烏龍茶



 俺の彼女が何か話している。一体何の話題なのか、俺にはもう理解が及ばない。それよりも俺は空腹だった。彼女には悪いけど、俺は俺の飢えを癒すので忙しいんだ。今は普段特別に可愛らしく聴こえるはずの彼女の声も喧騒の一部でしかなく、くるくると引っ切り無しに変わる見飽く事のない表情だってなんだか薄膜の向こう側で。咀嚼するので暇のない俺は彼女の話に「ふうん」とか「へえ」とかいった全く持って誠意のカケラも感じられない杜撰な相槌を返してやり過ごした。丁度彼女の話に一区切りついた辺りで俺の腹は満足した。
 満腹になるとそれはそれで今度は眠気に襲われたりする。俺は欠伸を噛み殺し、クリアになった視界に彼女の姿を収めた。彼女が俺の視線に気付いて顔を上げる。瞬き三回分の沈黙を経て彼女が唐突に次のような台詞を口にする。
「妊娠した」
 …………はい?
 俺は長らく瞬きと呼吸と思考とを停止させたのち盛大に飲み込み損ねていた口内の茶を吹いた。因みに烏龍茶だ。中国で烏龍茶と呼ばれるような飲料には大量の糖分が含まれておりクソ甘い味がするそうだがこの際そんな豆知識はどうでもよろしい。そもそもここは中国ではないし特にこれといった関連性もない。俺達付き合い始めて二年のカップルの現在地は日本のとある街中にある某ハンバーガー店だ。そうハンバーガー店。カップルで入るのには些かムードが足りない上に安っぽいが、何せ金がないので仕方がない。いやいやいや待て自分、落ち着け。問題はそこじゃないだろう。
「な、なな、何を言って」
 吃りつつもなんとかそれだけの言葉を発した俺に向かい、彼女ははぁ、と深い溜め息を吐いてみせた。えっちょっとナニ何なのソレその反応ってどういう意味よ? その時の俺の混迷振りといったらなかった。ヘタレと言われても即座に「そーですね!」と肯定するだけの自信がある。……なんて無駄な自信だろう。
 落ち着け俺、と胸中必死に自分へのエールを送信中である俺に、次の瞬間彼女が仄暗い笑顔を向けてきた。
「ちゃんと避妊しておくべきだったんだと思う」
 自嘲するみたいな口調で。俺は相変わらず脳内をクエスチョンマークで埋め尽くしつつ、慌てて言葉を紡ぐ。
「いやいやいや、待て。とりあえず俺に思考する時間をプリーズ」
「分かってるよ、私の責任だもん」
「え!? ……いや、寧ろ俺の方が激しく責任重大な気が」
 自分で口にした責任重大って言葉が胸に重く圧し掛かってきた。なんか息苦しい。つい先程詰め込んだハンバーガーが胃の中で巨大に膨張してしまったんじゃないかなんて現実離れした考えが浮かぶ。
 今度は俺が仄暗くなっていると、彼女がさも不思議そうに言ってきた。
「なんで? 私が気をつけなかったのが悪いんじゃん」
「いやいやいや」
「もうさ、出来ちゃったものは仕方ないよね」
「え? ぱ、パードゥン?」
「育てるしか」
「決定事項なの!?」
「そーだよー。だって私の子だもん」
「ああうう君の親になんて説明すれば」
「…………」
「殴られる、確実に殴られる。君の親父さん怖いもんなぁ!」
「……あのさぁ、さっきから何言ってんの? 意味が分からない」
「君こそ何言ってんの! 大事な話でしょーが」
「そりゃそうだけど……なに、龍一も一緒に世話してくれるわけ?」
「当たり前だろ!」
「へえー意外」
「意外って、君ね……」
 俺を何だと思ってるんだ、そう言葉を続けようとしたところを彼女が遮った。凄く妙なことを言い出す。
「ていうか龍一って猫アレルギーじゃなかったっけ?」
 はい?
 今の話と何の因果があるというのか。確かに俺はアレルギー体質だけれどもさ。…………って、猫?
 俺が目を点にして固まっていると、彼女は人目を憚ることなく爆笑し始めた。
「龍一、あんた何か勘違いしてたでしょ!? アハハ傑作!」
 猫かよ。
 妊娠って猫かよォォォ!
 一気に脱力した俺はしつこく笑い続ける彼女を横目で睨みつつ、ちびりと烏龍茶を口にした。
 苦ぇ。



 おまけ。
「…………」
「可愛いなぁマジで! さっきから鼻水が止まらないんだけどなんかもういいや」
「…………」
「うわっ、このチビ見てよ! 超引っかいてくるんだけど。こらぁ俺はお前の玩具じゃないぞぉつうか血が出てきたまぁいいけどな」
「…………」
「あっ、どこ行くんだチビ。一人歩きは危ないぞ!」
「龍一」
「何」
「何じゃない! せいやっ」
「ぐはぁッッッ! 今俺の体から鳴っては鳴らない音が鳴った。三途の川の片鱗をミタ」
「少しは私を構え鼻水野郎」
「うん分かったよハニィ。鼻水付くだろうけど良いかな?」
「良かねぇよ」
「もうどうしたらいいの」



(fin.)



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