第一幕:05



 私は目の前の、煤けたような色をしているその木造の家屋を見上げた。
 こう言っては失礼だが、その……かなりボロイ。廃屋と言われたらそれまでといった風情。まず泥棒は絶対この家を狙わないんじゃないだろうか。しかも、家の外壁の木板が一部破損していた。穴開き状態である。
「あまり暇が無いものだから、そのままになっているんだ。近いうちに直すつもりなのだけれど」
 私の視線に気付いたのか、何も尋ねていないというのに菩提さんがそう説明した。淡い罪悪感が沸く。なんだっけ、住めば天国? ……違うか。ともかく人様が普段生活している家のことを悪く思うのは失礼だった。
「光もおいで。まずは母さんに事情を説明しなくてはならないから、君も居てくれると説明がしやすい」
 そう言いつつ、菩提さんは戸に近付く。
 この家屋にだけ特別鍵が備わっていないのか、それともこの町の民家には鍵を取り付けるという概念そのものがないのか、菩提さんはそのまま戸を開けて中に入っていった。間違いなく前者な気がする。ちなみに牢屋はドア式だったが、通常の民家は引き戸のようだった。またしても和風、である。
 入り口で菩提さんの肩越しにそろりと中を覗いた私は感動した。ちょ、マジで!? と叫びたくなるような狭さはとりあえず脇に置いておく。中央に囲炉裏らしきものがあったのだ。凄く日本を感じたけれど、同時にやはり似ているというだけで本物の日本ではないということも思い知らされる。床は畳ではなく乾いた土のようなものだったし、家に上がる時に靴を脱ぐという習慣もないようだったから。
 囲炉裏の向こう側に座っていた年配の女性が顔を上げてこちらを見た、と思う。薄暗くてよく見えない。
「おや、菩提じゃないか。こんな時間に一体どうし……」
 と、中途半端なところで彼女の、いや菩提さんのお母さんの台詞が途切れた。
 お母さんの視線は多分、私に注いでいる。
「……その子は?」
 彼女は直接私には尋ねず、菩提さんへと視線を戻してそう訊いた。
「可哀想な子なんだ」
 ええ!?
 菩提さんが平然と言い切って奥へと進んで行った。驚愕して目を剥いている私には勿論気付いていないご様子。私は菩提さんに呼ばれて我に返り、後ろ手に戸を閉めると既に腰を落ち着けて向かい合っている二人の元へ向かった。
 土みたいな床の上に何かの植物の蔓で編んだらしき敷物がぽつりぽつりと並んでいた。あれ、計七枚……ちらりと疑問が過ったけれど、今はそれどころではないと思い直して私は二人を真似て敷物の上に腰を下ろした。
「あの、お邪魔します。光と申します」
 ぺこりと頭を下げて簡単に挨拶すると、お母さんは感心したようにうんうんと頷いた。
「中々良い子そうじゃないか。どうさね、うちに嫁に来ないかい?」
 ひぐ、と私はつい奇声を発してしまった。い、いきなり何を言い出すんだこの人は! 菩提さんが妄想狂ならお母さんは飛躍魔で……ってちょっと待て、嫁って一体誰の!?
 私が大いに混乱していると、菩提さんが呆れた表情でお母さんを見た。
「会っていきなりそれはないだろ」
 お母さんは不満そうに口を尖らせた。
「お前が家に女子を連れてくるなんて初めてなことだもんだから、つい」
 何? そうなのか??
 菩提さん、オクテなのかな。
「光はそんなんじゃないさ。理由があって僕と行動を共にすることになったというだけの話」
「……どういうことさね?」
「僕らはこれから、〈御殿〉に向かわなければならない」
 菩提さんがそう言った途端、お母さんから表情が消えた。
 それから唇を噛んで、肩を震わせる。その瞳は膝の上で握りしめた彼女自身の手に向けられているようでいて、実は全く別の何かを見ているようだった。まるで何かを耐えているみたい。
「何を……、何を言い出すんだい、お前という子は!」
 お母さんは突然、激昂した。
 ――違うかもしれない。彼女は動揺しているだけなのかも。
 でも、どうして?
「今朝一番に〈御殿〉から僕宛に書簡が届いた」
「お前宛に? 一体どうして! まさか荊樹(けいじゅ)が何か――」
 荊樹?
「そうじゃない、母さん。書簡の内容はあくまでも僕個人に対するものなんだ」
「同じことだろう!? お前宛なら尚更じゃないか! 中央の下衆共は態とお前を選んだんじゃないか!」
 えっと……、私はここに居て良いのだろうか。
 なんて他人事のように思った私に、お母さんの血走った眼(まなこ)が向けられた。
「この子の所為かい? え?」
 訳が分からない私はその瞳を見ただけでもう凍りついてしまう。私の所為って何。どういうこと?
 所為って……確かに今回のことは私が原因していると言える。でも、お母さんが〈御殿〉という単語にここまで反応する理由はわからない。
 声を荒げるお母さんに対し、菩提さんは妙に落ち着いていた。静かな目で彼女を見つめている、ように見えた。
「母さん、そういう言い方は良くない。光は可哀想な子だとさっき言ったろ? この子を〈御殿〉まで送り届けるのが今回の僕に課せられた任なんだ。〈御殿〉直々に頼まれ事をするなんて、この上なく名誉なことじゃないか」
 一見、菩提さんには何も変化がなかった。少なくとも彼と出会って間もないその時の私には、彼の心の機微を理解することは出来なかった。
 お母さんが押し黙り、しばしの沈黙が訪れる。私は訳も分からずどきどきと嫌な緊張感を味わっていた。今になって急に古い木材独特の匂いが鼻を突(つつ)いてきて、何故だか切ない気持ちになる。
「……行くって、お前、今からすぐにかね」
 お母さんが絞り出すようにそう言った。視線を落としたまま。
 菩提さんは苦笑を零しただけで、その質問には答えなかった。人が否定しない時は大抵、肯定である。
「嫌だな、母さんは。いつもならさっさと仕事に行けって追い出すのにさ。そうしおらしくなられちゃ、こっちも調子が狂うだろ?」
 軽口を叩きながらも、彼の瞳は仄暗い色を灯していた。
「一生帰って来ないってわけじゃないんだ。今回のことは急で、僕自身が一番驚いているよ。でも、どうせすぐに元の生活に戻るんだ。僕だって少しくらい夢を見たって許されるんじゃないか? 〈御殿〉だよ、〈御殿〉。天下の〈御殿〉。『護衛として』って条件付きではあるけれど、僕が〈御殿〉に直々に招かれるだなんてこと、本来なら天と地がひっくり返ったってありえないんだから」
 お母さんは俯いたまま決して息子の顔を見ようとはしない。菩提さんもあらぬ方向を見つめて喋っていた。
 私ははっと身を強張らせる。
 今の私ってば、完全なる邪魔者。
 早急に親子水入らずの環境を整えるべし、と本能が訴えていた。
「あのぅ、私、外で待っていますね。着替えとかもあるそうですし、ね……」
 しどろもどろになりつつ立ち上がると、急いで表へと飛び出す。
 私が戸を閉めた三秒後、家の中から盛大な泣き声が聞こえてきた。お母さんの声だ。
 お母さんの充血した目を思い出す。そんなにも、息子が〈御殿〉へ行くのが嫌なのかな。
 戸を閉めた、といっても何せ壁に穴が開いているので、中の声が若干外まで漏れていた。私は申し訳ないような居た堪れないような気分になって、少し家から離れた場所に移動することにした。
 一人になった途端、ぽかりと胸の真ん中が空になってしまったかのような錯覚を覚える。静寂の所為というのもあるのだろう。
 〈御殿〉って、危険な場所なのかなぁとか。
 菩提さんに申し訳ないなぁとか。
 心細さや罪悪感が綯い交ぜになり、目の前が暗くなる。
 私、どうしてこの世界に呼ばれたんだろう……。


 それからは意外と早く事が進んだ。
 私は支度を終えた菩提さんと並んで立ち、表へ顔を出したお母さんに頭を下げる。お母さんは複雑そうな、何とも言えない目で私を見つめていた。
「……良いね、この頃は物騒だから、道中はくれぐれも気をつけな」
 お母さんは菩提さんを見ない。
「わかってる」
 菩提さんもお母さんを見ない。
 私は息苦しさを感じながら親子の短い会話を聞いていた。
「じゃあ、行って来る」
 ついに菩提さんが出発を告げる言葉を口にする。私はお母さんがまた泣くんじゃないかと一人勝手にひやひやとしていた。
「菩提」
 お母さんの低い声。
「きっと、帰っておいで」
「……わかってる」
 少なくともその時の私は、この親子に対して単なる傍観者でいられたのだ。



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