目を開き、思考の淵から現実へと戻った私は、何度か瞬く。 そうだった。 学校の帰り道だったのだ。 何故もっと早くに気付けなかったのだろう、やはり私は冷静さを欠いていたのだ。そもそも私は初めから制服姿だった。それなのに、随分思い出すのに時間を要したものだ。 微かな好奇心に突き動かされた私は、水溜りを避けるという面目でいつもと違った道に入った。樹木生い茂る見知らぬ地へと迷い込んだ私はそこで奇天烈極まりない巨人的人物に遭遇し、軽く捕まった。そして会話のうちにも入らないような言葉を何度か交わした。 ――それで? わからない。あの後、自分がどうなったのか。 焦燥に苛まれる。寒くなんかないのに、指先が氷のように冷たい。 思い出したところで今の状況には結びつかない記憶だった。いや、あの奇妙な出来事がこの訳のわからない現状に関係しているのは、多分確かなのだけれど。 でもやっぱり何も、わからない。 どうしよう、と口内で呟き、私はその場に立ち上がって周りを見渡した。 一面を覆い尽くす幻想的な花。 私の前方には、森。 後方には、遠くに人里のようなものが見えた。 私は自分はこの森から来たのだと勝手に理解した。でも、森は人を寄せ付けない、樹海というに相応しいような構えで、何より陰鬱な気配を漂わせていて不気味だった。 はっきり言って怖すぎる。あの中に一人で入って行って無事に元来た道に帰ることなど、到底不可能に思われた。 ――だとしたら、やはりこの辺りに詳しい人に頼るしかない。 そう思って、私はまだ震えている己の足を叱咤し、邪悪な気配を漂わせる森に背を向けると人里へと向かって歩き出した。 簡素な町の入り口に到着した私は、木材で出来た大きな門の前で門番のような人達に思い切り睨まれ、通せんぼされてしまった。 現代日本にこんな大昔の村落のごとき造りの町があるものなのか疑問に思ったが、今はそれどころではない。 二人の門番さんは、これまたそこはかとなく「和」を漂わせた雰囲気の衣装を纏った、でも顔立ちは日本人ではないという風変わりな人物達だった。一日中外に立っている所為か肌の色は二人とも褐色に近い。でも髪は色素が薄いのか茶髪に近かった。 私は睨まれて委縮した。二人とも、なんと槍を携えているのだ。 「あの、道をお尋ねしたいんですが」 これを言わないことにはどうしようもないので、私は勇気を振り絞って言葉を発した。 すると、門番さん達の睨みに鋭さが増す。 「怪しい奴だな」 一人がそう言って値踏みするような視線で私の全身を眺める。悪いことをしたわけでもないのに肩身が狭くなる。学校の制服が羞恥に感じられるなど、無論初めてのことだった。 「どこから来た。出身と名を述べ、通行証を見せよ」 もう一人の門番さんがくぐもった声でそう指示してきた。顔に赤裸様な警戒が滲んでいて、今にもその槍で突かれそうで怖かった。 通行証、なんて持っていない。 「あの……、道を教えていただきたいだけなので、別に、中に入れなくても」 私が言い募ると、二人の門番さんが顔を見合わせた。先ほどより更に険しい表情になっている。 どうしよう。 「通行証を、見せよ」 その一点張りだった。下手な返事をしようものなら串刺しにされそうな雰囲気。 どうしよう! 「あ、あのっ、本当にただ、道が知りたいだけで――」 だから、通行証なんてと。 パニックになりかけながらそう言った時、不意に目の前の門番さん達が二人揃って目を剥き、私の後方に視線を遣った。 ……何? 恐ろしく嫌な予感を覚えつつ、私は背後を振り返った。 「――!」 悲鳴を飲み込む。 いつからそこにいたんだろう。足音も気配も全くなかったのに、私の背後には先頭の、私に刃を向けている男の人を含めて十数人の男の人達が立っていた。 信じられようか、いや信じられるはずがない。でもこれが私にもたらされた唯一の現実だったのだ。 「なるほど、怪しい奴だな」 先頭の男性が開口一番、低い声でそう言う。 私からすれば無論、目の前の集団の方が余程怪しげに見えた。一体どこの時代の、どこの国の人なんだろうといった具合。やはり全員が和服のような衣装で身を固めていて、しかも今度は帯剣までしている。でもその剣は大きく湾曲していて幅が広く、日本刀というよりはサーベルといった方が正しかった。何故剣が気になったかといえば、言わずもがな。それを現在進行形で喉元に突きつけられているためだ。 あまりに凄まじい現実に、この剣って本物なんだろうか、などとずれたことを考えてしまう。 先頭の男性が尚も警戒の色濃い表情で微かにサーベルを動かす。切っ先が喉に触れた。私は目の前が真っ暗になる。 何の冗談なのかと聞きたい。ふざけるなと、大声で叫びたい。 私は一体、どこに迷い込んでしまった? 「どこから来た?」 そんなの、私が訊きたい。 先頭の、私の喉元に剣の切っ先を突き付けている男性は肌がひと際浅黒かった。それに反して髪は極々淡い茶色をしている。背が高い。歳は若そうなのに若者らしい瑞々しさに欠けているというか、明らかに邪悪な気配を漂わせている。こちらを見下ろすやけに鋭利な瞳は薄紫色。肌にしても髪にしても瞳にしても、純血の日本人が自然に持つ色彩ではない。殺伐とした目元が印象的、というより怖い人だ。 私はショックで動けなかった。 瞬きも呼吸もまともな思考も、下手したら鼓動でさえ正しく刻めない。 けれど沈黙は許されなかった。剣の冷たい切っ先が動き、顎にひたりと当てがわれる。私は慌てて口を開いた。 「こ、ここはどこですか」 だって、それが分からないことには自分がどの方角からやってきたのかもわからない。 けれど、男の人の顔は当然のように険しくなった。むしろ憎悪が浮かんだといっても良いぐらい。不穏な空気の中に僅かながら殺意が混ざった気がする。 「ふざけているのか?」 低く抑えられた、聞きようによっては穏やかにすら思える声が、逆に竦み上がるほど恐ろしい。ぞわりと肌が粟立ち、背筋を冷たい汗が伝ったのがわかった。 この目の前の男の人達が冗談で私に剣を向けているわけではないということは、その凍てついた眼差しを見れば明白だった。これはエイプリルフールの悪戯とか、ドッキリとかじゃないのだ。勿論そっちの方が私としては大歓迎だけれど、今は現実逃避している場合ではない。 私は震える吐息を押し出し、声までは情けなく震えないように腹に精一杯の力を込め、なんとか男性を見返した。 「違います、ふざけているわけではありません。私は本当に、ここがどこだかわからないんです」 「まずは俺の質問に答えろ。お前の話を聞くのはそれからだ」 「どこから来たのか……、森、森の方からだと思いますけど」 「――もうよい!」 真実を言っているのに信じてもらえなかったどころか、彼の癇に障ってしまったらしい。このままでは話を聞いてもらう云々ではなくてこの剣で串刺しにされてしまう。 私はぶるりと震えた。 刺されたら、その先に待つのは、つまり死。 そんな。ありえない。 私が何をしたっていうの? 先頭の長身の男性が手を伸ばして私の襟首を強引に掴んだ。 嘘。嘘だよね。 絶句する私の顔を観察するように見つめて、男性が口元を歪めて嗤う。 「ここがどこだかわからぬというのだな? では教えてやる、ここは〈淡紅桜花ノ郷〉だ。一体どんな細工を使ったのか知らぬが、本来、〈御殿〉の発行する証明書を持たぬ者が足を踏み入れることは断じて許されぬ。どういう意味か、わかるか」 私はぶんぶんと首を横に振る。もう、声が出なかった。 「わからぬか? お前は罪人だと言っている」 小馬鹿にしたような笑みを唇に張り付けて言う。薄情そうで、空恐ろしい嘲笑だった。 罪人。 今の自分の立場が本当の意味で理解できて、私は改めて衝撃を受ける。どうしたら良いのかわからない。だって、私は圧倒的に不利だった。自分の存在を証明できるものなんて何も――ううん、私は元からこの身一つで、何も持っていないのだから。 「違う、私は……何か悪いことをするためにここにいるわけじゃない」 悪足掻きで訴えた言葉も、彼の嘲笑に一蹴されて終わった。 目つきの鋭い男性は、私の首根っこを強く掴んで押さえつけながら、後ろに控えていた部下っぽい集団と二人の門番に向けて、こう言い放った。 「お前達、天下の〈ベニザクラ〉と言えどもこの通り正体不明の怪しげな者が紛れ込むことがあるのだ。引き続き警戒を怠らぬように!」 次の瞬間、私は投げ捨てるように乱暴な動作で男性に解放された。 と思ったのも束の間。 「お前のような不届き者は、この俺が直々に牢まで連行してやろうな」 私は完全に言葉を無くす。 地面にへたり込んだ私を、男性の部下らしき男の人達が取り囲み、あっという間に縄で縛り上げた。 やだ。嘘。 嘘でしょ! 抵抗も弁解も空しく、私は長身の男性の宣言通り彼自らの手によって問答無用に町の奥へと連行された。 |