奇麗なまま死なせて



「私は奇麗でしょう?」
「うん」
 無邪気ともとれる笑顔で尋ねられ、私は咄嗟に頷いた。
 彼は奇麗だ。恋人贔屓を抜きにしても、世界中の誰よりも奇麗だ。
 けれど、本人の前でそれを認めてはいけないような気がしてきた。
「だから」
 だから……?
 あぁほら始まった。私は彼の狂乱の引き金を引いてしまったらしい。
 ここはいち早く眠らせてしまうのが得策だと冷静に考えた私は椅子を立ち上がり、彼の元に駆け寄ると、腕を引く。
 彼が私を見下ろす。艶のある唇には奇麗な笑み。
 その笑みを見た途端、私は、もしかして彼はいつも通りの彼で、この後私にもたらされる言葉は単に彼が気紛れに囁く睦言の類なのではないかと現実逃避に似た考えを抱いてしまった。
 そんなはずはない。
 だって、まるでガラス玉のような瞳をしているもの。私を見ているようで、実はもっと別のものを見ている。
 夢見るような眼差しで彼が夢見るもの――そう、自分の無残な死体姿、とかね。
 さらりと一度、髪を梳かれた。白い指先にくるくると私の漆黒の髪が巻き取られる。それに目を遣りながら、彼は口を開く。
「だから私が醜悪な心で貴方を穢してしまうその前に、私はこの首に銀のナイフを滑らせたいのです」
 彼が愛しているのは私ではなく銀のナイフなのではないかと半ば本気で疑いつつ、彼の茫洋とした瞳を見つめ続けた。
 そんなに銀のナイフと一つになりたいのだろうか、彼は。
 いつだったか彼は実際、私の手に銀色に煌めくそれを握らせたことがあった。
 あの時は本気であって、本気ではなかった。その例に当て嵌めるならば今回の彼も本気であって、本気ではないのだろう。
 彼が何を言いたいのか、私は考えを巡らせる。
 答えに辿り着けないもどかしさ、息苦しさ。私を悩ませるのが彼の趣味なんだろうか。内心の動揺も悲しみも辛さも表情に出さないから、彼は何を言っても私が傷付かないとでも思っているのだろうか。だとしたらそれは私の自業自得であって、勘違いしている彼の所為ではない。だから私には泣く権利がない。このまま死ぬまで永久に、私は仮面を着用し続けなければならない。今更仮面を剥がして彼を戸惑わせるのは、卑怯だ。
「貴方は幾つでしたか」
「は……?」
 予想だにしない質問をぶつけられ、私は呆気にとられた。
 幾つ……。歳を尋ねているのか。年齢が関係しているのか、今回の狂気には。
 でも、こんなヒントってない。
「十七、だけど」
「そうでしょう」
 彼の両手が私の頬を包み込む。温度の無い、氷のような掌だった。
 もしかして彼はとんでもなく緊張しているのではないかと、ふと気付いた。
「私は貴方より一回り以上も年上です」
「……うん。知ってるよ?」
 彼の手に自分の手を重ねた。私の手も彼と然程変わらぬ冷たさを秘めていたことに自分で驚いた。
 くすりと彼が微笑む。瞳は相変わらず水面のようだった。
「ほら、貴方は分かっていない」
 額に冷たい唇が落とされた。本物の氷に触れられた時のように、後からじわりと熱を持つ。
 最早張りついてしまったかのように笑みを刻んでいる唇を、私はぼんやりと目で追った。
「考えたことがないのでしょう、私との未来を」
「ある」
「ないでしょう?」
 即座に切り返され、言葉に詰まる。未来って、彼が言う未来って、私が思い描くものとはかけ離れているのではないかと気付き始めていた。
「……ある」
「ないでしょう。未来とは、『最期』のことです」
 最期。
 最期と、年齢。
 まさかと思った。
「私はそう長くは生きられません。精々後十年」
「…………」
「貴方を残して死ななければならない」
「…………」
「愛しているのに」
 何か言おうと開きかけた私の唇の上に、彼は人差し指を置く。
 ぽたりと何かが私の顔に落ちた。無色透明な、不思議と温かい雫。
「私の愛はいずれ貴方を殺めてしまう。貴方の血に私の手が赤く染まるその前に、死なせて下さい」
 止めなければと、靄がかかったように判然としない意識の中、思った。
「だから、さようなら」
 痛いほどに目を見開く私。離れる温もりと、静かに閉まる扉の音。
 私はどれぐらいの間その場に座り込んでいたのだろう。多分それは自分で感じたよりも僅かの時間であったのだと思う。
 私はまろぶように部屋を飛び出した。
 心臓が壊れそうなぐらい早く脈打っているのが分かる。耳元に心臓があるみたいだった。
 検討もつかぬまま駆けていると、長身の後ろ姿を見つけた。
 全力で残りの距離を詰めて。
 特に驚くでもなく振り向いた彼にほんの少しの安堵を覚えつつ、私は彼の腰にきつく腕を回した。
「奇麗なまま死なせて下さい」
 泣いて縋ればその意志を変えてくれるのだろうかと、馬鹿げた考えが浮かぶ。
 らしくもない、後ろ向きな考えだ。
「ねぇ、死なないで」
 泣いてたまるものかと唇を噛み締める。彼の顔を見たら駄目になりそうだったから、彼の服に顔を埋めたまま。
「死なないで」
 沈黙が続いた後、私の腕は彼の手によって引き剥がされた。
 恐る恐る見上げると、視線が絡む。藍色の揺れる水面のような双眸。
 不意に彼はその顔を歪めて顔を逸らした。
 ――私から目を逸らしたということは、まだ一縷の望みがあると考えて良いのではないか?
 彼はそれに賭けようと思えないだけで。
「どうしたら良い?」
 気付けば彼にというよりは自分自身へ向けて、そんな問いを投げかけていた。
 彼と共に歩む未来を、夢見ずにはいられない。
 その先に待つものから、目を逸らさずにはいられない。
 彼が私を殺す、という未来。
『貴方も気付いているでしょう?』
 ふと、いつだったか、遠い日の彼の台詞が思考の隙間に滑り込んできた。
 あの頃の私は幼かった。年齢ではなく、魂の在り方が。
『私が狂っているということを』
 ただ本能がその言葉が不吉だったことを覚えている。
『私が罪深い人間であるということを』
 貴方が私を罰して下さい、彼はそうも言っていた。
 分かっている、知っている。彼の罪を。
 そして私が彼の二つ目の罪の原因となりかねないことも、今理解した。
 でも。
 私は心の底から安堵して微笑んだ。彼の袖を引いてこちらを向くように促すと、意外にも素直に従ってくれた。
「大丈夫」
 この「大丈夫」は、自分の心への確認事項。
「私は最期まで貴方と一緒にいたいの」
 彼が僅かに目を見張った。
「しかし、私はもう……」
「分かってる。私の最期は貴方の最期」
「どういうことですか」
 私は満ち足りた笑顔で、言ってやった。
「いいよ。是非とも貴方の手で殺して」
 表情の抜け落ちている彼の両手を取って、軽く揺さぶった。最後まで聴きなさい。
「貴方が私に何も残せないまま死んでしまいそうになった時は、ね」
 通じただろうか?
 彼には変に鈍いところがあるから。
 でも、心なしか赤い顔でそっぽを向いた辺り、大丈夫そうだ。
「未来なんて、貴方だって考えていないんじゃないの」
 無責任な人、と続ければ、幾分不貞腐れた様子で軽い睨みを寄こしてくる。
「貴方が今自ら死を選ぶ理由は、これで無くなったね」
 懲りずに笑いかけると、彼はゆるりとこちらを向いた。
 そして緊張が解けたかのように崩れた笑みを浮かべると、私を抱き締めてくれた。
 きつくきつく、苦しくて息も出来ないくらいに。


 その後、私は宿敵たるくだんの銀のナイフを彼から取り上げ、躊躇なく暖炉に放り込んだのだった。



(Fin.)



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