は窒息しかけた。やっぱりこの人、極悪!
 菩提さんが額を抑えて青ざめている私を憐みの目で見つめる。
「光、可哀想に。〈御殿〉に着くまでの辛抱だからね」
「どういう意味だ」
 瑠璃さんが邪悪な目で菩提さん、の後ろに隠れている私(!)を見た。
「そのままの意味だよ」
 何の応酬ですか、菩提さん。
 菩提さんという盾が横に退いてしまい、私は瑠璃さんと向かい合う形になった。再び菩提さんの後ろに隠れようとしたら、菩提さんに止められてしまった。うう。
「瑠璃、まずは謝るべきなんじゃないのか?」
「あ?」
 私は大いに慄いた。今の「あ?」って声、流血沙汰の大喧嘩開始五秒前のヤクザみたいだった!
 菩提さんも、一体どういうつもりなんだろう。勇者過ぎて眩しくて見ていられない、というか話の中心になっているのは明らかに自分だと分かっているのだが極力目を逸らしたい軟弱な心境なのだ。
「昨日光を捕縛したこと。彼女はこうして〈御殿〉に招かれるような貴人だと分かったのだから、当然だろう?」
 奇人? ……いや、貴人か。脳が混乱のあまり誤変換したぞ。
 瑠璃さんが顔を険しくする。
「俺は間違ったことはしていない」
「瑠璃」
「責務を果たしたまでだ。謝るだと? 一連隊を率いる長である俺にそれを求めるのか、お前が? いい気なものだな。ではあの時の俺は一体どうしていれば良かったというのだ。部下が見ている手前、森からやって来たなどとほざく奇矯な者を、まるで正体が分からず通行証も持たずに突如として降って湧いたような小娘を、お前は手放しで信じて認めてやれと言うのか?」
 うーん、そこまで嫌なら別に謝ってくれなくても良いんだけれどな。厭々謝ってもらってもお互いすっきりしないと思うし……などと思いつつ、私は二人を傍観していた。
「そうじゃない。瑠璃、今一時のみ矜持を捨てろ。光が怯えているのがわからないのか?」
「知ったことではないわ! 貴人と言ったが、お前は何を見てそう思うのか。この小娘が貴人であると断言するからには明白な根拠があるのだろう、言ってみろ」
「全く、君という奴は。自分に都合の悪い話になるとそうやって好き勝手にどんどん話を転換していくのだからね。こちらの身にもなってごらんよ」
「俺は正しい論を述べているまでではないか」
「論? 論だって? これを論というのか、君は。それは傲慢というものだよ」
「あぁ貴様は昔から気に食わぬ! 無力である癖に口だけは達者なのだからな」
「無力であることの何がいけない。力量がありながらもそれに凡そ追いつかぬ度量しか持てない浅墓な者よりはマシだろう」
「……誰のことを言っているのだ」
「誰とは言わないけれどもね、驕り高ぶる者は堕落の一途を辿るのみと言うじゃないか」
 うわぁ、うわぁ。二人とも目が据わっている。そして話が見事なまでに脱線してただの罵り合いになっている……!
 いかにビビリな私だとて、ここは一肌でも二肌でも脱いで二人を仲裁するべきだろう。
 と、心では思っていても実際には中々行動に移せぬものだ。足が地面に張り付いたように動かず唖者のように口が利けない私は、さぞかし滑稽に見えるに違いない。
 でも、私にも一応なけなしの勇気というものがある。
「――あの!」
 気合いを入れて叫ぶと、無言で火花を散らして睨み合っていた二人が同時に私を見た。ヤメテ、そんな怒りの気配をたっぷりと残した目で見ないで。
「う、いえ、ええと……と、とととりあえず出発しませんか! ね?」
 私が吃りながらなんとか提案すると、菩提さんがふっと殺伐とした気配を引っ込めた。
「そうだね。瑠璃の分からず屋は置いといて、そうしよう」
 違った、にこやかなのは表面上だったようだ。



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