ひかり



『お前に幸せになる権利なんて無いよ』
 壊れてしまった大切な貴方へ。本当に、そうかもしれない。今はそう思う。


 ずっと、淡い期待があった。貴方は男の人に優しくされるのが好きだったから、自分もそうすればいつか振り向いて貰えるんじゃないかと。勿論実際の貴方は男の人なんて好きではなかったし、僕を好きになってくれるなんてことも、とんだ夢物語に過ぎなかった。だって貴方は誰よりも何よりも僕を憎んでいたのだから。
 こうすれば、必ず好きになってもらえる。いや、そうでなかったとしても、どこかに必ず好きになってもらえる手立ては在る。
 そんなどうしようもなく子供な考えに、今は虫唾が走るだけ。
 思い切って瞼を持ち上げてみた。辺りは仄暗い。けれど空は鮮やかな青色に染まっているから、夜明けが近いのだろう。
 悪夢によって無理矢理に覚醒を促された僕はしかし、もうあどけない子供などではなかった。
 額から嫌な汗が落ちたのに気付いて、僕は顔を顰める。
 ふと小さく、懐かしい名前で呼ばれて、僕は緩慢に振り向いた。
「おい、平気か」
 珍しく彼が心配してくれたようだったけれど、僕は久しく聴かなかった音色に反応して、動けなくなってしまった。勿論、彼は数少ない皮肉以外の意味でその名前を口にする人間だった。それは分かってる。でも、あんな夢を見た後に聴きたくはなかったな。
「酷い顔だな」
「……顔洗ってくる」
 なんだか話が噛み合っていない自覚はあった。立ち上がるとふらふらしたけれど、構わずにそのまま行こうとしたところ、背後から手首を掴んで引き止められた。
「瑠璃」
 白い布の巻かれたボロボロの彼の腕を見て僕は漸くある事に思い至った。だから僕、座ったままで眠っていたんだ。
「そういえば僕が見張りをするんだったね」
「……いいから、戻れ」
 命令口調なのに声音がまるで彼ではないみたいに優しいので、僕は思わず上げないと決めていた顔を上げて彼と目を合わせてしまった。てっきり声の通りの穏やかな表情を浮かべているとばかり思っていた僕は、やっぱり夢見がちだった。いつになく強い意志の宿った瞳から、僕は目を逸らす。
「もう良いだろ」
「え、何が?」
「…………」
 あれ、今度は黙り込んだりしてどうしたんだろう。全く彼らしくない。元気なだけが取り柄なのにね。
「瑠璃?」
 そのままずるずると引っ張られて元の位置に戻されてしまう。なんだ、やっぱり傍若無人なんじゃないか。
「寝てろ」
 僕は東の空を見上げた。もう随分明るい。灯りだって消してある。今から寝たら起き辛くなるだけじゃないか。
「僕はいいよ。瑠璃こそ寝ていなさい」
「おい」
 言い方が気に入らなかったのか、瑠璃が目つきを鋭くする。そんないつも通りの彼の反応に安堵する自分と、違和感を覚えた自分と。
 あぁ、違うかもしれない。いつもと様子が違うのは僕の方なのかも。
「本当に変わったな」
 ごく小さな声だったけれど、僕の耳にはそう届いた。でも、聴こえなかった振りをした。
 思わず息を詰めたのは絶対に秘密。瑠璃に本気で心配されるようになったら終わりだ。死ねと言われる方がまだ良い。
 瑠璃が嘆息して樹の根元に戻る気配を背で感じながら闇の残骸を見つめ続けた。こうなると僕はもう、次に彼に声を掛けられるその瞬間まで動けないんだろうなと意識の外で理解しつつ。僕は闇に魅かれる。幼き日に僕を守ってくれたのは闇だけだったから、これは一種の洗脳なんだと思う。多分一生変わらないんじゃないかな。
 ねえ、光は闇を照らすんじゃない。
 僕は世界の支配者が太陽に変わる瞬間、恐怖する。否、恐怖した。今はただ睥睨するだけだ。守り続けてくれる存在なんて結局どこにも居ない。最後は必ず突き放す。僕はこんなにも胎内の闇に焦がれているのに。
 希っていた。生まれたくなんてなかった。ずっとあの人の中に居たら、ちゃんと愛して貰えていたはずなのに。
『遠くへお行き。二度と顔を合わせる事が無いよう、彼方へ』
 あの日の幻影。けれど耳元で言われたような錯覚を起こし、僕は両耳を手で塞ぐ。
『どうしてお前はそうなの。私を不幸にする』
 目を瞑れば広がる紛い物の闇。贋物は、いつもあの人の言葉からは守ってくれなかった。
『あぁ憎らしい子』
 そうか、憎いのか。なら僕はもう、貴方に振り向いて貰える日を夢見たりしない。六つになった頃、そんな誓いを自分の心に立てた気がする。そんなものは自分を守るための脆弱な盾である以外、真の意味での誓いとはなり得なかったのだけれど。だから僕は今も本当は、そう、きっと夢見ている。馬鹿みたいに。
 微かな呻き声が聴こえたのはその時だった。僕は一瞬、それも幻聴かと勘違いしてしまった。けれど、衣の裾を引っ張られて気付いた。呻いたのは、僕を絡みつく幻影からいとも容易く奪い取ったのは、今も眠り続ける少女だということに。
「……、」
 名前を呼ぶのは憚られた。悪夢でも見ているのか苦しげに眉を寄せていた彼女は、かと思うと僕がその場に屈んで手を握ったところで安らかな寝顔に戻ってしまったので。ううん違うよ、手を握ったのは偶然。あまりに強く僕の裾を引っ張るから、このままでは破かれ兼ねないと思って引き剥がそうとして指先で触れた瞬間、彼女の方が握ってきたんだからね。驚いたのは僕で、つまりこの行動の主体者は彼女で。うん、ここに無罪を宣言する。決して疚しい思いに突き動かされたわけでないのは、まぁ、多分確かなんだと思う。
 なんだか憎らしいくらい安らかな寝顔だった。悪夢からは抜け出せたんだろうか? 覚醒以外に逃れる術を知り得ない僕としては、少し羨ましい。
「酷い名前だね」
 彼女は、僕なら迷わず溝に捨てる名前を平気で名乗るような少女だ。まぁ、だからこそ可愛いんだけれど。
『覚悟は出来たのか』
 先日、瑠璃に言われた言葉だ。僕は曖昧に笑って答えなかった。それでも瑠璃が僕を問い詰めないのは、この現実がその答えだと勝手に解釈している為なんだろう。違うのにね。覚悟なんて出来た試しがないのに、何を今更。
 僕は繋いだ手をどうしたものかと途方に暮れ、何気なく見つめてみた。不意に細くて滑らかなそれがまたしてもあの人を思い起こさせる。もう本当に、今日はどうしたと言うのだろう。「彼」に近付いているという事実があるだけでこんなにも心が揺れるなんて思ってもみなかった。思考は止まらない。あの人はこんな手をしていた。いつまでもお姫様みたいな人だった。いつも沢山の、僕が知らない男の人に囲まれて鮮やかに微笑んでいた。僕を見てはくれなかった。
 と、彼女が寝返りを打った拍子に絡んでいた指先はすり抜けて行った。思えば「彼」もこうして、余韻を残すことなく呆気なく去って行ったのだ。
 今はなお深い漆黒の髪に目を止める。あぁ、思えばこの子は瞳まで真っ黒だ。
 面白い子だと思う。「光」なんて突拍子も無い名前を持っているくせに、その色は闇に溶けてしまう。変な子。白と黒は同時には存在し得ないはずだから、今はきっと眠っているか、化けの皮を被っているか、あるいは演じているかのどれかなんだろう。
 ねぇ、君はどっちなのかな。
 願わくば、闇に飲まれる脆弱な光であって欲しい。



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