貴方の手で殺して



 愛と憎悪が表裏一体をなしているのならば、恋と死とは紙一重だ。


 殺して下さい。
 馬鹿の一つ覚えみたいに、彼がそう繰り返すから。
 私は泣き笑いの顔を浮かべて、地面に膝をついて足元にしがみ付いてくる彼の頭を、ただただきつく胸に抱いた。
 分からない。
 誰より美しく笑うことのできる彼が、何故死を冀うのか。
「殺せない」
 震える吐息に乗せた言葉はしかし、彼の脳には響かなかったみたいだ。
 力加減なんて考えずに目一杯抱き締めてしまったけれど、彼は苦しいとも痛いとも言わずにされるがままになっている。狂気の気配が去ったのか、それともこれは嵐の前の静けさというやつなのか。
「殺せるわけがない。どうしてそんなことを言うの? 私に殺人者になれと?」
 昼間まではいつもと変わりなかったのに。
「貴方が愛して下さらないから」
 私の胸元に顔を埋めたまま彼が不鮮明な声で呟いた。
 私は彼の頭を解放すると、温もりを秘めた透明な雫を次から次へと絶え間なく生成し続けている二つの双眸を凝視する。漸く、目が合った気がする。
「……一応、それなりに愛してるつもりなんだけど」
「違う、違う」
 駄々をこねる子供のように頭を振る彼。指先で彼の目元を拭ってみたけれど、涙の泉は止まらなかった。
 困り果てて、私もその場に膝をつく。
 幾ら人通りの少ない廊下とはいえ、所詮は廊下。人が通るために作られた空間なのだから、この世界に生きる人間が私と彼の二人きりでない限りは、ここを誰かが通る可能性は否めない。
 どうしたことか。
「何が違うの?」
「貴方は私の愛を拒みました」
「……いや、拒んでないし」
「いいえ」
「拒んでな」
「いいえ!」
 涙目で睨まれ、私はたじろぐ。強膜は充血しているし目の周囲だって赤く腫れている。おまけに鼻の先が赤い。それなのに彼の美しさは損なわれておらず、どころか一層美しくさえ見えた。
 涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっている彼の顔を私は自分の服の袖を使って丁寧に拭ってやった。
「貴方は悪魔のようだ」
 何故そうなる。
 拭ってやっていた方の手首を強く握られ、床に押さえつけられた。硬く冷たい床と柔らかく温かい彼の掌の対比に眩暈を覚える。
 私の骨が軋む。ひょっとしたらこのまま折られてしまうのかも。
 それでも痛いなんて表情には露ほども見せずに彼を静かに見つめ返す程度には、彼を愛しく思っているのに。
「そうやって、私に期待を抱かせる」
「…………」
 一体何の期待だろうか。私は彼の藍色の瞳に魅了されながらも、真剣に考えた。
「責任を取る気もないくせに」
「…………」
 責任? これまた何の責任なのだろうかと、私は考える。
「殺して下さい」
 そしてまた、堂々巡り。
 彼は酷く落ち込んだ様子で膝を抱え込むと、顔を完全に伏せてしまった。
 さて、どうしよう。
「……好きだよ?」
「…………」
 頭を撫でながら告白してみたが、効果は零で。
「大好き」
 再び彼の頭を抱き寄せたら、彼が微かに身じろぎした。
 何だろうと思って少し体を離して見つめると、驚く程澄んだ瞳に捕らわれる。
「何故ですか」
 『何故』? 彼を好きな理由を訊いているの?
「そりゃ、色々と……」
「違う」
 違うって、何が。
「貴方は分かっていて、そのように残酷な台詞を囁くのか」
「分かっていて……?」
 何を?
 先程から彼は何の話をしているのか。
「貴方は私を愛しては下さらない。貴方の熱の籠った眼差しが私を射抜く日は未来永劫訪れないというのならばいっそ、貴方の手で殺して下さい」
「…………」
 一体どこに隠し持っていたのか、彼は銀のナイフを取り出すと、有無を言わさぬ気迫でそれを私の手に滑り込ませ、握らせる。
 そして私の手に手を重ねて握ったそれの切っ先を、自らの喉に押し当て、低く囁いた。
「――眠りにつくなら、貴方の腕の中が良い」
 私に何かを悟らせる、妖艶な笑みを口元に浮かべながら。



(Fin.)



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