第一幕:01



 頬に温かな微風を感じて、私は瞼を持ち上げた。
 途端、眩しい陽光が目に突き刺さる。私は痛みを覚えて顔を顰めた。
 ゆっくりとその場に体を起こす。
 振り仰げば、爽快な青い空が広がっている。まばらに浮かんだ白い雲が、高い風に運ばれて流れていく。
 私は座り込んだ状態で何度も瞬いた。眼前の長閑な光景が、俄かには信じられない。
 そこは、私が目覚めたその場所は、外――さらに言えば、幻想的なお花畑の中だった。
 目を疑わずにはいられない、白昼夢を具現化したかのような現実が広がっている。
 こんな場所に見覚えはなかった。大体、今までの十五年間の人生の中で本物の花畑なんて見る機会は皆無だった。ていうか、興味もない。私はどうも昔からロマンスというやつが苦手だ。特に可愛らしくもない平々凡々たる容姿の私にはそれが尚のこと似合わず、例えば自分が両手にいっぱいの薔薇の花束を抱えた姿なんかを想像してみるとぞぞぞっと鳥肌が立ってしまう。もしかしなくても、地味な私と世の乙女達が憧れるような目くるめく輝かしい場面は相容れない関係にあるのだ。なんだかロマンチックな風景の中に一人放り込まれたら私の姿が霞んでしまいそうで嫌だ。そして周囲の人間に永遠に忘れ去られることは必須なのである。
 私は人の輪の中心に立つに相応しいような人間では絶対にない。同じ高校生でもお姫様みたいにちやほやされる女の子もいればアイドルみたいに注目を集める男の子だっているし、誰が決めたわけでもないのに皆のリーダーとして認識される人だっている。これを仮に「陰の地位」とするなら、私の場合は謂わば「置物」だ。犬でも奴隷でもなく、置物。私はそういう存在。自覚がなかったら痛いキャラだけど、あったからといって別段何かが違うわけでもない。現実はいつだって私の前に泰然と横たわっていて、徒に少しばかり押してみたところでは微動だにしない。覚悟の無い者のちっぽけな決意なんて誰にも受け入れられない。そんなものは若干二秒で雑踏の中へと飲み込まれ、かき消える。
 現状を打破したくて我武者羅にもがいてみたりすることがある。今が苦しくて苦しくて耐え切れなくなった時、ふと開き直って刃物を構えた現実と丸腰で向き合ってみたりする。やり方なんてわからない。現状を打破する方法なんて教科書には載っていないし、誰も教えられることじゃないから、迷いながら、戸惑いながら、それでも滅茶苦茶に暴れてみる。それは現実との対面と称した自分自身との戦いだ。なけなしの気勢、勇気、気合いと根性とを発揮して、しばらくはそれで頑張ってみたりする。でも大抵は手負いで終わる。現実って強固だ。やはり心の底からの激昂がなければ変化をきたさない。中途半端な気持ちで立ち向かう者を許しはせず、また認めもしない。
 自分を置物のようだと思うのには、それが原因しているのかもしれない。現実に背を向けられているような感覚。変わりたくても変われない、半ば諦めの境地に達した少しばかりの虚しさと物悲しさ。完璧な傍観者でいるつもりでも、実はどの輪の中にも入れずにいるだけの、はぐれ羊のような自分という存在。
 ――決して強くなんかないのに。
 ぼんやりと意識を飛ばしていた私は、そこではたと我に返る。自分の胸の内にぽつりともたらされた本心が、意外だった。
 堅固に聳え立つ城壁を思わせるような現実は、今、私の目の前にはない。
 なんだろう、こんな場所にいるからだろうか。花畑だなんて。日本の都会のど真ん中に住んでいたら人工の光の渦に囲まれることはあっても、生きている本物の花々に四方を彩られるなんてことは、まずない。
 いかなロマンチックアレルギー、な私にも、人並みの感性というものが一応備わっているわけだ。……多分。
 幻想的だと思った。だからこそそれに付随して、現実味も感じられなかった。正直、その光景に見蕩れていた。
 しかし雑念を振り払い冷静になって考えてみれば、この状況はあまりにもおかし過ぎる。
 ――これは夢の続き?
 私は一人、首を傾げてみた。普段なら絶対にやらない仕草である。それだけその時の私は、無自覚に焦っていた。
 夢の中で「これは夢なのかな?」なんて疑問を抱くことがあるのだろうか。いや、たまに夢の中で「あ、コレは夢だ」と気付く人もいるらしいが、少なくとも私自身にそんな経験は、十五年生きてきた中で皆無である。
 これは現実。そう自覚する。
 時折柔らかい風が茫洋としている私の頬を掠めていく。その度に淡い色の花々がそよ風に合わせて一斉に揺れる。桃色、黄色、橙色、紫色……、どの花も水で延ばしたような薄い色をしていた。認めよう。恐ろしく、奇麗だ。
 その不気味なくらい穏やかな風景の中に、私は独り佇んでいた。
 ――何故?
 ここがどこだかまるでわからない。
 私は蟀谷(こめかみ)を押さえてどっぷりと思考に埋もれた。
 記憶を呼び起こしてみる。
 ここで目覚める直前までの記憶を。


 その日は朝から暗かった。
 暗雲の垂れこめる雨空。私は雨振りが、実はそれ程嫌いではなかったりする。
 真っ黒な可愛げの欠片もない傘を差して、学校の帰り道を歩く。これは単身赴任中の父の傘だった。なんとなく気に入っていて、勝手に使っている。大きくて私には少し有り余る程だけれど、滅多なことでは濡れないから好きだ。
 分厚い雲に天を閉ざされた世界はまるで別世界だった。世界の終焉はきっとこんな日に訪れるんだろうと、私はふと考えた。
 自宅まで残りあと僅かという地点に差し掛かった時、私は大きな水溜りに遭遇した。
 アスファルトの道の、深く抉れたような部分に、まるで小さなダムのごとく水が溜まって揺れている。
 明らかに修復工事が必要だな、ここ。
 道に目いっぱい広がったその水溜りは結構深いようだった。土気のないアスファルトの道だったのでその水は透明で、底が透けて見えるのである。
 だから私は、少しばかり遠回りをすることにした。
 別に、足首までずぶ濡れになる不快感を避けたかったわけではなかった。なんとなく、だったのだ。ちょっといつもと違う道を行きたかった。それも自宅に限りなく近い場所なのだから、道の一つや二つ変えたところで迷うはずはなかったし、誰に咎められるわけでもない。途中に生活指導部の教諭が立っているというのなら別だけれど、そんなこともあり得なかった。
 私は来た道を引き返し、細い横道に入った。
 で、これが大失敗だった。
 いつの間にか住宅街から離れた見慣れぬ土地に足を踏み入れていたのである。道の両脇が小規模の森のようなものに変わった時、私は自分の浅墓なる愚行を認め、元の道に引き返すべく踵を返した。
 おかしいな。この辺は住み慣れた私の故郷なのに。迷うはずはないのに。
 というより、こんな所にこんな自然があったんだ……?
 まるで知らないうちに異空間に迷い込んでしまったかのような、と私は考えかけ、絶句した。そう、異空間。それに相応しい場所に自分はいた。
 両脇の鬱蒼とした林の中に、何か得体のしれない悪意が潜んでいそうな気がした。
 腐乱死体とかが転がっていたりして……。
 私はひくりと顔を引き攣らせる。いやいやいや、こういうのって非常に良くないぞ心臓に。止めよう!
 何でよりにもよって一人きりでいる時に、それも見知らぬ林に囲まれながらこんな空恐ろしい想像をしてしまったのか。
 秘蔵のホラービデオを見た後って、何故かそれっぽい出来事に遭遇したりするらしいじゃないか。あと、幽霊の話をしていると幽霊が集まってくるとか……。
 ひえ、と口の中で悲鳴を零し、私は歩みを早くした。気付けば雨は上がっていた。
 不意に林の中から鴉の大群が飛び立った。私は驚いて悲鳴を飲み込み、鴉達が西の空の彼方に飛び去るまで肩を強張らせて突っ立っていた。
 それで。
『あぁ漸く、引っ掛かったようさね』
「――!?」
 突然、老婆みたいにしわがれた声がした。確かそんな内容のことを言っていたと思う。
 私はぐるりと三六〇度、澱みなく周囲を見渡した。
 でも、誰もいなくて。
 その声はまるで耳元で囁かれたかのようにはっきりと明瞭な響きで届いたのに、声の主がいない、なんて。
 私は寒気を覚えて身震いした。背筋がぞわぞわとして、心臓が物凄い速さで脈打ち始める。それは自覚の追いつかない本能的な恐怖だった。
 慌てて林の道を抜けだそうと、踵を返した。
 が。
「うぐっ」
 ごっ、と鈍い音を立てて、私は振り向き様に何かに衝突した。
 「何か」にっていうか、「人」に。
 ――さっきまで絶対そこにいなかったはずなのに!
 私は二、三歩、ゆるゆると後退し、愕然としてその人物を見上げた。
 私と正面衝突したのは、人懐っこい笑みを浮かべた長身の男性。――ううん、何故か男性らしさは感じさせない人だった。でも背はとんでもなく高くて、下手したら二メートル半ば以上あるんじゃないかと推測する。着ている服は、これまたその人の登場に見合った奇抜さと面妖さを存分に孕んだものだった。和服っぽいその衣には所狭しと美麗な花の刺繍が施されていて、目に眩い。深い赤の地に薄桃色の大輪が咲き誇る春真っ只中といった風情のド派手な衣装だった。でも、何故だろう、彼にはよく似合っていた。肌はアジア系で、別段白くも黒くもない色なのに顔立ちはどことなく白人じみていて、いかにも異国の人、といった雰囲気を醸し出している。それにふわふわとした羊の毛のような……、でも色は燃えるような赤、という鮮烈な髪をしていた。というか、髪がめちゃ長い。引き摺るぐらいの長さだ。ただでさえ長身なわけだから、相当のものだ。とにかくそう、その人は色々と強烈過ぎた。
 呼吸と瞬きを完全に停止してただただ見上げるばかりの私を、その人は笑みを深めて覗き込む。どう考えたって不審人物なのだけれど、危険が感じられないから不思議だった。瞳に悪意が潜んでいないのだ。……ううん、私がどうかしているのかもしれない。
『いやはやなんともまぁ。まさに一寸先は闇さね。このような稚い少女が引っ掛かるとは……』
 い、稚い?
 私は彼が発した独り言のような台詞に衝撃を受けて思わず目を剥いた。
 確かに私は少々背が低いし童顔だが……、十五歳、れっきとした高校一年生である。あと半年もすれば十六歳、日本国では結婚だって許される年齢だ。稚いって表現は中学生に対してもちょっと無理があるような気がする。所謂幼児ぐらいの子供のことを指して言うんじゃないだろうか。
 ――ええっ、幼児!?
 今度は自分の内心の自己弁護に驚倒した。それじゃあ私は、幼児に見えるわけ!?
 そ、そんな。
 一人で勝手に思考を暴走させて項垂れた。しゅんとなって小さく嘆息すると、目の前のド派手な人物はきょとん、とあどけなくて無邪気な表情になって私の顔を覗き込んだ。
『おや。何をそんなに落ち込むことがある?』
 何がだ。会話がどうやら成立していないらしいな。というか私は先程から内心で色々とツッコミを入れたりなどはしているが、実際に口を開いて声を発したのは激突した際の「うぐっ」という、まったくもって情けなさの限りを尽くした呻きのみである。
 それにしてもよくよく聞いてみると、彼の声は見た目に似合わず高域な気がする。あのしわがれた老婆のような声は、やはり彼のものだったらしい。えらくご立派な図体をしてらっしゃるけれど、もしかしてもしかすると、もしかするのだろうか。つまりその、女性かもしれないという話である。
 ううむ、また思考が脱線したが。
 誰だろうか、この大きな人は。
 戸惑いがちにちらりと視線を上げて見てみると、相変わらずこちらを覗きこむように腰を折っている彼と、初めてまともに視線が合った。
 あれっと思わず目を丸くする程度には、整った顔立ちをしていた。それに新緑色の、意外なくらい澄んだ奇麗な瞳をしていた。
 その翡翠の瞳がふっと柔らかく細められる。どうも、子供っぽさと老人のような静謐さを併せ持つ人らしい。
『それにしても、小さい子だね』
「……!!」
 く、屈辱だ。
 何故こんな目に、いや、そもそも人にぶつかったからといってここで足を止めたのは私の意思によるものだ。
 よ、よし。
 ここは多少どころか果てしなく気になるこの目の前の人物のことは無視し、短い脚でガンバッテ全力疾走して帰路を辿るのがよろしいに違いない。
 壮大な決意のもと、私は彼の横を突っ切るべく地面を蹴った。
「うひゃあっ!?」
 ……我ながら本当に情けない乙女らしからぬ奇声、いや悲鳴である。
『こらこら、どこへ行く気さね』
 などと零しつつ、脇を駆け抜けようとした私のことを、その人がいとも容易くまるで何か小さな手荷物でも持ち上げるかのような動作でひょいっと持ち上げたのである。
 捕まってしまったよ……と私は虚ろな目をした。
 大きな彼は私の両腋に手を差し入れた状態で、自分の顔の前まで持ち上げると目の高さを合わせてきた。高い、怖い、高所恐怖症というわけではないけれど軽く怯懦の念が湧く。
「お、下ろして下さい……っ」
 漸く彼と向かい合った私が発すことができたのは、そんな惨めな懇願である。
 意を決してお願いしたというのに、彼は聞こえなかったのかそれとも無視したのか、地面に下ろしてはくれなかった。
 酷い、と罵りたいような気持ちに一瞬なったけれど、やっぱり彼の緑の双眸に悪辣とした色はなく、そんな気持ちは文字通り一瞬で霧散してしまう。
 そんな穢れのない純粋な目でじっと見つめられたら……反応に困る。
『汝の名は、何という?』
 ふと尋ねられた。
 え、私の名前を訊いているの。
 彼はぽかんとする私の身を抱え直した。片腕に座らされて、もう片方の腕で背中を支えられる。安定した体勢に変えられて私は不覚にも少し機嫌を良くしてしまった。全然それどころじゃないんだけど。
「志岐光です」
 ひたと彼の緑の目を見据えて答える。いや、嘘だ。本当はその綺麗な色の目に魅入られていた。しっかり捕らえられてしまったので、既に開き直りの境地でもあった。
『シキヒカリ……?』
 やっぱり外人さんなのかな? 未知の言葉を聞いた、といったような具合の顔で見つめ返された。まあ日本人からしても私の名前って変わっていると思う。
 というか、この人、本当に外人? 外国人?
 この奇抜な格好はコスプレなの?
 赤い髪の色も、染めたもの?
 彼が外国人のオタクで、こういった格好の登場人物が出てくる漫画だかアニメだかの大ファンだという方がまだ信憑性がある。にも関わらず、私は殆ど無意識にその可能性を頭の中から綺麗さっぱり除去していた。
 ヘンだ。私も、目の前の巨大な人物も。
 にこにこと笑いかけられて、満更でもなかったりする。私はつい、補足した。
「『志岐』が姓で、『光』が名前ですよ」
 しかもこの無愛想な私が、スマイル零円付きで。
 私の補足説明を聞いた彼は、納得したように頷いた。
『なるほど。私はてっきり「四季」の方かと』
 ……ん? 同音異義語が解かるということだろうか。もう本当、どこの国の人なんだろう。
 もしかして彼の国の人は皆こんなに背が高いのか……などとあり得ない想像をしてしまったではないか。一瞬またしても見当違いな方向に意識を飛ばした私であるが、彼によいしょと抱え直された振動ではっとする。
 再び視線を合わせると、淡く微笑みかけられる。
 それはなんだか儚くて、純真や老成とはまたかけ離れた次元の笑顔に見えた。
『光とは、良い名だね。汝がここに引き寄せられたのも肯けるものさ』
「……何の話ですか?」
『ふふふっ』
「あの……」
 何故無邪気に笑われるのかが分からなくて真意を尋ねようと口を開きかけたら、男の人の人差し指が唇に触れてきてぎょっとする。勿論如何わしい触れ方ではなく、「しーっ」というような感じで、喋るなって意味なんだろうけれど。
『よく覚えておいで』
 なんだか急に、男の人の声音が教え子を諭す先生のような気配を帯びた。気の所為だろうか。
『汝には多くの苦難が待ち受けていよう。だが、いかなる辛苦も悲嘆も憎悪も全ては「必要なこと」。汝は逃げてはならぬ』
 なんだか説教されている気分になった。そのためなのか、急激に眠気が襲ってくる。
 睡魔と闘う私に気付いているのかいないのか、彼は赤ん坊をあやす母親のように私の頭を撫でつつ、続けた。
『我が力の及ぶ限りは、幾らでも助けてやろうな。心に我を思い描くが良い。我としても悪い気はせぬ。汝が望めば、すぐさま駆けつけてやろうな』
 もう殆どこの辺りの台詞は私の耳に届いていなかった。いや、多分「音」として聞こえてはいるのだろう。ただもう脳が働かなくて。
『光。汝はきっと、我らが悲願を叶えてくれよう――』
 最後に見た、彼の、どこか懇願の籠った切なくて必死な眼差し。
 でも、白く、白くなる視界。
 ぷつりとテレビの電源が切れるみたいに、私の意識はそこで途絶えた。



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