遠い、記憶。
 魂に刻まれるまでも無かったはずの、凡そ取るに足らない、小さな……小さなひとひら。

 淡い、記憶。
 魂まで響き渡ることも無かったはずの、凡そ有り触れた、仄かな……仄かなひとひら。

(ごめん、なさい)
(ねぇ、ごめんね)
(私……また、貴方の迎えを待てなかった)
(僕……もう、君を迎えには行けなくなった)


 油断も隙も無い。限りなく絶望に近い衝撃の最中、少女は痛切にそう思った。
 世界のどこを探してもこの光景を望んでいた自分が見付からないことは、先に断っておきたい。
『ねー砂里君』
 とびきり甘えた女の声に、少女は並々ならぬ吐き気を覚えた。知らず口元を手で覆う程に。
『んー?』
 満更でもなさそうに返事をする彼、砂里――砂里命(さり みこと)。
 彼女の、何より誰より大切なヒトだ。
 ……それがどうしたことだろう? 何故、彼は自分を放置して他の女と親しげに談笑しているのか。
 分からない。少女の心に漆黒の暗雲が垂れ込める。重く、鈍い感覚だ。眩暈がする。
『私ってカワイイよねぇ?』
 何故? またしても少女の心に納得のいかない思いが湧き起こる。そんなことを態々人様の恋人に尋ねる(いや、尋ねるというよりは確認すると言うべきか)すっ呆けた女が居て良いものか、いや良い筈がないだろうと。
 一瞬、砂里はその視線を教室の出入り口付近に立っている彼の彼女へと向けた。ほんの一瞬、いや刹那。瞬き一回分にも満たない僅かな間。だがしかし、その刹那の交錯こそが少女にとっての唯一の永遠でもあった。それを知ってか知らずか、砂里は鮮やかに彩った微笑を彼女ではなく隣の女生徒に閃かせて見せる。その横顔に彼の彼女が悲嘆するのは目に見えているというのに。
『うん、可愛いよ』


 少女は忌々しげに砂里を見た。
『よくああいうことが言える』
 目一杯の憎しみを込めて吐き出した台詞なのに、彼は頓着した様子すら見せずに小首を傾げた。
『ああいうこと?』
 少女の中で何かが爆ぜる。
『……きらい! 貴方のそうやってすぐに人の言葉を鸚鵡返しにする所きらい!』
『あー。ごめんね』
『なんで相手が怒るのか、その原因を探求する前に気安く謝る所もきらい!』
『あー』
『解ってないでしょ。解ろうって思い自体浮かばないんでしょ? サイアク。てきとーにご機嫌取ってればそれで女が靡くとでも思ってんの? ていうか何で顔が良いわけ。性格との釣り合いがまるきり取れてないジャン! こんなのズルイ、天は二物を与えずなんて誰が言い出した。きらいだ大きらいだテメェなんか』
 不平不満というものは概してひとたび口を割って出ると、中々止められないものである。
 砂里はただ困ったように微笑む。傷を負った者特有の優しい瞳に彼女の姿を映し出す。
『……なんか僕、キミに嫌われてばっかだね?』
『今更!?』
 少女の怒りはそう簡単に収まらない。
『うん。ごめんね』
『…………』
 そら見たことか、言ってる側から軽い謝罪を口にして。少女はもう言葉を発しはせず、眉根を寄せた。砂里は気付いているだろうに、まるで気付いていない振りをする。中身の無い茶番を少女の為に幾度でも繰り返してみせる。
『でもさ、「可愛い」は必ずしも褒め言葉であるとは限らないと思うのね』
 この台詞には無言を決心したはずの少女も知らず「……は?」と目を丸くした。
 砂里はここぞとばかりに笑みを深める。
『例えば僕が誰かに可愛いって言われても嬉しくないわけ。その誰かがたとえキミだったとしてもだよ』
『…………』
 少女が無言なのは砂里の言葉に納得したためではない。呆れているのである。
『うん、だからね。あの「可愛い」は僕にとって一つの事実である以上の意味を持ち合わせていないの。他人への評価にはなり得ないし、ましてや好意に分類されるものでもない』
『……言い訳』
 少女のなけなしの意地から生ずる言い掛かりも、砂里は笑顔で回避する。
『ねぇところでさ、』
『人の話を聞け』
『キミのそれは、やきもち?』
『はあああああ!?』
 結局何もかもお見通しなのではないかと、思い知らされただけだ。


 いつもいつも、勝手に怒っているのは私だった。黙って苦笑するのは貴方だった。余裕が無いのは私だった。どんな時でも包み込んでくれるのは貴方だった。
 手を引くのは、歩く速度を合わせるのは、立ち止まって振り向くのは、気長に待つのは、怒らないのは泣かないのは、守るのは、戦うのは、犠牲になるのは、綺麗なのは、寂しいのは、眩しいのは、……全部全部貴方だった。
 頼りないのも、我が儘なのも、追いかけるのも、約束を破るのも、怒るのも泣くのも、弱いのも、逃げ出すのも、救われるのも、汚いのも、傷付けるのも、嘘吐きなのも、――そしてそんな貴方を裏切ったのは私だった。


『そろそろ帰らなきゃ。ねぇ、キミは本当に待てるの? あと半世紀以上もあるんだよ。薄情な僕のことなんて忘れて、他の男と一緒になったって良いんだよ? ううん、怒ったりしない。それが定めってやつだもの。……分かった。でもね、僕は嬉しいけれど、キミの人生なんだからね。途中で選択を変えたって構わないし。うん。有効期限は、設けないでおくから。好きにしな?』
『そうそう、お願いだから自殺だけはしないでよ。地獄行きになっちゃうからね。キミは天寿を全うして、ちゃんとしわくちゃのお婆ちゃんになってから死んでね』
『……ねぇ、僕が迎えに行くんだから。他のが来たら断るんだよ、いいね。時間の概念から解放されてもすぐには慣れないだろうけれど。どんなに待ち遠しくても、勝手に動いたりせずに大人しく待っておいで』
『最後まで言ってくれないんだね。……いいよ。僕も、待っていて欲しいなんて言わないから。ううん、言えないよ』


堕ちる、
嗜虐の神々が定めし運命に翻弄されたのは、人間の少女だけではなかった。


(永遠にさようなら、愛しいひと)
(もう二度と貴方には廻り逢えないのに、私はこれから先何度も何度も産声を上げなければならない)


 肉体から解放された少女の魂魄は、俗界と天界の狭間に辿り着く。
 言いつけ通り大人しく待っていると、やがて「見知らぬ」天使が少女の前に舞い降りた。片手を胸に優雅に辞儀され、少女も慌てて頭を下げる。
「貴方を迎えに参りました」
 天使は事務的な声でそう告げる。表情が無く、血の気のない陶器の肌はさながら人形のようだった。
「はい。でも私、待っているヒトが……、先約がいるんです」
「妙なことを仰いますね」
「そうかもしれませんが、確かに約束したんです」
「貴方の担当はこの私ですよ」
「ごめんなさい、あの、申し訳ありませんけどお断りします」
「無茶を言わないで下さい」
「ご、ごめんなさい」
「最近そういう者が多いのですよ」
「あ、そうなんですか」
「主も頭を悩ませている」
「…………」
「貴方が言うその御使いとは、誰のことです。場合によっては交代も可能です」
 少女は一度だけ聞かされた彼の天使としての名を音にする。
「そのような名の御使いはおりません」
 けれど、返って来たのは無表情な否定。
 目の前の天使は困惑する少女の腕を強引に引こうとする。
「でも、」
 少女が足を踏ん張るので、天使は目だけで振り返ると簡潔に付け加えた。
「今はね」
「……え?」
 混乱する。今は、ということは以前はいたということだろう。では、どういう理由で「今は」いない?
 入れ違ってしまったのだろうか、尤もらしい結論を導き出した少女に、年長の(といっても見た目は二十代前半の青年である)天使は不快そうに眉を顰めた。
「先日、耳に致しました。そのような名の、新参の悪魔が居ると」
 少女の瞳が大きく見開く。まさか。まさか、でも、神に仕える天使が嘘を吐くことがあるのか。
「あく、ま?」
「ええ」
 その話が真実なら、自分はどうしたら良いのか。少女は混乱する頭で必死に考える。
「……待ちます、私、」
「なりません」
 天使はまた無表情に戻って少女を見つめる。
「どうしてですか、ここには時間の概念が、」
「俗界はそうではない。貴方はここにいれば永遠にその姿のまま、その『貴方』のままでいられるが、俗界では今も貴方の転生が必要とされている」
 だから貴方はいつまでもここにいることは出来ない、永遠を知ってはならない。さあ早く、主の御元へ参りましょう。



(Fin?)
元:『記憶、共鳴、狂おしいほどアイシテル』
加筆修正:09/07/18



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