第一幕:03



 木造の人家に挟まれた人気の無い通りを抜けると、小振りの岩山に突き当たった。その岩壁に埋もれるようにして立っている石で造られた頑丈そうな四角い建物の中へと入った。
 どうやらそこが牢屋のようだった。
 暗くて、湿っていて、しかも異臭が漂っている。
 気絶しそう。
 表現が悪いけれど、動物園の檻のような牢屋だった。両脇に連なるようにして並び、その間を妙につるりとした表面の通路が走っている。動物園の動物達もきっといい気分ではないのだろうなと何故か今の自分ではなく他者に憐憫の情を抱く。私はその中の、一番奥の部屋(部屋、という表現は誤りだと思うが)に押し込まれた。途中、ここに来るまでの間に牢屋に捕まっている人々の好奇の眼差しを鉄格子越しに浴びたような気もするが、殆ど茫然自失状態だった私にそれを気にする余裕はなかった。
 高い位置にある鉄格子の嵌められた窓から太陽の光が差し込み、石の床に小さな四角い模様を落としている。
 何も無いことに愕然とした。片隅に藁が積まれているだけだった。本当にこれでは檻の中の動物だ。
 蛇足だが、私はこの建物に入った辺りで別の人間に引き渡されている。小柄で気弱そうな男の人だ。艶の無い髪を後ろで御団子にしていて、どことなく中性的な雰囲気を醸し出している。言うなれば彼は私を捕縛した長身の男の人とは正反対だった。気弱そうな彼に何度も何度も、頭がおかしくなりそうなくらい何度も無実を訴えかけてきたが、ついに信じてもらえることはなかった。ただ少しだけ、哀れむような目で見られるようになった。
 がちゃん、と硬質で耳障りな音を立てて牢の入り口に鍵がかけられる。暗澹たる表情の私を、看守らしきその青年が気遣うような目で見つめてきた。なんとなく優しい人なのがわかる。でも、なんてったって彼も仕事なのだ。譲れないものがあるだろう。
 力なく見つめ返す私に、彼は言った。
「君の身元を証明できる人が現れれば、君はここを出してもらえるからね」
 それは慰めであって、希望ではないだろう。
 ――と、いうか。
 私はある重大な事柄に思い当たって、急激に意識を明瞭なものにした。
「ちょっ、ちょっと待ってぇ!」
 私の尋常じゃない叫びに背を向けて歩きかけていた小柄な男性が戻ってくる。
「あの……、と、トイレ、は……?」
「といれ?」
 彼が未知の言葉を聴いた、という顔をする。トイレが通じないのかこの人は。
「うう……だから、その、用を足すときはどうしたら良いのかと!」
 何で私がこんなことを見ず知らずの、それも男の人に聞かなければならない。頭を掻き毟りたいような気分だ。
「ああ……、この位置からは見えないけれど、向こうに一段床が低くなっている所があるんだ。そこで」
 平然と返さないでほしい。いや、仕事の一貫としてこういったやり取りには慣れているのかもしれないけれど。
 私は男性の指差した場所に駆け寄った。危ないっ、一段っていっても一メートル以上の高さがある。知らずに落ちたら怪我する高さだ。
 私はげんなりとした。コレって要するに汲み取り式の、簡易トイレ……。
 がくっと肩を落とす私に、看守の男性はまた向こうから声をかけてきた。囚人と看守の会話は許されているのだろうか?
「君は女の子だから、辛いだろうけれど。希望を捨てずにね。ああそれと」
 虚ろな目を向けた私に、男性は無邪気な笑みを見せた。嫌な予感がする。
「十日に一度は湯浴みが出来るよ。共同浴場だから、そこで気の合う者に出会えるかもしれない」
 全然嬉しくない情報を残し、男性は去って行った。
 十日に一度でも無いよりはマシか? なんて考え始めている私は、案外タフなのかもしれない。あるいはこれも現実逃避なのか。
 簡易トイレに視線を遣る。トイレの無い国で暮らす人たちだっているんだし、これは恵まれている方なのかも……。
 そうだ、聞き忘れたけれどご飯はどうなるんだろう。でも牢ってのは本来罪を償う場所なのだから、飢え死にさせるようなことはないはずだよね。
 いやいやいや。待て、その前に。
 私、何も悪いことしてないじゃん!!
 ただそこにいただけじゃん!!
 くっそう……涙が出てきた。


 牢の小さな四角い窓から差し込む光が橙色になってきた頃のことである。
 ひとしきり泣いた私は、膝を抱えてぼうっとしていた。無気力、ってこういう状態をいうんだろうか。十五歳にして経験してしまったよ。いやその前に、牢屋に閉じ込められる方が貴重な体験か。
 しばらくして食事が運ばれてきた。しばらく、といってももう夕日が沈んでだいぶ経っている。食事は一日二回だと教わった。食事を運んで来たのは先程の小柄な男性とは違う人だ。刑務所の仕組みなんて知らないけど、一応役割分担というものがあるみたいだった。
 食べる気が起こらなくて、私は相変わらず虚空を見つめて座っていた。ちなみに食事は麦飯オンリー。おにぎりにされているわけでもなく無造作にこんもりと皿に盛られているが、箸や匙は与えられていない。つまり手で直接掴めというのか。いや、インド人は手で食べる習慣があったはずだ。どちらの手かは忘れたけど、片方は不浄の手なのだったっけ。私も食事する時の手とそれ以外の場面で使う手を決めておくべきか?
 あぁ、何も考えたくない、でも考えてしまう。
 ここはどこなのか。
 これは人権侵害ではないのか、犯罪ではないのか?
 もういい、とりあえず寝よう。頭が痛くなってきた。
 私は未だに目覚めたら自分の家のベッドだった、なんて展開を期待している。だって花畑に来た時も、というか「居た」時も、目覚めたら……という感じだったのだ。だからもしかしたら次に目覚めた時には、なんて考えている。
 藁の上で眠る気は起きなかった(家畜じゃないんだから!)ので、体育座りして膝の間に顔を埋めた。節々が痛くなりそうだが、我慢することにする。
 しばらくして、ふと、片方の、床に近い方の手に何かくすぐったい様な変な感触が当たった。
 顔を上げ、その感触の正体を確かめた私は――瞬時に青褪めた。
「どわああっ」
 そしてまた奇声を上げてしまう。
 私の足元にいたのは、一匹の白鼠だった。ちょこりと二本の後ろ足で立ち、円らな瞳でこちらを見上げている。どうやらその、髭が当たっていたらしいのだ。
 これって、ラットって種類なんじゃ……? 妙にデカくて、ぽってりとした体つきをしている。丸い饅頭みたいなお尻からはピンク色のミミズみたいな……いや、それよりもっと太くて長い、尻尾が生えていて。
 一瞬、やや肥満気味ながらも愛らしいその姿に見蕩れかけた私であるが、思い直してみればこれは結構厄介な状況である。だって、鼠って。
 私は慌てて鼠から逃げた。といっても密室だから、離れられる距離は限られている。
 一体どこから――あぁ、あの窓からか。鉄格子が嵌められているので人間だったら拳一つやっと通るくらいの隙間しかないけど、鼠一匹くらいなら通れるだろう。
 何だっけ、詳しくは知らないけど鼠って色んな病原菌を持っているんじゃなかった? とにかく動物なんて何の病気うつされるか解らないし、絶対近づかないようにしないと。
 ううん、私が逃げるんじゃなくて鼠の方を追い出すべきだろうか。
 焦る私に反して、鼠はその場から動いていなかった。あれ、意外と大人しい。
 そういえば私、ご飯食べていないんだった。その匂いに釣られてやって来たのかもしれない。
 などと一人思案する私に、男の人の低い声がこう言った。
『明日までの辛抱だよ』
 と。
 ……一体どこから?
 人気なんてないと分かっていても、つい辺りを見回してしまう。
 幻聴?
『でも今は、飯を食べた方が良い。ほら、腹が減ってはなんとやらと言うだろう?』
 私は自分が疲れている所為でありもしない声を聴いているのだと思った。でも、私に話しかけているのは――どうやらその、白い鼠らしかった。
 私はすっかり精神的に参っていたので、鼠でも話し相手になるんならいいや、ぐらいの気持ちになって、答えた。
「そうだね、言われてみればお腹が減ってきたかもしれない」
 私は放置していたご飯の側に腰を下ろした。鼠が寄ってきて、鼻をひくつかせる。
 もしかして食べたいのかな。
「君も食べる?」
 という私の提案を彼(だと思う)はコンマ一秒で断った。
『駄目だよ、君が食べるべきだ』
 鼠なのに遠慮深い。その体型じゃどう見ても食い意地が張っているように見えるのだが、違うのか?
「麦飯とか、初めてなんだけど。なんか硬そう」
『それ、多分玄米だと思うけれど』
「あ、そうなんだ。私知らないもの」
『じゃあ君は、今まで何を食べてきたんだ? 芋か? 南瓜か?』
「芋……ううん、ご飯だよ。白いご飯。精白米?」
『米? 白い米なんて! 君は身分の高い姫君か何かなのか?』
「違うよ、何言ってるの? 少なくとも私の住んでた所ではそれが普通だったの。私は一般市民」
『そうなんだ……。さぞ、立派な御国なんだろうね』
 などという会話をしながら私は麦……違った、玄米をぱくついた。やっぱり硬い。ていうか炊き方間違ってるんじゃないか、というくらいに芯が残っている。アルデンテが流行っているのか?
 私はふと首を傾げた。鼠なのに、やけに人間の事情に詳しいではないか。いや、やはり私は幻想を見ているのだろう。というか今度こそコレは夢か?
「あのさ、ここがどこなのか知ってる?」
 鼠にそれを訊く私って一体、とすぐに虚しさを覚えて後悔したが、彼は律儀に答えてくれた。
『ここは〈紅蓮〉。一つの国の内部にありながら独自の政治体制を敷き、外部からの一切の干渉を拒む、閉鎖的特殊地区』
 ……紅蓮?
 そんな地名は勿論初めて聞いたけれど、日本風の単語だと勝手に理解した。
「それってどこの都道府県にあるの?」
 私はどこか項垂れた様子の鼠には気付かず(何てったって鼠だし)そう尋ねた。この後衝撃が齎されるだなんて予想だにせずに。
『いいや。〈紅蓮〉は君のいた国にはないよ』
「……は?」
 じゃあ、ここは何処の国なの。
 混乱していると、鼠が軽い口調で言った。
『だからね、まぁつまり平たく言えば、君は異世界トリップをしたんだ』
 鼠の言葉が私の頭に正確には入ってこない。というか、耳が全力で拒否している。
 しばし目の前が真っ白になった後、急激に世界に色が戻ってくる感覚があった。一瞬気絶したような状態。私は変な動悸がする胸を強く押さえて、睨むように鼠を見つめた。
「何言ってるの?」
『そのままの意味だよ』
「嘘でしょ。そんなの信じられるわけがない!」
『静かに。他の囚人に気づかれる』
 鼠が牢の外の狭い通路の方へと顔を向け、再び私と向かい合った。
 その妙に冷静な様子を見て、私は急に焦っている自分が恥ずかしくなった。どきどきといやに速く脈打つ心臓を宥めて、深呼吸する。
 異世界トリップ、なんて信じられない。信じられるわけがない。これで簡単に信じてしまったら、私は何? 馬鹿? 天然? それならまだマトモな方。あるいは心の病気か、狂人か!
 なのに、心のどこかに「絶対に信じられない」って気持ちとは別にもう一つ存在するモノがあって困惑する。「完全には否定しきれない」って主張している声があるのだ。その原因は勿論、林の道での奇妙な出来事と、目の前の存在。
 そうなんだ。あり得ないって叫ぶその前に、今自分の目の前にいる喋る鼠は十分、吃驚仰天な存在だった。それを考慮に入れると、ひょっとして鼠の言っていることは全て真実なのでは、なんて気になってしまう。あぁ、けれどやはり、相当精神的に参っている所為で己の生み出した幻影に惑わされているのだろうか。
 でも、少し冷静な目で見てみても、ちょこりと後ろ足で立ってまあるい赤い瞳でこちらを見上げているその鼠が、血が流れていてそれなりの体温を秘めた生きている存在なのだということは向かい合っているだけで分かる。彼の存在だけはどうしても頭から否定することが出来ず、私はそんな自分に戸惑った。
 ここは本人……いや、本鼠? に直接伺ってみるのが先決であろう。
 私は一つ頷き、足元のポッチャリ系白鼠を見据えた。
「君は、一体何なの?」
『鼠』
 惚けられたのだろうか。
「……それは知ってる。君がどうして喋れて、しかもこんな風に人間の事情に詳しいのかを訊いているの」
『まぁ良いじゃないか、鼠が喋ったって』
 悪くは無いが。
 胡乱な目を向ける私に、鼠はごほんとわざとらしく咳払いをして語り始めた。
『僕のことは追々わかるから、それより今は簡単に君の状況について教えてあげる。先程、ここは〈紅蓮〉という場所だと言ったね。〈紅蓮〉は大きく四つの〈郷〉に分けられる。ここは東の〈淡紅桜花ノ郷〉。ああ、誰かがそう言ったのを聞いたことある? え? もう、僕のことはいいから聞きなよ。〈紅蓮〉を統治している政治機構が中央にある。〈御殿〉というんだ。〈御殿〉は〈紅蓮〉の政事を執り行う場でもあるけれど、文字通り身分の高い人々が暮らす「御殿」としての役割も担っていて、中心の主殿には〈紅蓮〉の最高権力者である〈穢れ姫〉が住んでいる。ん? 何でそんなことを知っているのか? もう、僕のことはいいから聞きなって! 四つの〈郷〉の中で〈淡紅桜花ノ郷〉が一番〈御殿〉に近いのだけれどね、君がここに召喚されたのは偶然なんかじゃないんだ。君は〈穢れ姫〉によって召喚されたんだよ。君は、〈穢れ姫〉に呼ばれたんだ』
 そこまで一息に話して疲れたのか、鼠は、ふう、と一旦吐息を落とした。
『ここまでは、良いかな?』
 混乱して頭を抱えている私にそう確認してくる。
 何も、良くない。
 ていうか激しく頭痛が。
 私がきっぱりと首を横に振ったのを見て、鼠はがっかりしたようだった。鼠に呆れられた。
『君ってちょっとお頭が足りないの?』
 などと更には非常に心外なことを溜め息とともに指摘され、私は多少なりともかちんときた。
「鼠の脳味噌よりはマシなつもりだけれど」
 つい喧嘩腰になってしまう。まあ、口にした台詞は凡そ皮肉的な罵り言葉には程遠い意味不明な応酬だったが。喧嘩なんてし慣れていないので。
 鼠は私の半ば自虐的な返答に虚を突かれたようだった。三秒間固まったあと、はあ、と疲れたような息をつく。
『……まぁ、いいや。時間がないから手短に要件だけを伝えておくよ。さっき、君をこの世界に召喚したのは〈穢れ姫〉だと言ったね。君はまず間違いなく明日には〈御殿〉に招かれることになるはずだ。うん、これは決定事項。いやいや、うん、こっちの話ね。大丈夫、心配は要らないよ。明日には君は、この牢を出られるからね。楽しみにしておいで』
 鼠のその話は、暗い闇の淵にもたらされた一筋の希望の光のように魅力的だった。
 でも。
「どうして……、なんで、私が?」
 疑問が多すぎて戸惑ってしまう。牢から出られるっていうのは勿論嬉しくないわけがないけれど、何故今日、散々不審者扱いされた挙句に罪人として牢屋にぶち込まれた私が今度はよりにもよってその……、〈御殿〉? に招かれるというのか。矛盾があるように感じて、せっかくの魅力的な鼠の予言じみた話も如何わしく聞こえてしまう。
『姫には君が必要なんだよ』
 私の狼狽したような質問に、鼠は自信たっぷりにそう答えた。まるでその〈穢れ姫〉って人から予めその意志を伝えられているかのような断言っぷりで、私は若干怯んでしまう。
 人に必要とされるのは、良いことのはず。
 なのに全然嬉しくなく、どころか不安と焦燥が広がってしまう。
 こんなの、滅茶苦茶で、勝手だ。〈穢れ姫〉って人が特に。
 私はぎゅっと唇を噛んだ。
「……嫌だ。ここにいるのはとても嫌だけれど、〈御殿〉とかいうところに行くのも嫌。帰りたい!」
 小さな声で震えるような本音を吐露した。剥き出しの心はとても脆い上に我儘で他人をも傷付けかねない身勝手なものだから、滅多なことでは人前になんて出せない。でも、ここには変ちくりんな白鼠以外には誰もいない。私の弱音を聞いて失望する大人もいなければ、嘲笑する同級生もいないのだ。
 少しすっきりとした。今の状況についての情報が手に入ったし、鼠相手にだけれど、他者に向けて素直な気持ちを吐き出すことが出来たから。訳の分からないまま、自分の置かれている状況が見えないままなんて絶対御免だ。
 弱音を吐く、どうしてたったそれだけで気分が楽になるのかが不思議。
 一滴だけ涙が頬を伝った。
『ごめんね』
 鼠が突然殊勝な声で申し訳無さそうに謝ってきた。私の沈んだ気持ちを察したのだろうか。
 私は目を見開いてまじまじと彼を見つめた。なんて出来た鼠なんだろう。その辺の人間より、余程立派。
「どうして君が謝るの? 君は悪くないよ」
『うん。でも、姫の代わりに。こんな目に遭わせて、ごめんね』
 鼠の優しさに触れ、一度は引いていたはずの涙が滲んできて、焦る。こんなに小さいのに妙な包容力がある。
『姫もきっと申し訳なく思っているはずだよ。……それより、僕はそろそろここを離れなければならない。人の気配が近づいてきた』
 そんな。
 私は泣くことも忘れて少し慌てた様子の鼠を凝視する。
 監視員の見回りの時間のことを言っているのだろう。でも、彼は鼠なのに。
 私は心細くて、彼を引き留めたくなった。
「どうして人間の目を気にするの?」
『……だって、見つかったら殺されるに決まっている』
「私の後ろに隠れていたら? 駄目なの?」
『駄目だよ。僕にも僕の生活というものがある』
 ――そう、だよね。
 残念だけれど、彼が言うことも尤もで、否定できない。彼には彼の生活がある、当然のことだ。やっぱり鼠は喋れても、結局は鼠。鼠の生活をやめることなんて出来ないんだ。
「そんな。行かないでよ」
 妙に納得しつつも、最後の悪足掻きとばかりにそんな言葉を発してしまう。鼠は困惑したような気配を漂わせてしばらくその場に留まっていたけれど、結局私のために心を変えてはくれなかった。彼は彼の生活を選んだ。
 仕方ないと頭では分かっていても、本心は淋しさで泣いている。
 鼠は困ったようにゆっくりと私の傍に歩み寄ってくると、私の手の先に頭を擦り寄せた。慰めてくれたのかな。
『ごめんね。明日までの辛抱だからね』
 最後にそう言い残して、鼠はヤモリのようにぺたぺたっと壁を伝って窓の鉄格子の隙間から出て行ってしまった。
 ――行っちゃった……。
 鼠がいなくなった途端、ひんやりと冷たく感じられるような静寂が牢と私の虚ろな心を満たした。それは哀しみと名がつくものだろうか。
 ――やっぱり、幻影だった?
 私は堪らない寂しさを覚えながら、ことりと膝の上に額を落とした。
 ぎゅっと目を瞑ると、暗闇が広がる。
 ほんのひと時だったけれど、相手は小さな鼠だったけれど、他者の優しさに触れることが出来たのだ。だから、もう、疲れるだけだし、泣きたくはなかった。
 明日までの、辛抱。
 今はそれを信じるしかない。だってそれしか信じるものがない。
 眠りに落ちる直前、真っ赤な髪の奇抜な格好をした大きな男の人の姿が瞼の裏に浮かんで消えた。



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